これ!どう思います?

マスコミがあまり報道しない様な問題を、私なりに考えてみます。

朝鮮半島の歴史 (その4)

2018-09-15 11:27:44 | 朝鮮半島の歴史
 今回は、第二次世界大戦後の北朝鮮の歴史です。

【日本の撤退→→38度線】 1945年
 日本が敗戦したあと、朝鮮半島には北からソビエトが、南からアメリカを主体とした国連軍が入ってきて、北緯 38度線でそれぞれが分割統治する事になりました。1948年にアメリカとソビエトが撤退して、大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が建国されました。

 ソビエトは北朝鮮に多量の兵器を残しました。(戦車240輌、砲552門、迫撃砲1,728門、航空機211機) 北朝鮮の兵力は約20万で、さらにソビエトと中国から実践経験のある3万人が帰国しました。(出典:ウィキペディア)
 アメリカが韓国に残した兵器はわずかでした。(砲91門、迫撃砲960門、練習機22機) 韓国の兵力は約10万しか有りませんでした。(出典:ウィキペディア)

 1948年に韓国と北朝鮮が建国した時点では、軍事力と経済力は北朝鮮の方が圧倒的に優位だったのです。

【北朝鮮にはバラ色の選択肢も有りました!】
 北朝鮮は、日本が建設した工場群、インフラ整備などを無傷の状態で受け継ぎました。ソビエトは近代兵器を多量に残してくれた上に、経済援助も続けてくれました。北朝鮮は、何よりも、鉄鉱石、石炭、銅、金などの地下資源が豊富です。

 世界情勢 :一方、日本、東西ドイツ、フランス、イタリアなどの産業は第二次世界大戦で甚大な被害を受けており、韓国には殆ど工場は無かったのです。中国の産業はまだ発展していませんでした。(中国が改革開放政策を打ち出したのは1978年12月です。)

 私の見立て :朝鮮戦争を始めないで、日本が進めていた『産業を発展させる政策』を続けていたら、数年後にはソビエトの援助を受ける必要が無くなったと思われます。 北朝鮮は、文字通りの”地上の楽園”になっていたかも知れません。少なくとも、共産圏の有力な工業国にはなっていたはずです。 そして、ソビエトが崩壊した時に、東西ドイツの様に韓国と統合出来た可能性も有ったと思われます。

【北朝鮮・金日成の時代】  1948年~1994年
 スターリンのバックアップを得て、共産党内部では少数派だった金日成が北朝鮮を統治する事になりました。基盤が極めて零弱だったため、敵対する派閥や幹部を次々と粛清しました。 (戦争中、金日成は抗日パルチザン部隊の一指揮官でした。)

 金日成は建国して2年後(1950年)に朝鮮戦争を始めましたが、結局、朝鮮半島を統一すると言う野望は果たせませんでした。日本が残した虎の子の資産とソビエトから得た近代兵器の大半を失いました。(北朝鮮では、戦争を始めたのは韓国の方だと国民に説明しているそうです。)

 朝鮮戦争のあと、ソビエトと東欧諸国から支援を得て、北朝鮮の工業は復興しました。復興が進まない韓国と比較して北朝鮮は”地上の楽園”の様に思えたのでしょう。1959年から、日本から北朝鮮への帰還が始まり、1984年までに9万人以上が渡っていきました。

 北朝鮮による日本人の”拉致事件”は1970年代の後半から発生しました。”帰還事業”をしながら、何食わぬ顔で”拉致”と言う犯罪を続けていたのです。

 1991年にソビエトが崩壊し、ソビエトと東欧諸国から支援が受けられなくなり、中国からの援助だけに頼る様になってしまいました。それからは、工業の発展がストップしてしまう事になります。

 一方、農業政策の失敗によって、食糧が不足する様になって来ていました。 (近年は、外国からの食糧支援が不可欠な状態になっています。)

【朝鮮戦争で失ったもの】  1950年~1952年
 1950年6月25日、北朝鮮は10万の兵力で韓国に侵入て、想定を遥かに超えたスピードで北朝鮮軍は進軍し、韓国軍は連戦連敗で釜山近辺まで追い詰められました。

