これ!どう思います?

マスコミがあまり報道しない様な問題を、私なりに考えてみます。

日本の活性化❺ :デジタル化(その4)

2022-10-01 06:46:36 | 工業技術
【はじめに】
 民間企業では、「ドンナニしてデジタル化を進めたのか?」二回に分けて投稿します。「国や地方公共団体は民間企業の努力した歴史を参考にすべきだ!」と思うからです。

【大企業のデジタル化】
 (50年以上も前の)1971年に私はK社に入社したのですが、会社にはIBM製と富士通製の大型コンピューターが各1台導入されていて、デジタル化が始まっていました。本社・支店・工場などの殆どの部署に大型コンピューターに接続された端末機(表示機、キーボード、簡易プリンター等)が設置されていました。

【K社の製造管理プログラム】
 K社はプログラマーを養成して社内用の種々のソフトを開発していました。その一つが『製造管理プログラム』です。このソフトは非常に良く出来ていて、私は良く利用しました。既に、アクセス権が設定されていました。

アクセス権の概要 :レベル1のアクセス権を認められると、その事業部の全ジョブ(仕事)の製造管理プログラムにアクセス出来ました。レベル2(ジョブの管理者)が認められると、彼が担当するジョブにだけアクセス出来、レベル3の社員はプログラムの限定した範囲にしかアクセス出来ない、・・・。

 営業部署の『A』が機械装置『B』を受注したとします。営業Aが近くの端末から製作命令書をインプットすると→→大型コンピューターシステムの中に『B』用の経理データ・ファイルが出来ます→→設計担当者が部品『C』を手配すると→→資材担当者が金額を決めて→→『D社』に発注し/インプットします→→受け入れ検査部署に部品Cが入荷すると→→「検査に合格して受け入れた」とインプットします→→経理部が資材担当者が決めた部品Cの代金をD社に支払い→→「支払済み」とインプットします。

 私が勤務していた会社(K社)では、部品点数が数千点にもなる大型の機械装置を製造していました。上記の様な作業を手書きでやっていたら、トンデモナイ人手と書類の山が出来てしまいます。どこかの部署が部品を1点でも手配するのを忘れたら、装置は完成出来ません。このシステムでは、発注したか?、予定通りに入荷するか?、予算内で発注されているか?・・・種々の情報を得られる様になっていました。

 入社した頃は、アルファベット、英数字、カタカナしか使用出来ませんでしたが、暫くして漢字、平仮名も使用出来る様になりました。その後、受け入れた部品の保管場所も登録される様になりました。

 その後、本格的な自動倉庫が導入されると、倉庫の何処に保管したか?何時/誰が倉庫から持ち出したか?・・・等の情報が製造管理プログラムで分かる様になりました。

(余談 :社内の抵抗/悲惨な結果) 万年黒字の工場が有りました。その工場で製造する装置は一式数千万円~数億円しました。社外から調達する部品は1点が数十万円~数百万円もしました。部品点数が少なく、手配と経理処理が簡単だったのです。 社外から物を調達する資材課の役割を兼ねた経理課が有りました。

 1988年に私が所属していた課が、(手掛けていた装置を持って、)その工場に転属になりました。工場長に呼ばれて、「君達の装置は部品点数が多いいから、君を設計課と経理課の兼務にする」と言われました。経理課に挨拶に行くと、課員全員が大きな声で私を罵倒し始めました。

 当時、定年は60歳に延長されていましたが、55歳になる前に殆どの社員は子会社か協力会社に出向するか、早期退職していました。経理課の担当者達は全員55歳以上でした。彼らの言い分は、「パソコン(PC)を使ったら、二人で十分仕事がこなせる→→そしたら、残りの人間は出向させられる→→もう直ぐ定年だから→→PCは断固拒否する」、「君達の装置の資材と経理の仕事はするから、手出しするな」でした。

 会社は、(その数か月前に、)気の弱い社員(E氏)を課長に昇格させて、経理課長に異動させていました。 E氏は色々な部署から連日の様に、『製造管理プログラム』を使えと言われ、課員からは無視され続けていました。私達が転勤して直ぐに、胃潰瘍になって入院してしまいました。二、三カ月ほどして退院したのですが、課員達はPCを拒否し続けたので、E氏は数カ月後に亡くなってしまいました。

【社内メール・システム】
 私は、1972年からノルウェーの兵器廠・コングスベルグ・ヴァペン・ファブリーク(現在:コングスベルグ・グルッペン)と技術提携してガスタービンを国産化するチームに参加しました。資料は全て英語で、連絡も英語でした。私は英語が苦ってだったので、課長が私を鍛える為に、コングスベルグ社への報告書/質問書の作成、コングスベルグ社から来たレターの翻訳等をほぼ100%やらされました。

 ノルウェーは冬季オリンピックで活躍するので、日本人の多くは国名は知っているのでは?と想像します。人口は、兵庫県とほぼ同じ540万人程の小さな国です。(現状は知りませんが)当時は優秀な若者達はアメリカの大学に進学していました。コングスベルグ社の上層部は殆どハーバード大学やマサチューセッツ工科大学(MIT)を卒業していました。

 ビックリ!したのは、大型コンピューターを使用した社内メールシステムが既に有った事です。 報告書の上部に配布先欄が有り、数字が記載されていました。 『1』は社長、『2』は副社長、・・・『21』は”2”と言う部署のトップ・・・。配布先欄に数字を記入すると、自動的に発信した様でした。

 作成した報告書は、キーワードを付けて大型コンピューター・システムに記録されていました。私がテレックスで技術的な質問をすると→→担当の女性が受け取って→→過去に似た質問をしていたら→→彼女から「〇月✕日の報告書を見て下さい」と言うテレックスが送られて来ました。

 私が勤務していたK社で、アップルのパソコンとソフトを使用した社内メール・システムを導入し始めたのは1990年頃です。日本では早い方だったと思いますが、コングスベルグ社よりも20年以上遅れていたのです。 アット言う間に社員は社内メールを利用する様になりました。私のパソコンで作成した文章を、社内メール・システムで送って、遠くの営業所のプリンターで印刷出来る様にもなりました。

【中小企業のデジタル化】
 25年程前の1996年に私は中小企業に出向しました。私が出した出向条件は「パソコン(PC)を用意してくれること」でした。 会社の都合などで数社の中小企業で働きました。 正に、中小企業でPCの採用(デジタル化)が始まっていました。

 会社ではアップルのPCを使用していたのですが、出向する事が決まった時、若い社員達が「ウインドウズ(Windows)のPCが主流になって来る」とアドバイスしてくれたので、Windowsの入ったノートパソコンを買いました。出向した中小企業でアップルのPCを使用していた所は皆無でした。

 大企業と中小企業の違いは、大企業ではプログラマーを育てて、社内で使うソフトを作成していましたが、中小企業では市販のソフトを使うのが精一杯だった点です。

 旧帝大の機械工学科卒の社長の会社で、(母校の教授に依頼して作って貰った)ベーシックを使った技術計算プログラムを数点使用する会社が有りました。社長も含め誰もベーシックを勉強していなかったので、プログラムの内容を理解していませんでした。経験から、計算結果が少し可笑しい事は気付いていました。

 エキセル(Excel)には簡単な図を描く機能が有ります。私は、ベーシックのプログラムを、ポンチ絵付きで、解説付きのExcelプログラムに直しました。大学教授が作成したプログラムには、結構沢山間違いが有りました。(トンデモナイ間違いの有るプログラムも有りました。)

(余談 :工学の計算) 多くの中小企業では、強度計算や力学の計算等が出来る社員がいません。私は個人的に、中小企業から「何回も作り替えたりしたが、直ぐに破損してしまうので、原因を究明して欲しい」と依頼された事が複数回有りました。その一例を書きます。

 特殊な機械を設計/製造する中小企業(F社)が有りました。何方でもご存知の設備産業の大手(J社)から、F社が販売していた機械の能力の3倍程も超える大型機を受注していました。 私がチェックして見ると、強度不足で、手直しでは対応出来る状況では無く、再設計が必要でした。

 強度計算書を持参して、社長と設計部長に説明したのですが、二人とも内容を全く理解出来ませんでした。社長が、「こんな難しい仕様を要求したF社が悪い」と恰も(あたかも)私をF社の社員の様に食って掛かりました。結局、強度計算書は突き返されました。

(余談 :残念な話し) 工業高校の機械科を卒業した後→→歯科技工士の専門学校に進んで資格を取得したのですが→→歯科技工士は供給過剰ですから、就職先が無く→→アルバイトしていた男性を機械設計担当者として採用した事が有りました。CADを少し教えただけで使える様になりました。その頃、私が手掛けていた機械について、少し教えただけで、ほぼ任せられる様になりました。私は、沢山の若者に機械設計を教えましたが、彼ほど才能の有る若者はいませんでした。

