これ!どう思います?

マスコミがあまり報道しない様な問題を、私なりに考えてみます。

痴ほう症 (その2)

2018-12-22 20:56:40 | 社会問題
 私は、中学を卒業するまで山村の20軒ほどの集落で育ちました。 今でも、ほぼ全ての家の家族構成を記憶していますが、痴ほう症になった人はいませんでした。 叔父・伯母も沢山いましたが、皆さん死ぬまで頭はしっかりしていました。 昔は痴ほう症は少なかったのでしょうか?

【家の前の道路で助けを求めているお婆さん】
 私の散歩コースだったのですが、向い合せの家で大きな犬を飼っている家があり、その前を通ると二匹が”けたたましく”吠えるので、その道は通らないことにしていました。二匹とも死んだと聞いたので、久しぶりにその道を通ることにしました。

 お婆さんが道で、「助けて! 助けて!」と悲しそうな顔をして叫んでいるので、どうしたか尋ねると、「息子が、私を置いて出て行った!」と言いました。 とりあえず家の中に入れましたが、私から離れようとしません。 隣の家のインターホーンを押すと、若い奥さんが出て来られて、赤ちゃんを“あやす“様に、慣れた手付きでお婆さんを家の中に入れました。

 奥さんの話しでは、息子と二人住まいで、息子さんは毎日仕事に出掛けていて、このお婆さんは時々「息子がいなくなった!」と言って外に出てくるのだそうです。

 それからは、その道は避けていたのですが、二か月程して”うっかり”通ってしまいました。 目の前に、例のお婆さんがいて「助けて!」と叫んでいました。 隣の奥さんを煩わせる訳にはいかないので、お婆さんのズック靴を脱がして、部屋まで連れて行き、逃げる様に玄関のドアを閉めて帰りました。 あれから1年以上たちますが、施設に入ったと言う話を聞きません。

 ここまで痴ほう症が進んだら、公共の施設が面倒を見てくれるのなら、介護保険料が少し高くなっても、国民は納得するのでは? 息子さんが会社を辞め無くても良い、福祉社会になることを期待しています。

【木の棒を持って殴る痴ほう症のお爺さん】
 2メートルほどの木の棒を左右に振りながら、道路の中央を歩くお爺さんがいました。 棒が届く範囲内に人が入ると、思い切り殴るのです。私も一回足を殴られて、青あざが出来たことがあります。 近所の奥さん達は「痴ほう症だ」と言っていましたが、気が触れていたのかも知れません。

 客の多いいスーパーの前の道を、毎日一回以上徘徊するのです。私は、殴られるのを何回も見ました。 子供は賢いですね、彼の近くは避けていました。子供が殴られるのは見たことがありませんでした。

 二三年後に、そのお爺さんを見掛けなくなり、「亡くなったか、施設に入ったんだろう」と近所では話していました。

【奥さんの痴ほう症が進んできました】
 息子一人の三人家族で、奥さんが60歳頃に痴ほう症の気が出てきました。 最初の症状は、旦那さんを信じられなくなったことです。 旦那さんは今でも働いていて、高額な所得があります。 奥さんの年金は、私の1.5倍ほども有ります。 奥さんの年金は全て貯金していたのですが、「旦那さんが、取った!」と言うのです。 一年間ほど言い続けていましたが、病状が進んで言わなくなりました。 旦那さんは辛かったと思います。 通帳を見せて説明しても、何日かすると、「取った!」と言われるのですから。

 奥さんが70歳になった頃に、一人息子が立派な結婚式を挙げました。 その頃の出来事の一部は、今でも記憶にある様ですが、息子の結婚式の事は全く覚えていません。 息子は独身だと今でも思い続けています。

 息子は嫁さんを連れて、毎年二三回帰省していますが、嫁さんの顔を覚えることが出来ません。 知らない女性が「何故かいる」くらいにしか思えない様です。 「正月に息子さんが帰省されました?」と聞かれても、「帰ってこなかった」と答えるそうです。