 崩壊寸前の韓国を救うために、国連軍が韓国に上陸して戦況は急変し、どんどん北朝鮮軍を北に押し戻しました。38度線を超え、中国との国境線に近づいたとき、中国の大軍が参戦しました。国連軍は38度線より南側まで押し戻され、押し返し、最後は膠着状態になりました。結局、1953年に中国+北朝鮮と国連軍の間で休戦協定が結ばれました。(李承晩は休戦に反対して、協定には参加していません。)

 開戦から膠着状態になるまでの期間は約1年です。

 米軍は、第二次世界大戦で日本に投下した16万トンの3.7倍にもなる60万トンの爆弾を使用して、日本が併合時代に建設した工場、ビルなどの貴重な資産を徹底的に破壊してしまいました。

【朝鮮戦争の死者】 
朝鮮戦争の戦死者数は正確には把握されていないようです。 私の推計では、両軍合わせた軍人の死者は約100万人ほどです。 (ウィキペディアによると)南北合わせた民間人の死者は380万人以上もありました。 (第二次世界大戦で亡くなった日本の民間人は80万人です。)

 韓国軍と北朝鮮軍は、敵地で民間人を多量に虐殺しました。 戦闘が行われた期間は約1年ですから、毎日1万人の民間人が虐殺された事になります!

 私の推計では、この戦争で、朝鮮半島の人口の15%程の方が亡くなったと思います。 特に北朝鮮では四人に一人の方が亡くなりました。

 韓国軍は、民間人を虐殺する時、女性を凌辱したあとで殺すか、拉致して慰安婦にしました。 (朝鮮戦争中から、韓国軍は慰安所を運営していました。)

【日本と朝鮮戦争】
 日本は、この戦争期間中の3年間の特需で10億ドルを得たと言われています。その後も特需は続き、日本が得た総額は”46億ドル”にもなりました。1960代の後半からベトナム特需がはじまり、日本経済は完全に復興し、さらに戦前よりも発展し豊かになりました。

 アメリカ軍からの強い要請で、当時の総理・吉田茂は海上保安庁に、朝鮮半島周辺での機雷の掃海を行わせました。 (実質的な参戦です。) この時、1名戦死されていますが、靖国神社には合葬されていません。 PKOで派遣された自衛官が万一、戦死されても靖国神社に祀られないのでしょうか? 皆さんはどう思われますか? 私の叔父が一人、靖国神社に合葬されていますが、靖国神社の問題について、私はまだ考えが纏まっていません。


★★予告★★ 
 次回は、その後の北朝鮮の歴史です。 是非、読んで下さい!

朝鮮半島の歴史 (その3)

2018-09-08 11:12:43 | 朝鮮半島の歴史
 今回は、韓国併合時代について私の考えを纏めました。
 韓国の反日家達は、「李氏朝鮮時代は豊だったのに、日本が収奪・破壊してしまい、韓国になってから復興・発展させた」と主張しています。 朝鮮半島の発展に尽くした先人達のためにも、私達の子孫のためにも、併合時代に進めた産業改革、教育改革などなどの記録・資料を一か所に集めて大切に保管する必要があると考えます。

【併合前の清国の状況】
 日清戦争(1894~95年)に敗れて弱体である事を露呈してしまったので、清国はドイツ、ロシア、イギリス及びフランスの要求を呑まざるを得なくなり、1898~99年に、4列強に租借地を認めました。
 大韓帝国は清国より遥かに弱体でしたから、日本の保護無しでは、瞬く間に列強の餌食になったでしょう。この事実は、現在の朝鮮半島の人達は受け入れられないのです。

【韓国併合とその後】 1910年~45年
 1910年、日本は”無血”で大韓帝国を併合し、そのご35年間、朝鮮半島は”日本の一地方”扱いでした。 収奪的植民地では無かったのです。
 日本は官民をあげて貴重な資金を朝鮮半島に投資して、短期間に産業を興し、種々の改革を行い、発展させました。 やっと朝鮮半島は、”失われた500年”を脱して近代化の道を歩み始めたのです。