 入社して数カ月後に、「友達が居酒屋を始めるので、辞めます」と言い出しました。「君ほど機械設計向きの人はいない、『天職だ』と思って頑張って欲しい」などと説得しました。「僕は、学校では何時も落ちこぼれだったので、そんな話しは信じられない」と言って、辞めてしまいました。今でも、残念に思っています。

【機械加工のデジタル化】
 私が入社した1971年に、会社では大型コンピューターを用いたCADで作成したデーターで、工作機械を動かす『CAD/CAMシステム』を取り入れた部署が有りました。 ズット後に、大手企業企業ではパソコン(PC)CADデーターを少し細工して『CAD/CAMシステム』を動かす様になりました。

 1990年代に電子メール(Eメール)が普及する様になると、注文企業がEメールにCADデーターを添付して発信し→→加工業者が図面をプリントアウトする様になりました。注文企業と受託企業間が数百キロメートル離れていても、超特急の場合は、Eメールした日から加工に着手出来る様になったのです。

 量産機械加工をする多くの中小企業で、1990年には数値制御工作機械(NC加工機)を導入して、四直三交代で24時間、土日も操業する様になりました。

 一番感心した工場は、広い工場の中にNC加工機を沢山配置して、中央にガラス張りの空調の効いた10畳ほどの部屋を設けて、女性のプログラマーを二、三人、四直三交代で勤務させて、プログラムに不備が有ると、夜中でもプログラムを修正出来る体制にしていました。NC加工機を操作する作業員の40%程は女性でした。

 残念ながら、この工場は10年程して閉鎖されました。顧客の多くが中国に生産拠点を移したので、注文が段々減少したのが原因だった様です。

【N社のデジタル化】
 1996年に私が最初に出向したN社は、社員30名程で、製紙機械を設計/製造していました。制御設計担当者2名だけがPCで作業していました。1年もしない内に、機械設計用の(余り売れていない国産)CADを導入しましたが、相変わらず手書きで図面を作成していました。 私は会社(K社)の都合で、4年後にN社から→→別の会社へ→→・・・→→また別の会社に出向させられ、60歳の定年を迎えました。

 10年後の2006年に、(定年になる直前に、)N社の社長から「高給を出すから来て欲しい」と言う電話を頂いたので、入社しました。 10名程の設計担当者は全員PCで仕事をして、CADを使っていました。 62歳になられていた社長もPCをマスターされていました。

 作成したデーターを各自が、自分用のCD-RW(Compact Disc ReWritable)に保存していました。 私は、「火災などでデーターが消失する恐れが有るので、全員のデジタルデーターを部として集めたCD-RWを作成して→→→コピーを火災の恐れの無い場所に保管すべきだ!」と提案しました。 誰も耳を貸してくれませんでした。

 社長の友人が経営する会社で火災が発生して→→事務所が全焼して→→PCが焼けてしまったそうです。 次の日に、社長は私の提案を採用してくれました。 各設計部員のデータを→→部のCD-RWに定期的に入れ→→定期的に2部コピーして→→1部は火の気の無い工場の倉庫→→1部は社長の自宅に保管する事になりました。

(余談 :若く見える女性の虐め) 2006年頃に、AutoCADとマイクロソフト社のオフィスに入っているソフトが使える女性を探す事になりました。私の知り合いの人材派遣社に、「見習期間が過ぎて、気に入ったら、2ヶ月分の給与相当額を渡すから、正社員にする」と言う条件を出しました。40歳過ぎの女性を紹介してくれました。

 彼女は、直ぐにN社が採用していたCADも使える様になり、AutoCADに変換した時の『化け』を修正出来る様になりました。 英語の知識も少し持っていたので、私が英文の見積書や取扱説明書を作成する時、手伝って貰いました。 仕事は早いし、ミスが殆ど無かったので、彼女を正社員しました。多分妬みが原因だったと推察しましたが、男性社員の一人(M氏)が彼女を虐める様になって、彼女は一年程して退職してしまいました。 虐めは犯罪です。特に男性が女性を虐めるのは見ていられません!

 私はM氏に、「彼女のどこが気に入らないのか?」と聞くと、「10歳以上若く見えるので、虫酸が走る!」と言いました。確かに彼女は小柄で可愛らしい顔をしていて、若く見えました。精神科の先生だったら、彼に良いアドバイス出来たかも知れませんが、私にはどうする事も出来ませんでした。

【CAD教室】
 2005年頃の話しです。某社の設計担当者だった資産家の男性(T氏)が神戸市の洒落たビルの広いスペースを借りて、機械設計のCAD教室を始めました。三次元CADを教えるのだったら、生徒が集まったと思いますが、T氏は二次元CADしか使え無かったのです。

 私の知る限りでは、工業高校の卒業生の場合は、PCの操作は出来ます。機械科卒だと、二次元CADは直ぐに使用出来る様になります。従って、CAD教室に入るのは、普通科卒が大半です。 普通科卒でも、三角法とAutoCADを教えて、企業に送り出せば十分です。然し、それでは、1~2カ月程でCAD教室は教える事が無くなってしまい、経営が成り立ちません。

 私はT氏に、「二次元CADを教え→→次に三次元CAD→→CAD/CAMを教える様にしたら、1年間は有意義な学習になる」とアドバイスしました。T氏は「機械工学の基礎を教えたい」、「ドンナ内容にしたら良いか?考えて欲しい」と言いました。

 1ヶ月ほど掛けて、報告書を作成し→→T氏に説明しようとしたのですが→→T氏は私が話し始める前に→→「生徒達の多くは、高校の勉強が好きで無かったと思われる。そんな子供を机に座らせて教えても身に付くはずがない!」と言い出しました。私も同感でした。 暫くして、T氏はCAD教室を止めた様でした。

令和維新のすゝめ (その8)

2020-10-31 11:24:50 | 工業技術
★★★★ 技術革新と物作り ★★★★
【はじめに】
 2019年の消費税2%アップと新型コロナで、日本の経済はズタズタになっています。菅政権の最優先課題は、当面は『新型コロナの感染拡大を防ぎながら、経済の減速を最小限に抑える』、コロナ後には『経済を如何に回復させるか!』です。

 バブル崩壊(1991年~93年)の後に、即効性の無い漢方薬の様な減税対策や補助金支給をやって、『失われた20年』になってしまいました。こんな施策を続けたら、コロナ後の経済回復は出来ないのでは?

 今回は、日本の経済にとって将来も重要な、工業における物作りの話しです。 私の経験した事を書きます。

【ノーベル賞】
 今年・日本人はノーベル賞を貰えませんでした。ノーベル賞の受賞者数とGDP(国内総生産)は密接な関係が有ると言うコメンテーターがいます。 この説は一見真実の様に思えますが、日本のデータをベースにして考えた結論です。 ノーベル賞の受賞者数とGDPは、直接の関係は有りません。

 人類の発展にとって重要な事に、発明と発見が有ります。ノーベル賞は『発見』に対する賞の様です。『発見』は重要ですが、直ぐに金を産む事が少ないので、発見者に何か報いを与えるべきだと考えて、ノーベル賞が出来たのでは?

 逆に言えば、ノーベル賞の対象になる学問は経済の発展には直接関係しないか、影響が少ないのです。 「日本人がノーベル賞を貰えなくなったら、経済が後退する」と考えるのは誤りです。 中国人と元中国人の受賞者は8人、韓国人は金大中の1人だけですが、経済は発展しました。誰かの発見をベースにして、発明して→特許を取って→商品化したら儲かるのです。

 「ノーベル賞受賞者が誕生する様な教育をすべきだ!」と言う方がおられますが、一国に限ればノーベル賞受賞者が増えても経済が発展する分けでは有りません。「寧ろ、経済発展に貢献する人材を育成する教育が必要だ」と私は思います。素晴らしい研究者が必ずしも、若い人を上手に教えられるとは限らないのです。 (後日、私の考えている「教育改革について書きたい」と考えています。)

(余談) 誰でも知っている偉大な発明家・エジソンやアレクサンダー・グラハム・ベルは、ノーベル賞を受賞していません。

(余談) ノーベル賞には6部門有りますが、経済学賞、平和賞、文学賞は止めたらいいのにと考えています。経済学賞はアルフレッド・ノーベル(ノーベル財団)とは無関係です。スエーデンの国立銀行が設立した賞です。経済学者には申し訳ないですが、経済学を捏ね回しても、現在の経済は良くならないと思うからです。 寧ろ、「数学賞、考古学賞を新設したら良い」と思われませんか?