 一年ほど前から、買い物は旦那さんと一緒にされる様になりました。 時々、旦那さんがいない時、奥さんが一人で買い物に出掛けます。 必ずキャベツを一玉買ってきて、千切りにして、大きなボールに入れ、冷蔵庫に保管します。 二週間もすると、大きな冷蔵庫の中が千切りキャベツで一杯になるようです。

 部屋が沢山有る大きな家に住んでいるのですが、痴ほう症の人が、物を置いた場所を本人が思い出すのはほぼ不可能ですが、正常な人が見付けるのも難しいです。 常識では考えられない所に置くからです。 この前の秋の衣替えの頃、沢山有った奥さんの秋の洋服が殆ど無くなっていて、デパートで十着ほど買って来たそうです。

 奥さんは田舎の家庭料理が大変上手で、私が行ったら必ず作ってくれました。 一年ほど前から、塩加減があやしくなり、塩辛くて食べられない時がある様です。 料理を作る家政婦さんを雇う様になりました。 最近、家政婦さんの作った料理を、「私が作ったのよ!」と言う時があります。

 今年のお盆過ぎから、病状が悪化して、数分前の記憶が完全に無くなってしまいました。 旦那さんが休みの日に固定電話に掛けると、奥さんが出られ、「主人は昨日から帰って無いのよ!」と言われました。 携帯に掛けると、旦那さんは隣の部屋にいました。

 最近、知人がその家に行った時、1時間ほど前に奥さんがバイクで買い物に出ていたらしいのですが、3時間経っても帰られません。 探しに行こうとしたら、帰って来られて、「バイクのキーが見つからなかったのよ!」と言われたそうです。ハンドバックに入れたキーを2時間以上探していた様です。

 先日、会った時、さりげなく「お金さえ出せば良い施設が有る様ですね!」と言ったら、「帰って来た時、家に誰もいなかったら寂しいから」と言われました。 夫婦の会話は難しくなっていますが、奥さんを大切に思っているのだと感じました。

【姉の痴ほう症】
 私の一番上の姉は、相思相愛で結婚し、仲の良い夫婦でした。 姉が80才頃に、義理の兄が亡くなったのですが、葬儀のあと少し物忘れが酷くなって来ました。 私の家からは遠いいので、一年に一度しか様子を見に行っていません。 3年ほどすると、「明日、遊びに行く」と電話しても、直ぐに忘れてしまい、玄関にはいると、「電話してくれたら良かったのに!」と言う程になりました。

 幸いな事に、姉には息子が二人いて、同じ市に住んでいます。 毎日、交代で、家で作った料理を持って様子を見に行き、買い物もしてくれています。 至る所に、息子達が書いたメモ紙が貼ってあります。 姉の年齢まで書いた紙が有りました。 近年、私は行く前に、息子(甥)の一人に電話する事にしていますが、何日に私が来ると書いたメモを貼っています。 私の為に用意してくれた、「お菓子をどこに置いている」と書いたメモが必ず貼ってあり、家内が読んで、家内がコーヒーを作って三人で頂きます。

 姉は痴ほう症が進むと外出したがらなくなり、殆ど一日家にいます。 皆で勧めても、散歩しません。 運動しなくても足腰は今の所、異常がない様です。 幸いな事に、最近三年間程は病状は膠着状態になりました。

 昔の事は良く覚えていますが、義理の兄が最後を迎えた頃の記憶には、間違っている記憶が幾つかあります。 不思議なことに、会うと必ず間違った話をします。 最初の頃私は、「それは違うよ!」と言っていましたが、最近は「そうだったね!」と言う事にしています。

 姉はもうすぐ90歳になります。 家は、2所帯が十分暮らせる広さなので、甥夫婦が同居してくれたらと、(私は勝手に)祈っています。

痴ほう症 (その1)

2018-12-15 10:57:01 | 社会問題
 私のまわりでも、痴ほう症の人が少しずつ増えて来ている様に思います。 他の病気とは違って、患者は苦しむ事も無く、悩む事も有りませんから、幸福かも知れません。 家族の悲惨さは、その家の事情によって”まちまち”ですね!
 私が考えさせられた痴ほう症の例を、二回に分けて書きます。 世の中には、痴ほう症の家族を抱えて苦労している方が沢山おられる事を知って頂きたいのです。