**余談** 最初に日本から派遣された役人は、”両班”の傍若無人な振る舞いと、無茶苦茶な国家体制に仰天したと想像します。「何から手を付けてよいのか?」相当迷ったことでしょう! 言葉が十分には通じ無かったと思われるのに、短時間に種々の改革が出来たと感心します。

 李氏朝鮮では、庶民は重税に苦しめられていましたが、併合後の10年間は無税にしました。 そして、矢継ぎ早にに多くの改革を行いました。 身分制度(両班、中人、常人、)の廃止、行政組織の改革、官僚制度の確立、法律の整備、裁判所、警察署などなど。

 港湾施設、鉄道、道路、上・下水道、電気、病院、学校、工場を次々と建設し、多くの銀行を設立し、近代化を進めたのです。 これらの事業によって、多くの朝鮮人が働く場所を得る事が出来ました。

 日本窒素肥料(現:チッソ)は、現在の北朝鮮に12箇所もの水力発電所(合計87万kW)を建設し、硫安などを製造する大化学工場を複数建設しました。従業員は4万5千人もいました。 ちなみに、黒四ダムの発電所(黒部川第四発電所)の能力は約33万kWです。
 三菱製鉄、日本製鐵による製鉄所も現在の北朝鮮に建設されました。

教育改革 :大韓帝国の時代には小学校は100校ほどでしたが、日本は4,000校以上も設けました。ハングルは1446年に李氏朝鮮が公布した表音文字ですが、李氏朝鮮の特権階級では漢字を使用し、庶民はほとんどハングルも読めなかったようです。日本が設立した小学校では、日本語とハングルを教えたのです。(ハングルを広めたのは日本だったのです。識字率が6%→22%に向上)

植林事業 :李朝朝鮮では、個人所有の山は無かったので、住民は勝手に山に入り木を伐採して建築資材や薪にしていました。そのため、(特に朝鮮半島の南側では)禿山が多かった様です。茂った森は貯水ダムの働きをします。 禿山だと、貴重な雨はそのまま流れてしまい、農業に利用出来ないだけでなく、河川を氾濫させます。総督府は、禿山の植林事業に努力して、累計10億本も植林しました。 (面積では、約3,600㎢)

土地調査事業 : 1910~18年にかけて、田畑の面積を測量し、所有者(納税者)を確定する事業を行いました。大韓帝国の台帳の耕作面積は240万町歩でしたが、総督府の実測では約80%も多い434万町歩も有りました。国有地、宮室地と所有者不明地(合計14.7万町歩)を総督府は接収し、民間に払い下げました。 現在の韓国では、この”接収”を反日運動で問題にしています。

農業改革  :頻繁に発生していた氾濫対策(水防工事)や農業用水のダムや用水路を建設し、農民用の融資を行う金融組合などの設立にも努力しました。併合の35年間で、水田の面積は二倍以上に増加し、米の収穫量は三倍以上に増加しました。
★★反日運動家は、「米の収穫量は増加したが、日本が収奪した」と主張しています。 実際は、三星商事(現:サムソングループ)などが、米を高く売れる日本に輸出したのであって、略奪したわけではありません。朝鮮半島の人達は、安い雑穀を多量に輸入して食べました。併合時代に、栄養状態が悪化したと言うのは”嘘”です。併合の35年間に、飢餓は無くなり、人口は80%以上増加し、平均寿命は24才から56才まで伸びました。

【併合時代の虐殺】
 1919年、日本が進めていた朝鮮半島の近代化政策の意義が理解出来ていなかったために、朝鮮独立運動”三・一事件”が起こりました。日本は武力で暴動を抑えたために、沢山犠牲者が出ました。 (死者の数は、日本共産党によると7,600人です。) 韓国では、事件が発生した3月1日を”三一節”として祝日にしています。

 1923年の関東大震災が発生した時、デマが流れたために、自警団、軍、警察によって(朝鮮人と誤解された中国人や日本人を含め)沢山の朝鮮人が虐殺されました。 (これは、日本国内で起こった悲劇です。)