 平和賞は、ノーベルの遺言で始まりましたが、その選考委員はノールウェーの国会が選んでいて、(スエーデンでは無く)ノールウェー国が与える賞です。 「佐藤栄作、金大中、バラク・オバマ・・・の諸氏が世界平和に貢献した」と思われますか? 余りにも、政治的な賞だと思います。

 文学賞も止めた方が良いと思いますが、続けたいのなら『芸術賞』に改称して、文学だけでなく、音楽、絵画、陶芸などなどの賞にすべきです。

【安く作る工夫】
 安く作る工夫/考案は、新しい機械を開発するのと同じくらい重要です。 嘗て(かつて)、日本の多くの職場には『提案制度』が有りました。 生産性向上や品質アップが期待できる提案をすると、報奨金が貰えたのです。ブルーカラーの人達の、チョットしたアイディアが予想以上の効果を発揮したケースが多々有りました。

 戦後、日本の工業が急激に回復/成長出来たのは、「社員の提案を真摯に受け取る体制」が有ったからだと思います。「塵も積もれば山となる」と言いますが、チョットした提案が沢山積み重なると、職場は効率化して/活気が出て来るものです。社員の提案を大切にする企業は、品質を落とさないで『より安く』作れると私は思います。

 私が務めていた会社で提案制度が衰退したのは、報奨金の額を下げてノルマを課したからです。 多分、提案が重要だと気付いた頭でっかちのエリート社員が提案したのだと思います。 「採用賞には五百円ほど、努力賞には二百円ほど出すから、毎月・一人2件以上提案しろ」と言う様な規則を作りました。 目標の件数に達しない課の課長は、上から毎月怒られるので大変でした。

 文章を作るのが得意な社員が、本来の仕事をしないで職場を徘徊して、他人の提案書を作成するアルバイトを始めました。(課長は黙認していました。) 1件・五百円ほどで請け負っていた様でした。 100人から依頼されたら、毎月「100✕2✕500=100,000円」も小遣いが稼げた分けです。 更に、問題だったのは審査担当者でした。 本業の仕事をしながら、沢山の提案書を読んで、採用賞と努力賞を決定して、お金を配って回ったのです。

 素晴らしいアイディアを期待するのであれば、ノルマを課しては駄目です。素晴らしいアイディアは、次から次へと湧いて来るものでは有りません。 会社の経営者に次のアドバイスをします。

① 社員に問題意識を持ってもらい、無駄を省くには?品質を向上するには?・・・何時も考えてもらいましょう!(アイディアが湧く社員は少数です。出来ない社員に強制するのは止めましょう!)
② 愛社/愛職場精神が持てる雰囲気作りが必要です。
③ 提案の内容を吟味しましょう。効果の期待出来そうな提案には、納得出来る報奨金を出しましょう!
④ 検査成績書を改竄する様な不正が横行する企業では、素晴らしい提案を期待するのは無理です。
⑤ 悪徳御用組合が暗躍する会社が、社員の提案を期待するのも無理です。

(余談 :頭でっかちの人間が作ったら駄目な例)
 私が務めていた会社が、1990年頃に広い!広い!機械工場を建てました。メインの建物は370m✕340m程も有りました。(その面積は、甲子園球場や東京ドームのグラウンド面積の10倍ほどになります。) 私は、その横に建てた事務所棟で4年程勤務しました。

 着任して直ぐに、工場を見て回りました。知り合いのブルーカラー社員が沢山いたので、挨拶したのですが、皆さん異口同音に「不便で仕事にならない」と言うのです。この工場には、機械部品の加工、機械の組立/試運転、梱包/出荷、外注部品や機器の受け入れ/保管などのスペースと、巨大な自動倉庫が有りました。

 この工場は原則『受注生産品』を扱っていました。 〘受注生産品は、顧客の要望を聞いて→設計して→生産するのです。見込み生産品(汎用品)は別の工場で生産していました。〙受注生産品でも、機械の基本部分には殆ど変更が無いので、図面の大半は繰り返し使用されました。 品質保証の基本の一つは図面の管理です。 現場で使用する図面には朱印を押して、工場内に設けた図面管理室にブルーカラー社員が取りに行って、作業が完了したら速やかに返却する事になっていました。設計者が勝手に図面を持ち込むのは、硬く禁止されていました。

 問題は、広い工場の中に図面管理室が一か所しか無かったことです。一枚の図面を借りて/返すのに2往復・1km以上歩く必要が有りました。

 測定工具(マイクロメータ、ノギス、ダイヤルゲージなど)の管理も重要です。工場内に一か所設けられた工具管理室から、検査済みの工具を借りて/測定が終わったら返す事になっていました。 測定工具を1個借りるのにも、1km以上歩く必要が有ったのです。

 私が一番ビックリしたのは、自動倉庫の籠です。籠は頑丈な金網製でしたが、網目が10cm以上も有るのです。 自動倉庫の責任者に、「こんな籠に小さな部品を入れたら落下してしまう」と言うと、近くで働いていた数人が集まって来て、「スタッフに何回も言っているのに改善してくれない。貴方から言ってくれ」と頼まれました。 完全なルール違反でしたが、私は小さな部品や機器を、自分で受け取って組立場に持って行きました。

 籠に入らない大きな物を並べるスペースが設けられていて、担当者が何人かいましたが、毎日多量に入って来るので、彼等でも置き場所が分からなくなるケースが多々有りました。手配した設計者は形状とサイズが分かるので、「探して下さい!」と電話が掛かって来ました。私は何回も呼び出されました。 結構・区分けして置いていましたが、モータだけでも百台以上並んでいて、探すのは大変でした。

(余談 :教訓)
 人間が新たに作った物では最初・大抵不具合が発生します。不具合を早期に洗い出して対策をする事が肝要なのです。(これは、法律や政府の施策でも同じです。)

 前述の工場の工場長(K氏)は常務になられていましたが、その前に別のセクションの平取の時、K氏の首が掛かった開発が暗礁に乗り上げていました。 急遽・私が引き継いで成功させました。開発の目途が立った時、K氏は料亭で宴会を催してくれ、「この借りは必ず返す」と言ってくれていたのですが、新工場では私に傲慢な態度を取りました。

 K氏に報告する時は、直立不動が要求されました。何回か会議に参加しましたが、メンバーの意見を聞くのでは無く、K氏が長々と自分の考えを喋る会議でした。 私は、二、三回意見を述べようとしましたが、話し始めると直ぐに怒鳴り出すのです。工場の問題点をK氏に報告する事は、誰にも出来なかったのです。

 結局、K氏が工場長の間は改善は進みませんでした。傲慢な態度を続け無かったら、この工場の売り上げが二、三百億円ほど有ったので、更に業績を伸ばしてK氏は専務になる事が出来たと思いました。

【生産コストの把握が必要です】
 私は中小企業と一緒に仕事をしたり、出向して働いたりしました。中小企業の多くは、自社製品の製造コストを把握していませんでした。期末に帳簿を締めて、初めて赤字/黒字が分かる有り様だったのです。

 生産コストを下げる為には、何にナンボ掛かるのか?把握する事から始める必要が有ります。素材費、加工外注費、社内加工費、塗装費、組立費、検査/試運転日、出荷/梱包費・・・等をそれぞれ把握する必要が有るのです。一見簡単な様に見えますが、結構難しいです。 特に社内の作業時間を、「どの仕事に何時間掛かったのか?」分析するのは難しいです。(細部に拘わらないで、ザックと集計するのがポイントだと私は考え、実践しました。)

 私は中小企業に出向しても設計と開発の仕事をしたのですが、時間を作って生産コストを算出する為のデータを集め、見積積算プログラムを作成しました。 問題点が沢山見つかって、加工外注先を変えたり、購入ルートを変えたりしました。 私が別の会社に移った後、多分・私が作成した資料やプログラムは使ってくれなかったと思います。(「生産コストを把握する事が重要だ!」と言う意識を、中小企業で定着させるのは難しく、時間が掛かります。)

 某社では、その会社でしか製造できない(昔から製造していた)機械を生産コスト以下(大幅な赤字)で売っていました。 顧客にとっては必要不可欠な機械でしたから、値上げを受け入れてくれると思ったのですが、社長は反対しました。 何とか社長を説得して、取引の少ない会社に価格アップの交渉をして見たら、すんなりと受け入れてくれました。

 私は東京勤務の時、(小遣いで)定時後に中小企業診断士の教室に通って勉強しました。最初から資格試験を受けるつもりは有りませんでした。 入社以来、中小企業の社長達と付き合っていたのですが、アドバイスを受け付ける様な社長は殆どいませんでした。 社員の提案を殆ど受け付けない社長が、金を出して中小企業診断士を雇うとは思えなかったので、私は資格を取らなかったのです。 勉強にはなりました。