【痴ほう症の人と仕事をしました】
 私は暗礁に乗り上げてしまった重要な開発を引き継いだ事が数回あります。 全て(他部署への)応援でした、つまり、人事異動は無く、幽霊社員が仕事をするわけです。 開発に成功しても、幽霊社員の成果にはなりませんでした。 開発に成功したら、別の中断した重要な開発の応援の話しが待っていました。 ボーナスは出世コースに乗った同期よりも多かったので文句は言えません。 この話も、そんな仕事の一つをした時の経験談です。

 年間数万個売れそうな製品でした。 「1年間で開発目標仕様を満足し、1台二万円で売れる製造方法を確立したら、派遣元の部署に帰ってよい」との口約束をしてもらいました。開発の前任者は(何時ものことでしたが)既に退職されていました。

 私の開発チームは、たいてい人事的には無茶苦茶でした。 この時は特に酷く、十数人のチームでしたが、チームリーダーの私は平社員でしたが、部長1人、次長1人、課長1人も私の指示で動く事になりました。

 一番困ったのは、派遣社員の製図工が”若年性認知症”だった事です。 この方は、国立大学の機械工学科を卒業され、大手企業に勤務されていましたが、40才になる前に大病で長期入院され、退社されていました。 退院された後から、認知症が進みはじめ、奥さんが娘さんを残して家を出られたそうです。 私と仕事を始めた時は、まだ45才ほどだったと思います。娘さんは国立大学の学生でした。

 最初の頃は、毎朝、その日にしてもらう仕事の内容を書いたメモを渡し、説明しました。 2か月ほど経つと、昼食後に仕事をしないでジッと瞑想している様になりました。 仕方がないので、朝と昼食後の2回、打合せをする事にしました。

 さらに2か月ほどすると、打合せの後でも仕事をしなくなりました。 期限の厳しい開発だったので、ぼーっとしている彼に近づくと、「今日は打合せが無かった」と言いました。 彼の製図版の上には、さっき渡したメモを置いていました。 そのメモを見た彼は、「君は人が悪い、私が席を外した間にこのメモを置いておいて、私を責める」と言い出しました。

 次の日から、打合せ時に彼にメモを作成してもらう事にしました。私は乱筆ですが、彼は綺麗な字を書きましたので、自分が書いたメモだと分かると思ったのです。 打合せの後、仕事をしない日が有りましたが、彼の机の上のメモで再度説明しました、「何時書いたのかなあ?」と言って、不思議そうにしていました。

 ”ハサミ”は指を萎めると先端も閉じますが、逆の動きをする組み立て用の道具(冶具)が必要になり、計画図を作って渡しました。 私の説明をじっと聞いていましたが、「そんな動きは絶対にしない。僕は国立大学の機械工学科を出ている。そんな図面は絶対に書かない」と言い張りました。 その日、何回も説明しましたが、「僕は国立大学の機械工学科卒だ!」の一点張りでした。 次の日に、「チームリーダー命令だ!」と言って強引に図面を作成してもらいました。

 認知症がドンドン進んできたので、派遣元の会社に代わりを出してもらう様に話に行きました。 「彼は他に行く所が無い、首にしたら娘さんは大学を辞めなければならない」と言われ、開発の目途がほぼ立っていましたので、我慢する事にしました。

 目標製造コストを半額にされて、量産製造方法を大幅に再検討しましたので、結局、1年と2か月ほど彼と一緒に仕事をしました。 「娘さんが大学を卒業出来たとしても、認知症の父親を抱えて就職は難しい」と言う人もいました。 私もそう考えましたが、娘さんはこれから大変な人生を歩むことになると思うので、せめて大学は出してあげたかったのです。