【旧日本軍には朝鮮半島出身も沢山いました】
 靖国神社には朝鮮半島出身の軍属が21,000柱も合葬されています。第二次世界大戦中の朝鮮出身の軍属は22万人もいたのです。

 1938年から朝鮮で志願兵の募集を始めました。志願者の数は毎年、増加して1943年には30万人(合格者は6,300名)を超えました。1944年9月には徴兵制を導入しましたが、徴兵制で入隊した兵隊さん達は戦争には参加せずに終戦を迎えました。

【併合時代の資料館を提案します】 
  韓国も北朝鮮も”有る事、無い事言い触らす"国です。韓国は、どんどんエスカレートしてきて、英文で西欧諸国にまで吹聴しています。日本は、”無い事”はハッキリと”それは正しくない”と海外に示す必要があります。”金持ち喧嘩せず”のポーズは止めましょう!

 個人、団体及び企業に寄付を募って、政治的に中立な”併合時代の資料館”を設ける事を提案します。石原知事が尖閣諸島を都が購入する資金として”14億円”も集めました。もっと沢山の寄付が得られると思います。

 資料を発掘し、日本語、英語、韓国語/朝鮮語に翻訳して、展示するだけでなくインターネット上に公開しましょう! 朝鮮半島の人達にも開放しましょう!日本にとって都合の悪い事も展示すべきです。

 その資料館は斬新で明るい建物にして、韓国の物産展やグルメ展を在日韓国人にやってもらうのはどうでしょうか! 韓国の陶芸作家や画家の展示即売会なら私は行ってみたい。日朝で国交が樹立されたたら、”朝鮮産松茸の即売会”をやりましょう。

 真摯な活動を続けたら、(時間は掛かると思いますが、)いずれ慰安婦像が撤去されると思います。

★★予告★★
 次回は、第二次世界大戦後の北朝鮮の歴史です。 是非、読んで下さい!

朝鮮半島の歴史 (その2)

2018-09-01 11:04:20 | 朝鮮半島の歴史
 今回は、大韓帝国の併合までの歴史をまとめました。

【三度の対馬侵攻】
 李氏朝鮮は、3回(1389年、1396年と1419年)、対馬に侵攻しました。李氏朝鮮には「勝利したと」の記録が残されているようですが、実際は失敗だったと思われます。(侵攻の目的は”倭寇”退治)
 特に第三回目(1419年)の侵攻には、17,000人以上の大軍を派遣しましたが、かなりの損害を受て撤退しました。 李氏朝鮮には、対馬・一島さえ侵略する力が無かったのです。

 対馬を支配していた宗貞盛が、1420年に属国になりたいと申し入れ、認められた様です。翌年(1421年)対馬側は、属国になった事を否定しました。 然し、李氏朝鮮は、その後も対馬は属国であると主張し続けました。 現在でも一部の人達は、”対馬は韓国の領土だ”と主張しています。 李承晩が、李承晩ラインに対馬を含める根拠にしたのではと思われます。

【文禄・慶長の役】 1592年~93年と97年~98年
 1592年に秀吉軍が攻め込んだ時、李氏朝鮮軍には鉄砲が無く、秀吉軍は連戦連勝でした。 明軍が支援に入って、やっと硬直状態になったのです。
 文禄・慶長の役は、明国の財政を悪化させ、約50年後の1644年に滅亡しました。清国になったわけです。

 李氏朝鮮は、この戦争を教訓にして富国強兵をはかった? とんでもない、この戦争で国力はさらに低下しましたが、その後300年以上も改革はほとんどせずに、貧しいままで二十世紀を迎えるのです。
 文禄・慶長の役で、日本にも多大の損失が有りましたが、然し朝鮮半島から捕虜を5~6万人も連れてきて、その中に陶工がいて、その後の文化・経済の発展に貢献しました。

警告) 現在でも”文禄・慶長の役”を問題にする反日運動家がいる様です。 将来より大きな運動になるかも知れません。 「”元寇”では君達が攻めてきた」と反論したら、多分、「元寇は高麗と元がやったことで、我々の祖先・李氏朝鮮は関わりない」と言うでしょう。 