 「どんなにしたら、より多くの中小企業が自社製品の生産コストを把握出来る様になるか?」色々考えているのですが、妙案は浮かびません。 思い付きですが、「工業高校で生産コストの集計方法と重要性を教える」案はどうでしょうか?! 「中小企業診断士を国の金で派遣する」案には賛成出来ません。

【中小企業は大切な存在です!】
 日本には中小企業庁が有り、中小企業基本法も有って、税制優遇などで中小企業を保護しています。 然し、私の目から見ると、「現場に足を踏み入れた事の無い、政治家と官僚達が昔ながらの経営をしている会社を支援/保護している」様に思えるのです。素晴らしい技術を持っていたり、種々工夫して頑張っている会社が沢山有ります。 官僚諸君!、机に”へばりつかない”で、そんな会社を見つけ出して、重点的に支援して下さい。

 20世紀の末頃から、日本では大手企業が需要の少ない分野(ニッチ)から撤退する様になって来ました。 中小企業は大企業の下請けのイメージが強いですが、大企業が抜けたニッチで活躍している会社も多々有ります。 こう言う会社は、小規模でも大企業並みの給料が出せます。

 私は中小企業に出向して、求人の仕事もしました。 求人倍率が『0.9』以上になると、中小企業に応募する人は少なくなります。 特に、機械工(工作機械のオペレーター)の求人は難しかったです。 機械工になりたい若者が少なく、経験豊富な機械工は自宅から遠いい職場に移るのを嫌がる傾向が有る様に思います。

 中小企業の税制優遇なども必要でしょうが、”金”以外にも「人が集まらない!」等々、中小企業の悩みを官僚諸君は聞いて回る必要が有ると思います。

【廃業してしまっていた!】
 日本の悪い慣例の一つに、適正価格では無く『叩いて!叩いて!買う』が有ります。某大手企業が大金を投入して生産ラインを大改造する計画を進めていました。私の勤めていた会社の機械を買ってくれる事になったのですが、そのラインに不可欠な装置を製造していた会社が全て撤退している事が分かりました。

 その装置の設計/製造には経験とノーハウが必要でしたが、修理は町工場でも出来ました。安いい価格を要求されて、メンテナンスもさせて貰えないので十年程の間に全ての会社が撤退していたのです。 私の会社の社長が安請け合いして、私が製造して貰える会社を探す事になりました。八方手を尽くして、関東の田舎に大昔に製造していた会社が現存している事が分かりました。

 電話では、「来て頂いても、期待には沿えない」と言われたのですが、他に当てが無いので出掛けました。 結構大きな工場でしたが、古い!古い!建物でした。社長は45歳ほどでしたが、社員は10名ほどしかいなくて55歳~70歳程に見えました。 全く別の分野の仕事をしていました。 社長は、「社員が全て60歳以上になったら会社を閉める計画だ」と言われました。 「今の仕事は少し儲かっているが、東京に近いから求人を出しても応募が殆ど無い。」様な話をされました。

 更に調査しましたが、見付からないので再度説得に行きました。 「顧客の計画を聞いても良い」と言ってくれたので、帰りに途中下車して顧客を訪問して、「次回、資料を持って私に同行して欲しい」と話したら、「資料は渡すが、出張は出来ない」と言い出しました。

 結局・私一人で三回目の出張をしました。工場長が顧客の計画資料を見て、「こんな現象が起こるので、この計画は成り立たない」と明言されました。帰社後、シミュレーションプログラムを作成して検討したら、工場長の予想通りの結果になりました。この装置が無いと顧客の大改造計画が成立しないのです。

 この改造計画には顧客担当者の課長昇格が掛かっていて、工場の偉い方から「君の会社には損はさせないから、君の会社経由で受けてくれ」と言われました。 それで、種々の工夫を加えた構造にして、シミュレーションプログラムを修正して、何とか成りたちそうな所まで持っていきました。 結局、現地で少し改造が必要になりましたが、何とか完成させる事が出来ました。

(余談) 普通・改造工事をする場合は、改造前の機械や装置を切断したりしてスクラップにしますが、この時は人手を掛けて再組立出来る様にして取り外しました。万一私の担当した装置が旨く出来なかったら、元に戻す事まで顧客は考えてくれていたのです。

 別の工場から、別の装置で同様の依頼が有りました。 別の会社に出向した時も、メーカーが撤退してしまった機械の製造依頼が来ました。 「昔は出来たのに、今は作れない」のは、正倉院の御物の話しだけでは有りません。

紙の話し (その4)

2019-09-07 01:06:31 | 工業技術
 今回は、紙に関する最終稿です。古紙の回収と特殊な紙について書きます。

【古紙の回収】
 昔、読んだ本には、「日本で古紙の回収が始まったのは江戸時代だ」と書いていましたが、1,000年以上も前に始まった様です。日本を含め、アジアでは古くから古紙を再利用していた様です。(”ゴミ”の回収/再利用の問題では、古紙に限ると日本は優等生です。) 私がエコパルパーの開発を始めた頃(1993年頃)でも、アメリカでは古紙の回収が進んでいませんでした。

★古紙についてのお願い :古紙は強力な陽光が当たらない場所に保管して下さい。私は、新聞古紙で「周囲の湿度を変化させると、古紙の湿度がどうなるか?」実験して見ました。新聞古紙は周囲の湿度の変化にかなり敏感に追随して変わりました。紙は、一度『5%以下』の湿度にしてしまうと、強度が低下し、その後加湿しても強度は回復しない様です。古紙を炎天下に置くと、短時間に限界の湿度以下になってしまい、見た目は変わりませんが、再利用出来なくなってしまいます。

 古紙回収業者の数か所の工場を見学しました。大きな倉庫の中に、戦争映画に出て来る「監視塔」の様な分別室がありました。集めて来た古紙は、ベルトコンベヤーで分別室に上げます。分別室では数人の人が異物を除去して、古紙を床に落とします。古紙は、ベーリングマシンと呼ばれる圧縮機で大きな直方体か正方体に成形され、強力な樹脂テープで結束します。(大本紙料のホームページを検索してみて下さい)

【古紙回収の業界】
 古紙業者にはベーリングマシンを持たない小さな個人企業もありますが、そう言う会社は中堅の工場を構えた会社に持ち込みます。各社には、不文律のテリトリー(縄張り)がありました。戦前/戦中に創業した企業が多く、朝鮮半島出身の創業者も多かった様です。創業当時は、差別も有って種々苦労された様でした。新聞紙や段ボール用の紙の原料は、大半が古紙ですから古紙回収業者を大切にする必要があります。

 私は、魚の腸(はらわた)を有機肥料にする事業を始めてくれそうな企業を種々当たりました。その中に朝鮮半島出身を示す『姓』の、古紙回収業者の社長がおられました。容姿端麗な壮年の紳士で、会社の経営状態も良好の様でした。その社長に何回かお会いして、有機肥料化の可能性について説得て、了解を得ました。私の会社でその計画を話すと、殆どの上司が反対するのです。粘り強く説得したので、許可は出ましたが、朝鮮半島出身への差別が厳然と存在する事を実感しました。(その後、直ぐに開発終了命令が出たので、有機肥料化は出来ませんでした。)

(余談) 日本人には、困った時に助けてもらった恩義を一生忘れない人がいます。(以下の話しは某古紙業者の社長から聞いたもので、真偽の程は分かりません。)ダイエーの創業者の中内功氏が困っていた時に、大本紙業の先々代(?)の社長が助けたそうです。中本功氏は、ダイエーから出る段ボール古紙を全て大本紙業に引き取って貰う事にしました。その後、ダイエーは全国に店舗を持つ様になり、大本紙業は神戸以外のダイエーの店舗から出る段ボール古紙の権利を、「キロ何円」で地元の業者に譲渡して、大儲けしたそうです。現在、大本紙業は業界でトップクラスの企業になっています。

【段ボール】
 『段ボール』は外国語が起源の様に思っていましたが、英語は『 corrugated cardboard』です。現在、ダントツの段ボール製造企業になっている、『レンゴー』の創設者・井上貞治郎氏が命名した、商品名(?)です。

 種々の紙が製造されていますが、生産量では段ボールの用紙(段ボール原紙)と新聞用紙が一二を争うと思います。波状に加工されたのを”中芯”、その両側に貼られた紙を”ライナー”と呼びます。中芯原紙もライナー原紙も種々製造されています。 段ボール原紙の原料は、ほぼ古紙です。古紙を輩出するのは大都市ですから、段ボール原紙の製造工場は大都市に近い方が有利になります。