 あれから、もうすぐ30年になります。 その間、我が国の社会福祉は良くなっていますから、娘さんは、お父さんから解放されて幸せな生活をされていると信じています。

【健忘症の人と仕事をしました】
 2005年頃の話しですが、当時、私は中規模の会社に出向していました。 三階の小さな居室に四人が机を並べて、別々の仕事をしていました。 その会社に40年以上勤められている、65歳くらいの男性社員(A氏)がいました。

 A氏は、日に2~3回は下の階に用事で降りて行くのですが、毎回、すぐ上がって来て、「○○君、僕は何しに降りたのか?」と私に尋ねるのです。「分かりません」と答えると、しばらく机に向かって考えて、降りて行きました。

 A氏は、社内会議ではノートにメモを取っていましたので、「下に降りる時、用件をメモされては」と何回もアドバイスしましたが、実行されませんでした。

 この会社には、若手の設計者以外には、殆どパソコンが導入されていなかったのですが、老人の私がパソコンで仕事をするのを見て、会社のトップが全員にパソコンを支給し、社内メールシステムの導入を決定しました。 「3か月後からは、報告書、行動予定などなどの書類は全てパソコンで作成せよ、出来ない社員は辞めてもらう」と言う社長命令が出ました。 社長も含め、皆さん必死でパソコンに取り組みました。

 A氏には、隣の部屋の若手社員(B君)が教える事になりました。 毎日数回、B君を呼んでパソコンの操作を教えてもらっていましたが、なかなか使える様になりません。 二か月もすると、B君が”切れ”てきて、大きな声で「さっき教えたでしょう!」と嫌な顔をして言う様になりました。 私は、「教えてもらった事をメモしたらどうですか」とアドバイスししてみましたが、A氏は「うん、うん」言うだけでした。

 A氏は、古い顧客・数社の設備の修理や改良工事の見積と設計を担当されていました。 一件が数百万円の仕事で、毎回10%以上の赤字を出していました。 「何故、毎回赤字になるのか調べて欲しい」と依頼されました。 原因は直ぐに分かりました。A氏が設計図と呼んでいるのは、A4のコピー用紙に、フリーハンドで書いたメモの様な物でした。 見積積算資料に、沢山購入部品が漏れていて、工事中に緊急手配していたのです。

 「物忘れが酷くなった人に、設計や見積の仕事をさせる会社の方が問題だ」と私は思いました。 その後、2年ほどして私は別の会社に出向しましたが、A氏はまだパソコンを十分使いこなしておらず、赤字を出し続けていました。

【奥さんが痴ほう症で施設に入られた】 
 近所に子供さんのいない老夫婦が住んでいました。2005年頃から奥さんの様子がおかしくなりました。数年して御夫婦で家から東へ十数キロの所に遊びに出掛けられたのですが、数分目を離した隙に奥さんが見当たらなくなってしまったそうです。

 旦那さんが警察に届けた様ですが、警察は多忙ですから期待は出来ません。次の日から近所の人達数人で探しました。一週間ほど探しましたが見つかりませんでした。

 行方不明になって10日ほどたって、近所の方が車を走らせていたら、国道の路肩にボンヤリ座った奥さんを見付け、連れて帰ってくれました。 家から西の方向へ十数キロの所だったそうです。痴ほう症の奥さんが30キロ以上歩いた事になります。

 奥さんは元気で、お腹が空いた様子でも無かったそうです。10日間、誰かに食べさせて貰っていたのでしょう。 私は、「食べ物を与えるくらい親切な方なら、どうして警察に通報してくれなかたのだろう?」と不思議に思いました。

 家から徒歩数分の所にある、特別養護老人ホームに空きができ、1年程で奥さんを入れました。 旦那さんは、私の家の横の道を通て、毎日のように奥さんを見舞いにいっていました。その後、旦那さんも年老いて外に出なくなりました。 最近、その家の前にホームステイの迎えの車が止まる様になり、「旦那さんが先に逝ったらどうなるんだろう?」と町内では心配しています。

ユニセフについての身勝手な意見

2018-07-14 15:07:21 | 社会問題
 私の子供の頃は、山村はまだまだ貧しかったのでユニセフ(国際連合児童基金)の支援を受けて育った方が多かったと思われます。私も、その一人です。
 私の意見に反対の方が多数おられると推察しますが、勇気を出してこの記事を敢えて投稿します。