【李氏朝鮮の末期】
 李朝朝鮮の末期には政権内部で政権争いが繰り返され、国内が混乱していました。日本が要求した改革(甲午改革)は細々としか行われませんでした。

 イギリスの女性旅行家・イザベラ・バードの著作『朝鮮紀行』には、政治の混乱の様子や、役人達の腐敗、庶民の暮らしなどが記録されています。 ”断髪令”など、日本の失敗も書かれています。 なお、『朝鮮紀行』(時岡敬子訳)と『朝鮮奥地紀行』(朴尚得訳)は今でも入手可能です。 (共産党や左派の政党を支持する人達には、是非とも読んで頂きたい本です!)

 『朝鮮紀行』は韓国語に翻訳されて出版されている様です。韓国人にとっては不都合な内容が沢山出てくるのに、出版した人達の努力と勇気には敬意を表します。この本は韓国でどれだけ売れたのでしょうか?

【李氏朝鮮は国号を大韓帝国に改めた】 1897年
 1894年から95年にかけて戦われた日清戦争で日本が清国から得たのは台湾です。朝鮮半島ではありません。
 日清戦争で日本が勝利したことで、李氏朝鮮は清国の”くびき”から解放され、李氏朝鮮は1897年に国号を”大韓帝国”に改めました。
 ”朝鮮”と言う国号は、明国から与えられたものでした。属国で無くなったことを明確にするために”大韓”と言う国号にしたのだと思います。 新羅・高句麗・百済を”三韓”と呼びます。 三韓の領土(朝鮮半島)を統治する国であると言う意味で”韓”を採用したと言われています。
 李氏朝鮮の君主は単に”王”でしたが、”皇帝”と称する事にして、国号を”大韓帝国”と改めました。

【大韓帝国の改革】 1897年~
 明治維新の約30年後(1897年)に大韓帝国は日本の支援を受けて改革を始めました。然し、国力が低下していたために、自力での改革が出来る様な状態では無かったのです。

 軍隊の改革にも着手しましたが、財政がひっ迫していたため1899年時点でも軍の定員は9,000名に過ぎませんでした。 その後、増強されましたが2万人程度に止まりました。ちなみに、日清戦争で日本が大陸に派兵した軍隊は、24万人です。(当時、大韓帝国の人口は1,300万人もあったのですが!)

 西洋式の工場を建設することは、資金が無かっただけで無く、儒教に反する事だったので行わなかったのでしょう。

(私の考え) 1894年に日本は李氏朝鮮に改革を要求し、李氏朝鮮は改革(甲午改革)を行う旨の命令書を交付しました。この時に”罪人の連座制”が一応は廃止されました。金が無くても出来る改革が他にも有ったと思われます。例えば、腐敗撲滅、法律の整備、公平な裁判、人材登用などなど。 真剣に取り組んでいたら、民心が離れて行くのを止められたでしょう!

【日露戦争】  1904~5年
 日露戦争は、帝政ロシアの南進政策を阻止するために日本は戦ったと言われています。日本の支援を受けていた大韓帝国の皇帝・高宗(光武帝 )とその一派は、日本を裏切ってロシアを支持しました。

 1904年、高宗は英語が出来た(反皇帝運動家の)”李承晩”(初代韓国の大統領)をアメリカに派遣して、『アメリカの支援を得て日本の影響力を弱めよう』と画策しました。 アメリカに渡った李承晩は、(期待に反して)高宗の批判を始め、そのままアメリカに留まりました。

 自力での改革が不可能と考えていた、大韓帝国の一派は日露戦争で日本に協力しました。

 結局、高宗の予想(期待)に反して日本が勝利したために、大韓帝国は1905年に日本の保護国になりました。 (高宗は1907年に退位し→→純宗が即位しました。)

 1909年に 韓国統監の伊藤博文が暗殺されたあと、アメリカとイギリスの賛同が得られ、その他の列強の反対も無かったので、日本は大韓帝国を無血で併合しました。 (日本では、「大韓帝国の改革派”一進会”から併合の要請があった」と主張してきました。)

(私見) 併合を進めた総理大臣は、”図太く立ち回った”桂太郎です。桂太郎になって考えて見て下さい。当時の世界は、力のある国が弱小国を植民地にすることは当たり前の事でした。”生き馬の目を抜く”様な国際情勢の中で『生き抜ける国力』が大韓帝国には残っていなかったのです。国際的にほぼ認められたので、桂太郎は併合したのだと思います。国内の世論を抑えるために、「韓国の”一進会”から併合の要請があった」ことを巧みに利用したと私は考えています。

★★予告★★
次回は、併合時代の話しです。 是非、読んで下さい!