 段ボール原紙は大きな工場で製造されますが、段ボールは消費地の近くの比較的小さな工場で製造されています。私の予想では、全国で1,000工場ほど有るのではと思います。中芯を波打たせる機械をコルゲータ(コルゲートマシン)と呼びますが、結構大きな音を出します。人家から離れた場所に建設した工場で、その後宅地開発が進み、騒音の苦情が来る様になって移転を検討している所も有りました。

(余談) 段ボールは意外と少量生産品です。強度、箱に組み立てた時のサイズ、印刷する会社名や商品名等々、その組み合わせは予想以上に多いいのです。逆に言えば、貴方が、数がそれ程多くない特注品の段ボールの製造を依頼しても、リーズナブルな価格で対応して貰えます。

【レンゴーさんの話し】
 私がレンゴー(株)の本社に初めて行ったのは、2003年頃です。当時は、ヒートパイプと言う技術を応用した製品に取り組んでいました。レンゴーには段ボール製造機械の開発部署が有りました。開発部署の開発した機械は、レンゴー旗下の工場以外には売ってはいけない事になっていました。担当者は若手の優秀な方で、ヒートパイプを組み込んで性能改善を目論んでいました。”取らぬ狸の皮算用”で、自由に全国に販売したいと頻りに言っていました。(私は、その検討中に別の会社に出向させられたので、その後の経過は知りません。)

 レンゴーは、1999年に長年の競合会社だった”セッツ”を吸収合併して、ダントツの会社になりました。段ボール原紙の製造の点では”セッツ”の方が、設備も技術も大幅に勝っていましたので、この合併によってレンゴーは予想以上の収穫が有ったと私は思いました。(当時は、製紙機械メーカーで仕事をしていました。)

 2005年頃の話しですが、段ボールも手掛けている製紙会社の方と雑談していたら、「レンゴーは農業協同組合(JA)をほぼ独占している。レンゴー製の様に少し水が付いた野菜や果物を入れても大丈夫な段ボールが出来たらJAに食い込めるのに!」とぼやいていました。

【トイレットペーパー】
 トイレットペーパーは水に比較的簡単に溶けますが、特別な原料(繊維)を用いている分けでは有りません。繊維の絡まり具わいを、わざと抑えているのです。出来るだけ繊維が同じ方向にな並ぶ様にする等の工夫した漉き方をしているのです。(普通、紙には強度が要求されますので、漉き方を工夫して繊維が均等に絡まる様にしています。 要するに、 トイレットペーパーは強度を出さない漉き方をしているのです。)

 下水処理場には毎日多量に紙の原料が流れて来る事になります。1980年頃に、東京都のある下水処理場で、昔風の四角く裁断したグレーの”落とし紙”を作っていました。私の隣の席の社員が、その処理場に出入りしていたのですが、打合せの度に、落とし紙を持って帰らされるので困っていました。

 私の家では2年に一度、業者に依頼して排水管の洗浄をします。トイレは余程の事が無い限り排水管の洗浄は必要有りません。日本のトイレは排水管が太いので、目詰まりが起こらないのです。世界にはトイレでも細い排水管になっている国が有ります。そんな国に旅行された時は、絶対にトイレットペーパーを流してはいけません。

(余談) トイレットペーパーやティッシュの工場は、紙粉が多量に舞っているそうです。そういう工場からも検討依頼や設備診断依頼が来ましたが、社長は私を連れて行かず、派遣もしませんでした。当時、私はヘビースモーカーで日に二箱は吸っていました。夏でも空咳をしていたので、労わってくれていたのだと思います。社長は古希を迎える前に亡くなられました。生きておられたら、時々会って技術の話しが出来たのにと、残念でたまりません。

【漫画本の用紙】
 最近、漫画本は余り見掛けなくなりましたが、先日、電車で隣に座っていた方が読んでいました。独特の厚手の紙を使っています。昔は本を安くする為に、品質の悪い紙を使用していた様です。講談社が「日本も豊かになったから、良質の紙の方が喜ばれるのでは?」と考えて、普通の本に使用されている紙を使って見たそうです。本は薄くなって輸送費も抑えられ、展示スペースも狭く出来、インクの発色も良くなる・・・いいこと尽くめの様に思えます。予想に反して、売れなかったそうです。

 漫画本用の紙は、製紙会社に技術がないから悪質な紙なのでは有りません。機械は最新鋭ですが、わざと悪質(?)に作っているのです。

(余談) 講談社が印刷した裁断前の紙を見た事が有ります。新聞と同じA1サイズの紙の両面に印刷していました。どんなに続くのか?考えるのが楽しかったです。漫画本一冊分を、裁断しないで、ホットメルトの様な接着剤付きで”製本キット”として販売したら、子供も大人も楽しめると思いました。頭の体操になります。

・・・補足・・・A1の両面に印刷してA4サイズの本を作る場合を考えて見て下さい。A1の紙には表裏で16ページ分が印刷されている事になります。製本する前に4分割し→折り畳む→強力な接着剤で製本します。例えば、P80の左側にはP81が印刷されます。P80の裏はP79です→P79の右側がP82になるのです。

【私と藁半紙】
 1996年に製紙機械を設計/製造する会社に出向しました。そして、直ぐに某製紙会社の製紙技術に詳しい重役さんに懇意にして頂ける様になりました。時々、居酒屋で呑んでいると昔の苦労話をしてくれました。その話しの一つが、藁半紙の製造でした。(もうお年でしたが、新しい技術を積極的に採用され、英語の専門誌も読まれていました。翻訳を依頼された事もあります。残念ながら、古希を迎えられる前に亡くなられた様です。)

 稲藁を原料にしたので『藁半紙』なんです。現在、市販されている藁半紙は、樹木の幹を原料にして、藁半紙に似せて作った物です。

 終戦直後は紙の原料を入手するのが難しかったのです。一方、米、麦、豆類、炭などは稲藁で作った俵や筵(むしろ)に入れて都会に送られていました。従って、都会には稲藁が多量に集まったので、都会の近辺に有った製紙工場では社員が手分けして、稲藁を集めたそうです。

 稲藁には繊維が少ないので、カス(残渣)の方が多く、その処理が大変だった様です。「それでも、食べるために皆で頑張った」と言っていました。(非常に短期間だった様です。)

(半紙) 半紙とは、和紙のサイズの事です。大判(全紙)を半分に切ったサイズで、約25cm×35cmです。 (A4サイズ・21cm×30cmの藁半紙を売っていますが、いくら何でも可笑しいですね!)

【コーン紙】
 スピーカーにはアナログの電気信号が入って来ます。磁石がコーン(振動体)を前後に動かし→周囲の空気が振動し(音は縦波/空気の濃淡です)→音が発生します。コーンの良し悪しは、スピーカーの音質を左右します。 (スピーカーの木の箱は共鳴箱の働きをして、これも音質にとって極めて重要です。ギターやバイオリンのボディに相当します。)

 コーン(cone)は円錐の英語です。スピーカーのコーンは、種々の材質で製造されている様ですが、主流はコーン紙です。和紙の原料などを混ぜ合わせて、硬い紙にする様です。(詳しく知りたい方には、(株)ギフトクのホームページを推奨します。)

 私は、原料を混ぜ合わせる”ビーター(叩解機こうかいき)”を2台製造しました。西部劇に登場する、四隅が丸くなった浴槽の様な形状で、真中に島の様な物があり、流れるプールの様に水がグルグル流れるのです。水底に昔の洗濯板状の部品を置き、その上で放射状に板を取り付けた筒を回転させる、超原始的な構造でした。

 韓国向けの案件でしたので、残念ながらコーンを製造するのは見学出来ませんでした。「金網製の型に、ビーターで掻き混ぜた液体を流し込み成形していた」と、ビーターを据付に行った方から聞きました。(以前に書いたパルプモールドと同じ手法だと思います。)

紙の話し (その3)

2019-08-31 15:04:31 | 工業技術
 今回は、昔の和紙の話しと、製紙機械メーカーで得た知識/経験を纏めて見ました。

【私と和紙】
 私が生まれた山奥の村には、1960年頃まで、紙漉き屋が一軒ありました。半数程の家で、原料になる楮(こうぞ)を栽培していました。原料を紙漉き屋に持って行くと、障子紙と交換して貰えたのです。

 私が小学2年生になった時に、町の新制高校を卒業された紙漉き屋の娘さんが帰ってこられて、1年生の担任になられました。私の担任は中年の女性で厳しい方でしたが、紙漉き屋の娘さんは優しくて、綺麗な方でした。休日に紙漉き屋に行くと、先生がもんぺ姿で紙漉きをされていました。黙々と作業されて、話をした記憶は有りませんが、それから時々行きました。