【日本もユニセフの支援を受けました!】 
 ほとんどの人は忘れてしまっていると思いますが、戦後(1949年~64年)15年間も日本はユニセフの支援を受けました。

 私は、1953年に小学生になりました。貧しくて弁当を持って来れない子がいて、村の有力者達(旦那衆)が県等に働きかけ、募金を募って小学校と中学校に給食室を作ってくれました。

 給食のメニューは、(少しずつ良くなりましたが、)外米の御飯、脱脂粉乳、ちょっとしたおかずです。外米の御飯と脱脂粉乳は小学校を卒業するまで続いたと思います。

 脱脂粉乳はユニセフの支援品だったと思いますが、外米もユニセフの支援品だったのかも知れません。安かったと思いますが、給食費が徴収されました。払え無い子もいたようですが、中身の見えない封筒に入れて先生に渡しましたので、誰が払え無かったかは先生以外には分から無い様に配慮していました。
 お陰様で、6年間、クラス全員揃って昼食を頂くことが出来ました。

【私はユニセフに持論を伝えました!】
 かなり昔、ユニセフが大災害が起こった国の子供達を支援する募金に応じた事があります。その後、ユニセフからパンフレットが送られてきて、時々電話が掛かってくる様になりました。

 ユニセフの支援を受けて育ったのに、身勝手な意見ですがと断って、以下のような私の考えをはっきり申し上げました。それ以来、(御理解頂けたのか、)パンフレットの送付も、電話も無くなりました。

 『支援した子供達が成人になった時に、仕事も食料も無いと思われる国で、飢えて死にそうな子供に食糧を与えて助けたとします。 その子達が成人して子供を産んだら、もっと悲惨な状態で育てなければならないと推察します。こんな支援は ”偽善”と思います。』と言いました。

【爆発的に人口が増加したら!】
 昔は我が国でも十代で女性が結婚しましたから、女性一人が(一生で)平均5人~6人くらい子供を生んだと思われます。後進国では今でも十代で結婚している国がある様です。そんな国で産児制限をしなかったら、(単純計算で)30年で人口は2倍になります。

 現在、仕事と食糧が何とかある国でも、30年で人口が2倍になったら、最貧国に転落する可能性は極めて高いと思われます。

 一国が養える人口は、食糧(農業・漁業)の生産量、工業の生産量、鉱物資源の生産量などによって決まります。これらの生産量の増加以上に、人口が増えたら食べられない人が増えて来ます。

【ユニセフは産児制限を推奨出来ません!】
 産児制限に反対する宗教(カトリックなど)や団体が、先進国には多いい現状で、ユニセフが最貧国で産児制限を推奨し、避妊具を無償で配布する運動をしたら、募金が減るのは明らかです。

 ローマ法王が、ユニセフが支援している最貧国に行って、惨状を見たら考え方を変えると思いますか? 多分、「これも神の思し召しです!」と仰るでしょう。

 この100年間で世界の人口は、おおよそ20億人が→70億人(3.5倍)になりました。地球はどれだけの人類を養えるのでしょうか?

 高名な先生の本に、「人類は季節によらないで交尾し、交尾したら雄雌とも気持ちが良くなるのは人類だけだ!」と書いていました。 娯楽の少ない最貧国の人達に「セックスするな」とは言えません。避妊具を無償で配布する以外に方法は無いと考えます。

【新しい総合的な国際基金を設けるべきです!】
 薄っぺらい人道主義で最貧国を支援すると、より貧しい人口を増やす事になります。目を覆いたくなる様な悲惨な光景がますます多くなるのです。  この悪循環を断ち切ることが肝要です。

 内戦が続く国や国の大半がスラム化して治安の悪い国は、人間としては忍び難いですが、支援するのは止めるべきです。

 内戦が収まり、治安が良くなった国に、『教育、職業訓練、産業を興す資金の提供など』の支援をする『新たな国際基金』を設けるべきです。そんな国で災害が発生した時は、子供に限定しないで、大人にも食糧や医薬品を支援しましょう!