朝鮮半島の歴史 (その1)

2018-08-25 11:19:10 | 朝鮮半島の歴史
 どこの国にも”暗い過去”はありますが、我が国にも勿論あります。 直視出来ない程の(恥ずべき)過去は、我が国には無いと私は思っています。
 朝鮮半島の二つの国には、他国にも国民にも知られたく無い”暗い歴史”があります。 今回は、李氏朝鮮(大朝鮮国)の歴史をまとめてみました。

【私が朝鮮半島に興味を持つ様になった訳】
 私の親が結婚した時、父は関東軍に所属して、馬山(マサン:現在は昌原市)に住んでいました。そのため、長女は馬山で生まれました。 母の弟がソールにあった京城帝国大学(朝鮮帝国大学)の医学生で、カメラ(写真撮影と現像)が趣味でした。カメラをぶら下げて、時々家に遊びに来ていた様です。そんな訳で、我が家の写真アルバムは馬山での写真から始まっています。
 母は時々馬山の話をしてくれました。 私は小学3年生頃から、新聞が少し読める様になって、朝鮮半島の記事は必ず読んでいました。
 本格的には朝鮮半島の歴史を勉強していませんが、普通の人より朝鮮半島についての知識があります。

【私の朝鮮半島史】
 私の朝鮮半島史の要約です。
① 儒教で国を統治した李氏朝鮮が500年以上も続き、経済が停滞してしまいました。 厳しく税人を取り立て、連座制による恐怖政治を行っていました。
② 中国と日本以外とは鎖国政策を続け、西洋の文明や技術を全く取り入れなかったのです。日本ではバブルが弾けたあと”失われた20年”がありましたが、朝鮮半島では”失われた500年”があり、自力では近代化が不可能な状況になっていました。

③ 朝鮮半島の発展・近代化は、日本による併合によって、20世紀になってやっと始まったのです。 日本による併合は、イギリスとアメリカの了解を得て、無血で行われました。
④ 日本による統治は、韓国や北朝鮮が言ってる様な”強権的”では無かったのです。 朝鮮人を虐殺した”三・一事件”(1919年)が起こりましたが、日本政府はこの事件を反省して、より民主的な統治を行いました。
⑤ 朝鮮半島を併合していた”35年間”に、各種工場の建設、鉄道や道路の敷設、学校や病院の建設、身分制度の廃止などの改革を行いました。

⑥  朝鮮半島の在外資産(46.8億ドル)は、実質的には終戦の1945年ですが、国際的には1951年に締結されたサンフランシスコ平和条約よって放棄しました。韓国も北朝鮮も、「我々も戦勝国だ」と主張しましたが、戦勝国から「日本と一緒に戦ったではないか!」と言われ、サンフランシスコには招待されませんでした。この条約では、日本が放棄した在外資産を得る権利を両国に認めましたが、朝鮮戦争(1950~1952年)でその資産の大半は皮肉にも破壊されていました。
⑦ サンフランシスコ平和条約では日本に、韓国と北朝鮮に対する戦争の賠償を要求していません。

⑧ 戦後、委任統治が終了し、ソビエトは撤退する時、北朝鮮に多量の近代兵器を残しましたが、アメリカは政策を誤って、韓国には最新の兵器は残しませんでした。そのために、北朝鮮の「韓国を併合したい」と言う野心に火を付けたのです。そして、朝鮮戦争が起こりました。
⑨ 朝鮮戦争では韓国も北朝鮮も多くの人命と財産を失いました。北朝鮮は、朝鮮戦争後もソビエトから援助が得られ経済を維持する事が出来ました。然し、1991年にソビエトが崩壊して援助がストップしてからは、経済が低迷する事になったのです。