1960年頃、私の田舎の民家にはガラスはまだ殆ど普及していませんでした。玄関は障子と雨戸でした。少々の雨でも雨戸は閉めませんでした。(まだ、民家には電気が来ていなかったので、雨戸を閉めたら家の中が真っ暗になってしまいます。) 和紙は丈夫ですから、少しくらいなら雨に濡れても破れる事は無かったのです。 私の集落は北向きでしたが、家の”軒天井(のきてんじょう)”は1メートル以上も張り出していました。陽光が部屋に差し込まない為で無く、雨が障子に当たり難くする為だったと思います。

 近所に慶応年間生まれのお婆さんが住んでいて、近所の人達は”化け物”だと言っていましたが、優しい働き者のお婆さんでした。1960年頃まで、お婆さんは機織りをしていて、私は時々見学しました。機織りをしながら、昔の話をして貰ったのですが、「昔は、紙の着物が有った」と言っていました。半信半疑でしたが、インターネット上で今でも和紙製の着物が販売されています。

 妻の実家は40年ほど前まで、団扇(うちわ)を作っていました。和紙に柿渋を塗ると極めて丈夫になります。50年以上前に作った”渋団扇”を記念に持ってきていますが、(さっき見てみましたが、)びくともしていません。

【和紙の原料】
 和紙の原料は樹木の『皮』で、洋紙の原料は樹木の『幹』です。但し、麻からも和紙が作られる様です。和紙の主な原料は次の3種類です。

楮(こうぞ) :楮は人口栽培が出来て、繊維が長いので、今でも和紙の原料の主流です。現在は、海外から楮を輸入している様です。

三椏(みつまた) :子供の頃、三椏を栽培している家が有りました。その家の方から聞いた話ですが、「クリーム色の和紙に仕上がって、卒業証書や表彰状に使用する」そうです。

雁皮(がんぴ) :雁皮は栽培が難しいので、自生している木を切って樹皮を剥がし、乾燥させておくと、毎年業者が来て買ってくれました。私の故郷では、雁皮が自生している場所は非常に少なかったで、雁皮を採集するのは子供の小遣い稼ぎでした。

【紙を発明したのは?】
 歴史の教科書では、中国の蔡倫が105年に紙を発明したと書いていましたが、近年、中国でそれよりも300年ほど前に作られた麻の繊維で作った紙が発掘されました。蔡倫は木の皮を用いて、和紙の様な紙を作ったのです。

 私の好きな本の一つは、司馬遷の史記です。史記が完成したのは紀元前91年頃と言われています。司馬遷は、木簡か竹簡に書きました。後に司馬遷は裕福になり、絹布(けんぷ)が購入出来る様になって、絹布にも書いた様です。既に、麻紙は有ったと思いますが、司馬遷は、史記を永遠に残したいと考えていた様ですから、まだ実績の乏しい麻紙は使用しなかったのではと、私は思います。

 日本には、4世紀~5世紀頃に紙に書かれた「論語」などが伝わったそうですが、紙が作られる様になった時期は諸説あって分かりません。

【紙を作る技術の伝搬】
 紙の製造技術は中国から→中東→ヨーロッパに伝わりました。中東とヨーロッパでは木の皮からではなく、麻や木綿の繊維が主だった様です。

 ドイツ人のグーテンベルクが金属製活字を考案したのは、1445年頃です。それ以降、紙の需要は急激に増加したと思われますが、ヨーロッパでは中国発の従来通りの技術で紙を製造していました。

【抄紙機(製紙機械)】
 フランスのレオミュールが、蜂の巣が木の繊維を集めて作られている事に気付き、1719年に「木の幹の繊維から紙が作れる」という論文を発表しましたが、実用化には至りませんでした。 ドイツ人のケラーが、1840年に木材パルプの開発に成功しました。

 1798年にフランスで、手動でエンドレスの金網を回転させる抄紙機が発明され、イギリスで水車動力を利用した抄紙機が実用化して、1800年頃から多量に紙が製造される様になったのです。

 1872年に元広島藩主(浅野長勲)が有恒社と言う製紙会社を日本で最初に設立しましたが、操業は1984年です。1873年に、(24年発行予定の10,000円札の)渋沢栄一が中心になって、製紙会社が設立され、1874年に操業を開始した様です。この会社は、後に王子製紙と社名を変更しました。王子製紙は三井家の資本も入り日本一の製紙会社に成長しました。

 1945年から始まった財閥解体時に、王子製紙は幾つもの会社に分割され、そのご分割された会社は合併をして、王子製紙と日本製紙になりました。(その為に、2社は競合企業ですが三井住友銀行の資本が入っているのです。)

(余談) 間違った記事を時々見掛けるので、老婆心ながら敢えて書きます。戦前の王子製紙は渋沢家や三井家などの資本が入っていましたから、(厳密には)財閥では無かったのです。 製紙業界の巨人でしたから、GHQは財閥の定義を拡大して、王子製紙を無理やり解散させたのだと私は見ています。

【製紙機械メーカ】
 1996年に私が製紙機械のメーカーに出向した時は、世界の製紙機械(抄紙機)業界は大変革中でした。そして二大企業、フィンランドのバルメット社とドイツのフォイト社に集約されました。

 私が製紙機械を手掛けている間に、日本では、バルメット社と提携していた三菱重工と住友重機械工業が、相次いで抄紙機から撤退しました。中堅の日立造船富岡機械が会社を整理しました。現在抄紙機を手掛けているのは、フォイト社と提携しているIHIと、中堅の川之江造機と小林製作所だけになっています。

 製紙設備の周辺機器を手掛けていた中小企業の多くが、転業したり倒産したりしていました。私は、製紙会社から依頼されて残っている(まだやっている)会社を探す仕事もしました。

【製紙機械の思い出】
 私は製紙機械メーカーに出向して直ぐに、振動や騒音の周波数を分析する(高価な)FFT(高速フーリエ変換)を買ってもらって、問題の発生している製紙機械を診断する為に走り回りました。製紙機械は少しづつ改良して、生産量アップや紙質の向上を図るのですが、古い小規模の機械が多数稼動していました。少量の需要しか無い紙は、古い機械を”騙し騙し”使って生産しています。多分、現在も古い機械が稼働していると思われます。動く博物館の様です。

 私が出向した会社は、昔は抄紙機も手掛けていた様ですが、リール(Reel)とワインダー(Winder)、スリッター(Slitter)等に特化していました。製紙会社からのアドバイス依頼は、抄紙機全体に対して有りましたので、出張したら種々の設備を見学させて頂いて、勉強しました。

(思い出 :1) 私が1996年に出向した会社から、自転車で行ける製紙工場が4か所有りました。1工場は、アドバイス依頼は時々有りましたが、工場に立ち入らせて貰えず、注文も頂けませんでした。他の3工場は、出入り自由の特別許可を頂いたので、時間を作って週に2回は勉強に行きました。私が製紙機械を手掛けたのは8年程でしたが、製紙会社に40年間務めた人よりも、新旧、大小、種々の方式の製紙機械を見る事が出来ました。

(思い出 :2) 1920年頃に北海道に納入された機械を、2000年頃に富士市の某工場で診断した事が有ります。お客さん(A社)も、もう臨終に近い事をよく承知されていて、「あと何カ月持つでしょうか?」が問題でいた。手の施しようの無い状態でした。「抄紙機も含め設備全体を、最新の仕様で更新したい」と言われるので、私の会社はワインダーの見積を出しました。

 「こんな古い機械を使っている会社だから、金が無いのでは?」と心配しながら、かなり高めの金額を提示しました。なんと!ネゴ無しで即決してくれました。沢山儲かる事になり、社長が温めていたアイディアを何点も盛り込んで、仕様に無い機能を付きの機械にしました。引き渡しの時に、「こんな事も出来ます、・・・」と社長は得意そうに説明したら、「そんな機能は必要有りません」と言われ、面目まる潰れでした。

 この時試した社長のアイディアは、その後、各社の改造に必要になり、会社として貴重な財産になったのです。A社は競合する製紙会社に、私達が納入した機械の見学を許してくれたので、デモ機の様にさせて頂き、営業活動が楽になりました。

(思い出 :3) 私が出向する何年か前から、工場の隅にチョットした実験装置を置いて、省力化や製品の品質向上の実験をしていました。特許を取得していましたが、まだ、新しい技術の実績は殆ど有りませんでした。某工場のメインの抄紙機を大改造して、大幅に生産量を増やす計画が進められていました。ワインダーも巻き取り速度を大幅にアップする必要があり、出向先の会社に引き合いが入りました。