皆で声を挙げましょう!

2018-07-07 20:14:10 | 社会問題
 多くの人が声を挙げたら、”ユックリ”ですが法律が見直され、社会は良くなります。今回は、(皆さんが、助けてあげたいと思う)悲しい女性達の話しです。

【尊属殺人罪は廃止されました!】
 旧刑法には『尊属殺人罪』の規定がありました。この規定は、”やっと“1995年に制定された新刑法から無くなりました。

 これは1955年頃の悲しい話です。

 山奥の私のふる里の、そのまた山奥に父親と娘・二人だけの家がありました。その娘が子供を産み、私の近所では『フシダラな女』だと評判になりました。二年もたたない内に二人目を生みました。

 問題の女性の家の近くから、私の家の隣に嫁に来ていた(普段はもの静な)女性が、「父親は、彼女の実父だ! 彼女は泣いて嫌がっていた!」と言って回りました。誰も信じ無かった様でしたが。

 暫くして、問題の彼女が父親を殺して逮捕されました。それで、隣の嫁さんの話しが真実だった事が分かりました。
 尊属殺人罪の規定に賛成していたと思われる旦那衆達も話し合って、減刑の嘆願書を作成しました。

 その後、彼女と幼い子供達がどうなったか知りませんが、『現在だったら、執行猶予付きの判決がでて、彼女が子供を育てられる時代になっている』と私は信じています!

注記 :ウィキペディアの『尊属殺重罰規定違憲判決』に、1968年に栃木県で起きた(よく似た)事件の最高裁判決が記載されています。私の田舎の事件は、それよりも10年以上前に起こりましたから、彼女には重い(無期刑か死刑)判決が出たと思います。

【カラダを売って払います!】
 1960年頃の話です。農協に勤めていた女性が、少しずつ何年にも亘って大金を横領していた事が発覚しました。

 あまりにも大金だったので、(私の父もその一員でしたが)旦那衆達が秘密裏に対策を話し合っていました。我が家でも、その会合が開かれたので、私の耳に入りました。
 その女性は一人っ子でした。両親が病気で、高価な医療費、薬代と生活費を支払うために横領していた事が分かりました。

 旦那衆達が出した結論は、「懲戒免職にはしない、給料はいままで通り支払う、少しずつ弁済すること」でした。

 彼女は、「今の給料では両親を養うことも出来ないので、カラダを売って弁済します」と言いて、すぐに村を出ました。

 その後、2年も経たずに完済したと、父が母に話すのを盗み聞きしました。

 今では社会福祉制度が充実していますから、彼女の悲劇が繰り返される事は無くなっていると信じています!

【お母さん、美味しいね!】 
 2015年頃の朝日新聞に、幼い二人の女の子を抱えた離婚訴訟中の女性の記事がありました。(私の怪しい記憶ですが!)

 彼女は、夫のDVのため子供を連れて家を出て、離婚訴訟を起こしていました。現在の法律では、この様な場合は、生活保護費の受給などが難しい様です。

 家を出る時に持っていた金が、段々と少なくなり、シーチキンを御飯にのせて醬油を注いで食べていたそうです。シーチキンを買う金もなくなって、食用油と醬油を注いだ御飯をだしたら、二人の女の子が「お母さん、美味しいね!」と言ったと書いていました。

 2018年の今日現在、この親子三人に生活保護費を支給するのは難しい様です。 皆さん!ネットを使った運動を起こして、政治家を覚醒させましょう!

 こう言う問題に取り組むのが、リベラルを掲げる政治家&政党の務めだと思います。森友問題や加計問題より、悲しい三人の話しを繰り返さない様に取り組んで欲しいものです!

過疎地の新しい産業は!