⑩ 併合時代には朝鮮半島の南側には、大きな工場は有りませんでした。南側は農業が主だったのです。 韓国は、朝鮮戦争後も外国の援助が得られず、経済は低迷したままでした。外貨を得るために、(アメリカにお願いして、)ベトナム戦争に参戦しました。
⑪ 韓国は、1963年からの西ドイツ特需、1964年からのベトナム特需、そして1965年からの日本の援助、これられで得た外貨を産業に集中的に投資して、”財閥”を育てました。この急激な経済成長は”漢江の奇跡”と呼ばれています。

⑫ 朝鮮戦争の前から、戦争中にかけて、韓国では凄まじい虐殺が行われました。 反日運動の原点は、この”黒い歴史”から国民の目を逸らすためでは無いでしょうか?
⑬ それらの虐殺事件の時に、韓国から多量の難民が日本に不法入国して、いまでも暮らしています。既に、70年程になります。まだ韓国籍の方も多いようですが、世代を重ねると、日本を好きになってくれると信じています。

⑭ 朝鮮戦争中から韓国軍は慰安所を運営していました。ベトナムに派兵した時も、韓国軍は慰安所を運営しました。ベトナムでは民間人の虐殺も行ったのです。 これらの”黒い歴史”を隠すために、日本軍の慰安婦問題を国内だけで無く、海外にまで吹聴しているのでは?!

⑮ 米朝交渉 :トランプ大統領も金正恩も、イデオロギーや”建前”では無く、商売人の様に”実利”を重視した交渉をしている様に見えます。大統領の任期(21年1月)が終わる前に、米朝の国交が樹立されるのではと期待しています。
⑯ 北朝鮮の強制収容所では、連座制で投獄された”何の罪も無い人達”が(私の予想では)毎日100人程命を落としています。

【李氏朝鮮】 1392年から1910年
 朝鮮半島は、1392年から1910年まで、520年間ほど李氏王国が統治しました。1392年は(金閣寺を建てた)室町幕府の足利義満の時代です。
 500年を超える李氏朝鮮(大朝鮮国)の時代、超大国・中国から攻められる恐れは殆ど無くなりましたが、党派対立と派閥闘争を繰り返し、不正腐敗が蔓延し、人民のための政治は疎かになっていました。 

【李氏朝鮮では貨幣経済が未発達でした】
 租税の取り立てが厳しく、物納が原則で、貨幣があまり流通しなかったため、商人や農民が蓄財する事が難しかったと言われています。国民は500年以上も貧しい生活を強いられていました、(私は、李氏朝鮮は儒教の国でしたから商業や手工業を蔑視していたと考えています。) 
 江戸時代に各藩でも行われた財政改革や殖産振興が、李氏朝鮮では殆ど行われませんでした。上杉治憲( 鷹山公)の様な人物は現れ無かったのです。

 韓国の時代劇がよく我が国のテレビで放映されている様ですが、登場人物は皆綺麗な真新しい服を着ています。貧しい国でしたから、少なくとも付き人は何回も洗った服を着ていたはずです。 韓国の時代劇に庶民は登場しますか? 少なくとも、農民はボロボロの服を着ていたはずです。 朝鮮半島の人達は、"昔は貧しかった"と言う事実を受け入れられないのだと私は考えています。

【李氏朝鮮は厳格な鎖国をしていました】
 江戸幕府も鎖国をしていましたが、長崎で中国とオランダ、対馬を経由して李氏朝鮮とも貿易していました。然し、裏では!(特に幕末には)薩摩が密貿易で得た莫大な資金によって討幕を行ったのです。
 李氏朝鮮の鎖国は厳格で、西欧との窓口を設けなかったために、西洋文化が一切入って来ませんでした。(この政策は、儒教と密接な関係があります。)
 この鎖国政策は日本の韓国併合によって改められました。

★★予告★★ 
次回は、大韓帝国の併合に至るまでの歴史です。是非、読んで下さい!