 私は、見積積算して、顧客を説得する役を担当しました。「単に速度アップだけで無く、製品の品質向上と省力化」を提案しました。製紙会社の重役が私達の提案を受け入れてくれて、話はとんとん拍子に進みました。ワインダーは4人×4直(16人)で操業していましたが、2人×4直(8人)で十分な自動化を提案したのです。

 現場の作業者達は大反対でした。巻き取り時間(作業時間)が大幅に短縮出来ても、『いちゃもんが付く』と予想されたので、ビデオカメラを買って貰って、改造前の状況を詳細に撮影して置きました。改造は大成功でしたが、現場の責任者は「時間は短縮されていない」と言うのです。ビデオカメラの映像で、時間が分かりますから、責任者は渋々納得しました。

(思い出 :4) 出向先に、元は機械技術者でしたが、独学でシーケンサーを勉強していた優秀な社員がいました。ワインダーの改造を依頼された時に、彼と私は、操作盤をタッチパネルにする提案をしました。当時は、製紙会社では殆どタッチパネルは採用されていませんでした。スタッフも、現場の熟練社員も大反対でしたが、この会社の上層部に技術の進歩を勉強されている方がおられ、採用して頂く事が出来ました。

 完成後、タッチパネルの操作方法を教え、試運転する事になりました。現場の責任者が(多分、失敗を期待して)、それまでは馬鹿にしていた一番若い作業者に操作させました。なんと!何の問題も無く操作したのです。

(思い出 :5) 某製紙会社から振動が激しい抄紙機の診断を依頼され、FFT等の計測器を持って出張しました。設備全体が強烈に振動していて、原因解明に二日も掛かってしまいました。抄紙機に使用されるモータは速度制御が必要なため、古い設備では電圧で速度調節が出来る直流モータが採用されています。

 戦前に製作された古い直流モータの回転部品が、(経年変化で)変形してバランスが狂っていたのです。原因を究明したのに、一銭も払ってもらえず、帰社後社長に嫌味を言われました。日本では技術料を支払う習慣が殆ど無かったのです。他でも、同様のケースが沢山有りました!「技術はサービスだ!」・・・これでは技術者は育てられません。

(思い出 :6) 遠方の会社から、「あるワインダーで特定の紙を巻き取ると断紙(紙が破れるトラブル)が頻繁に起こるので、原因を解明して欲しい」と依頼されました。前述の重いFFT等の測定計器を持って、指定された日時に出張したら、担当者が平気な顔で「計画変更で今日は問題の紙は製造しない」と言うのです。その代わり、私は工場の設備を勝手に見させて頂きました。その後、また電話があり、行ったのですが、「計画変更」でした。

 3回目に行った時は問題の紙を製造していました。紙を乾燥させる設備をドライヤーと呼びますが、ドライヤーの出口に必ず紙の湿度を計測して表示する計器が付いています。表示が「5%以下」になっていたので、運転員に「これでは、断紙しますね」と言うと、「そうなんです! この抄紙機では、この紙は製造出来無いと何回もスタッフに言ったのですが」と言いました。念のために、「異常振動が発生していないか?」データを採取しました。スタッフに、「異常振動は無く、原因は乾燥し過ぎで、紙の強度が低下している為でしょう」と報告したら、「あ、そうですか」と言っただけでした。

 日本は、年功序列・終身雇用の会社が今でも多いいですから、勉強はしない、他人の助言は無視する、仕事は駄目な社員が大抵の会社に結構沢山います。私が務めていた会社では、そんな部下を抱えた課長が、「○○を移動させて欲しい」と部長に言うと、「その課長に能力が無いので○○を使いこなせ無い、無能な課長だ」と評価する様でした。

(余談) 私が勤務した会社では、苦労無しで専務になられた様な方が、「会社を活性化させる為には事業部間の人事交流が必要だ!就いては、優秀な人材を出せ」とか「研究所に新しい研究室を設けるので、経験豊富な人材を出せ」とか言って来ます。「○○と言う、打って付けの社員を出します」と回答するのです。やっと、○○氏をお払い箱に出来たわけですが、他にも沢山同類の社員が残っていました。

紙の話し (その2-2)

2019-08-24 00:28:58 | 工業技術
 前回に引き続き、紙を綿にする機械(エコパルパー)と有機肥料を作る”植繊機”の開発についての話しです。開発を途中で終わってしまったので、何方かが一つでも実現してくれる事を期待して書きます。

【エコパルパー】
 エコパルパーで作った紙綿の特性についても研究したのですが、当時世界一と言われていたアメリか製の機械で作った紙綿を入手して比較しましたが、私の綿の方が種々の点で優れていました。何社かから引き合いが有りましたが、(システムで販売する計画でしたので)機械単体で売る許可が得られず、エコパルパーは一台も販売せずに開発は終了しました。

(余談) 私が定年退職したら、(特許も切れるから)静岡県に有った山本百馬製作所さんに設計ノーハウを伝授しようと考えていたのですが、残念なことに倒産していました。山本百馬さんの機械は、原理を解明しないで設計した様で、不必要な個所が頑丈になっていて、騒音が大きく、大きなエネルギー(電力)が必要でした。

【牛乳パックの紙綿】
 牛乳パックから紙綿を作って欲しいと言う話が入りました。当時、牛乳パックは古紙屋から入手出来無かったので、工場の各部署に、「牛乳パックを持って来て頂きたい!」と言う、回覧を廻しました。直ぐに、沢山持って来て頂けました。本当にありがたかったです!

 真っ白い、フワフワの綿が出来ました。(インクの量は予想以上に少なかったので、綿は白かったのです。)パックの内側に薄い樹脂膜があるらしいのですが、顧客から「その膜も粉砕された様で確認できなかった」と報告が有りました。

【紙綿の利用 :1】
 大手商社のM社から、ドイツ(?)で開発された「アスファルトに紙綿を混ぜる技術」の話しが舞い込みました。道路に敷かれたアスファルトが水を通す様になって、大雨時でも水溜まりが出来にくくなる為にスリップ事故が減少し、車のタイヤが発生する騒音も低下出来ると言うメリットが有りました。

 私は、必要な機械の検討をして、上司とM社の担当者が当時の運輸省に説明に行きました。なんと、運輸省はその技術を知っていたのです。「この技術については他言無用!」と厳しく言われたそうです。当時、市街地を走る高速道路の騒音訴訟が多数争われており、この技術を導入する計画を進めていたのです。一度に施工する予算が取れないので、効果は秘密にして、少しずつ進める腹積もりだったのです。

 現在では、皆さんの身近の道路でも、この技術が採用されています。スリップ事故も車の騒音も、かなり減少していると思われますが、気付かれていますか?

【紙綿の利用 :2 パルプモールド】
 現在、卵(玉子)はプラスチックの容器に入れて販売されていますが、昔一時期、グレーの紙製の容器に入れていました。あの容器がパルプモールド製です。古紙を水の中で繊維状にし、そのドロドロの液を、金網製の型に流し込んで、成形品を作るのです。

 パルプモールドを手掛けている大手の会社に、紙綿を持ち込んで実験してもらいました。水の切れが信じられないほど良いのです。(肉厚の成形品を短時間に製造出来る事になります。) 私の紙綿を水に入れて攪拌しても、繊維の表面に空気が残るので、水切れが良いのだと私は考えています。

【紙綿の利用 :3 藍の茎の無臭発酵】
 藍染の染料は藍の葉を発酵させて作り、茎は不要物です。茎には窒素分が多いいので、腐ると悪臭を発する様です。徳島県の農家から、堆肥化実験の依頼が有りました。彼が待ち合わせ場所に指定したコンビニに、(前稿に書いた町の発明家の)H氏と植繊機、発酵槽そして紙綿を持って行きました。

 彼は、軽トラに藍の茎を満載してやって来ました。 「コンビニの駐車場で処理して、発酵槽をコンビニの出入口から3メートル程の所に設置してくれ」と言うのです。「臭いが出ないのだったら、コンビニの出入口に置いても問題ないはずだ」と言うのです。(24時間営業ですから、悪臭の有無を確認するには最適の場所です。)

 藍の茎は予想に反して水分が少なかったので、殆ど紙綿を添加する必要が有りませんでした。2週間程して、結果を確認に行きました。コンビニの店長から、「臭いは全く出なかった」と聞いて安心しました。発酵槽を開けて見ると、一面に大きなキノコが生えて、発酵はほぼ終了していました。実験は大成功だったのです!

(私の目論見) 神戸港には、野菜や果物が海外から多量に入って来ますが、数パーセントは廃棄されているとの情報が有りました。野菜や果物には水分が多いいので、紙綿を添加して植繊機で混錬したら、無臭発酵する事を既に確認済みでした。私は、神戸港を有機肥料の製造地にしようと考えていたのです。

【紙綿の利用 :4 魚の腸を有機肥料に】
 魚の腸(はらわた)が腐ると酷い臭いを出しますが、植繊機に腸と適量の紙綿を加えて混錬し、紙綿に水分を吸収させると殆ど臭いを出さずに(短時間に)発酵させる事が出来ました。植繊機が排出した処理物は外気より20度ほど高温になりますが、(真冬に行った実験でも)処理物の温度は低下せずに、逆に徐々に上昇し発酵が直ぐに始まる事を確認しました。

 有機物を腐らせる菌には、好気性菌と嫌気性菌があります。腐敗時に悪臭を発生するのは嫌気性菌による腐敗です。好気性菌が有利になる環境にしてやれば、臭いは殆ど出ません。有機物を腐らせて有機肥料を作る時、悪臭が出ると、貴重な窒素分がガスになって飛んでしまいます。

 1990年頃、関西の大手魚屋等から出る魚の腸は、専用のトラックで関西空港の近くの焼却設備に運んで燃やしていました。私達が考案した方法で有機肥料化したら、繊維が沢山入った養分タップリの有機肥料を、安価に製造出来るという確信がありました。(魚粉肥料に繊維を加えた様な、新種のミネラルたっぷりの肥料が出来ると考えたのです。)

 ”甘い桃”や”甘い蜜柑”の農家を、それと無く調べて見ました。(そう言う農家は、栽培ノーハウを秘伝にしていて、詳細は絶対に聞き出せませんでした。)苦汁(にがり)を種々の有機肥料に混ぜたり、魚粉肥料を使用している様でした。「ミネラルが果実を甘くすののでは?」と私は考えています。

(余談) 我が家の庭にユスラウメ(山桜桃梅)を植えていました。魚粉肥料を使ってみると、山形の”さくらんぼ”に近い甘さになりました。散歩する大人達に試食してもらいましたが、「子供の頃に食べたユスラウメより、ずっと甘い」と何人かが言ってくれました。

(余談) イチゴは海に近い畑で育てると、実が甘くなると言う話を聞いた事が有ります。私は、風が海のミネラルを運んで来るからでは?と考えています。

【籾殻粉砕機】
 若い人達の為に(老婆心ながら)、白い米をどんなにして作るか?書いておきます。①稲の実が付いている所を”稲穂(いなほ)”と呼びます。→②稲穂から実を外す事を”脱穀と呼び、”籾(もみ)”なります。→③籾の表面を覆う殻を”籾殻”と呼び、籾殻を除去したら”玄米”になります。→④玄米の表面を削る事を”精米”と呼び、”精白米”と”米ぬか”が出来ます。精白米を袋に入れて、スーパーなどで販売しているのです。

 脱穀は稲穂を扱(しご)いたり、叩いたりしても出来ますが、私が子供の頃は、どの家にも木製の足踏み式脱穀機が有りました。

 精米は、一升瓶に籾を入れて木の棒で根気よく突いても出来ます。私が育った集落に、田畑を所有しない(よそ者の)独身の男性が住んでいました。彼の家が火事で半焼した時、一升瓶に籾を入れて精米途中だったのです。彼は、夜中に他人の田から、籾を盗んで来て米を得ていたのです。集落の人達は、雀が食べるていると思い込んで、愉快な案山子を作ったり、色とりどりのテープは張ったり、雀除対策の競争をしていたので、一升瓶を見て皆で大笑いしました。彼は、その後も盗みをしましたが、集落では許容していました。私の父は雀対策競争には参加しなかたので、多分、彼が犯人だと知っていたと思います。(籾の被害は夜に発生しましたが、雀は夜は寝ています。) 集落の各家から建材を持ち寄って、総出で彼の家を建て直しました。小さな家でしたから、二三日で完成しました。

 子供の頃、足踏み精米機を使用している農家が有りました。精米は子供の仕事でしたから、その家の子供と遊ぶためには、私も手伝う必要が有りました。水車精米機も動いていました。どちらも、石臼に籾を入れて、太い棒を上下させて、籾を突いて精米をするのです。

 村に一軒、モータ駆動の精米機を置いた店が有りました。我が家はそこで精米してもらいましたが、”精白米”と”こめ糠”だけでなく、籾殻も持ち帰らなければなりませんでした。籾殻は結構厄介ものなのです!

 もみ殻は軽い上に、なかなか腐りません。田にすき込んでも、水を張ると浮上して、排水口や排水溝を詰まらせてしまいます。昔から、全国の農家では籾殻は焼却していました。然し、チョロチョロとしか燃えてくれず、その上煙が酷いのです。長野オリンピックの時に、「信州では籾殻の焼却は禁止された」と言う記事を読みました。その頃から、全国的に焼却は難しくなって行きました。

 植繊機の販売を始めた頃、「某JAの籾殻倉庫が満杯になっているので処理してやって欲しい」と言うので、トラクターと植繊機を持って行きました。真新しい大きな倉庫が、ほぼ満杯になっていました。処理(粉砕)を始めると、農家の方が沢山集まってこられて、見物されていました。粉砕した籾殻が吸水するか?等実験していたら、「貰っても良いか?」と言われる方がいて、「どうぞ」と答えると、皆さんが軽トラに積み始めました。

 植繊機は試作1号機から、籾殻の様に硬い物でも処理出来る様に、摩耗が激しいと予想される個所には硬度の高い材料を使用し、その部分だけ取り替えられる構造にしていました。電動の植繊機は、籾殻粉砕機として、今でも販売されているようです。

【町の発明家】
 この開発をやっていた頃、3人の町の発明家と時々話をする様になりました。皆さん、それぞれ独特の個性が有って、(普通の正常な人は付き合いきれないと思われますが)私にとっては愉快な方々でした。

 A方式が良いか?B方式が良いか?議論していたとします。町の発明家はA方式が良い、私はB方式の方だと言ったとします。暫くすると、彼は「君はA方式が良いと言ったが、君は馬鹿だ!絶対にB方式で無いとだめだ!」と言い出します。「貴方がA方式と言いましたよ」と言うと、二度と会ってくれなくなるのです。そういう性格だから、次々とアイディアが湧くのでしょう。

 その後、新たな町の発明家3人の面識を得ました。6人に共通していたのは、特許権を数件取得して、その内の1件か2件で纏まった金を手に入れましたが、金を使い切って、私がお会いした頃は夢を追って生きていました。町工場の社長さんだったりで、生活に困っている方はいませんでした。

(余談) 終戦直後、瀬戸内海には海賊が出没して、闇物資を輸送する船から法外な通行料を取ったそうです。海賊は、旧海軍の機関銃付き小型船を使用していたそうです。町の発明家の一人から、「旧海軍の小型高速船を入手して、四国から大阪・神戸に闇物資を運んで大儲けした」と言う話を、よく聞かされました。

【エピローグ】
 1993年に阪神淡路大震災が発生し、会社の設備が多数破損しました。会社の経営が苦しくなって、開発費の大幅削減が始まりました。その為に、私達の開発は1995年度で終了する事になってしまいました。会社での仕事はエコパルパーと植繊機が最後の仕事になりました。そして、私は出向する事になったのです。

 私は技術屋として自信が有ったので、”武者修行”の様に、会社とは取引の無い企業に出向して、全く経験の無い分野で”力試し”をしたいと申し入れました。色々有りましたが、最後には私の希望を認めて頂きました。

 最初は製紙機械の設計/製造の技術志向の小さな会社に出向したのですが、私の会社の理不尽な命令で別の会社に回され→・・・結局定年までの10年間で5社に出向しました。製紙機械、製薬機械、食品機械、フィルムの機械、熱交換器など・・・。数学、機械工学だけで無く、電気工学の知識が必要な機械も担当しました。技術屋としては、出向してからの方が、充実した楽しい日々を過ごす事が出来ました。武者修行に出て、大正解だったのです!


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(余談) 私の長男には、安倍晋三氏と同じようなアレルギー性の持病が有ります。「無農薬有機野菜だとアレルギーの発症を抑えられるかも?」と言う記事を読んで、(会社では誰にも言いませんでしたが、)有機農業の研究に取り組んだのです。開発終了が決定する数週間前に、息子さんが米アレルギーで大吟醸酒を作る米しか食べられない母親から、「家庭で大吟醸酒米が作れる、手頃な価格の精米機を開発して欲しい」と言う手紙が来ました。

 当時、息子は少し病状が良くなっていましたが、具の入っていない小さな”おにぎり”を一日に一個しか食べられませんでした。自分事の様に思えたので、早速、家庭用精米機のメーカーを調査し、何とか出来ないか?検討しました。結局時間切れで、開発出来ませんでした。今でも、心残りです。