2018-06-23 17:58:17 | 社会問題
【田舎の道路】
 かつて、過疎地の重要な産業は土建工事でした。(トンネルや橋を含む)道路工事が中心で、他には砂防ダム、運動場、小さな公園、会館、集会場等々!
 国のお金が足りなくなっても、国は借金して過疎地に道路をつくり続けて来ました。おかげさまで、私が故郷に帰るのは非常に便利になりました。私のふる里の10軒ほどの集落には、立派な橋が2つも架かっています。
道路には色々なものがあり、それぞれ別の予算で作られます。私の故郷にある税金で作られる道路は、国道、県道、市道、農道、林道です。さらに、集落の道路は補助金で維持されています。
 林道には、ほとんど利用されていない物(一日に2~3台車が通る?)も有ります。

【測量事業の背景】
 20年程前までに、ここまでは要らないだろうと思われるほど、各種道路が建設されました。そこで、コッパ役人達が次の過疎地の産業として考えたのが「測量事業(地籍調査)」です。

 都会の方には「測量事業」の背景を説明しておく必要があります。
 近年まで、田舎では土地の境界線は道、石垣、あぜ道、分水嶺、川・谷などで、杭を打つ等々はされていませんでした。それで、十分用を足してきたのです。
 1950年頃に「測量法」が施工されましたが、貴重なお金を掛けてまでやる必要性を感じなかったためか?田舎では、家屋敷、田畑、山林の境界線は昔からの慣習のままでした。

 1990年頃に、父が所有している事になっていた故郷の土地を処分したのですが、その内なんか所かは実質的には国道と県道になっている土地でした。当時、私の故郷を走っている国道や県道は、登記簿上は「線」だけで「幅」が無かったのです。

【私は測量事業の被害者です!】
 2000年頃、故郷の屋敷跡地の境界線を確定したいので立ち会えと、役場から連絡があり帰りました。役場の担当者は「100年掛かる大事業だ」と自慢げでした。
 この結果、約200坪と言う事になっていた土地が、300坪ほどあった事がばれて、固定資産税が高くなってしまいました。
 昔し田舎のステイタスシンボルは土地の所有でした。広い土地を分筆して売る時、実測しないで取引したので、実際は100坪しかない土地でも、120坪とか130坪と水増しして登記していました。私の屋敷跡地は、戦前~戦中に何回か分筆して売ったらしいので、残りの土地の登記面積は実際より狭くなっていたわけです。

 それから2年ほどたって、私の山林の境界線を確定すると、また役場から連絡が有りました。
 役場の担当者を除くと私(50才台)が最も若く、あとの人は70才台でした。何種類かの杭と重いハンマーを背中に背負って運び上げました。重い杭は5kg程度ありましたので、急な山道を登るのは大変な思いでした。少し大袈裟ですが、ゴルゴファの丘を十字架を背負って登るキリストを思い浮かべました。(キリストはその時33才だったらしいですが!) 70才台だった方は、皆さんもう亡くなられています。

 私のふる里は遠いいので、役場から連絡が有るたびに旅費と宿泊料が数万円掛かり、毎回・二日有給休暇を取らなければなりませんでした。勿論、役場からは一銭も出ませんでした‼

【山林の価格】
 山林の価格は暴落したままです。三重県熊野市育生町粉所大谷の山林が売りに出てますが、面積が9万坪(288,000m2)杉や檜が植林され樹齢が34年~95年で価格は1,100万円です。
 東京ドームの6倍以上の面積があり、木は5万~6万本ほど植わっていると思われます。木は1本、200円程にしかなりません。植林して、草刈して、間伐して、枝打ちして・・・今までどれだけ手間が掛かっているかと思うと涙が出ます
 測量資料が有ると記載されていましたので、この山は(前述の)境界線を確定する作業は終わっていると思われます。境界線に杭を打っても、ほとんど山の値段は上がらないのです

【過疎地の山林の測量事業は中止すべきです。】
 ここまで読んで頂いた方は、『コッパ役人達』と下品な言葉を使った気持ちが分かって頂けるのでは? 『コッパ役人達』とは霞が関の役人のことです。 コッパ役人よ杭打ちと杭運びを手伝え! 貴重な税金を投入するのなら、山林の価値が上がる事業だけにしろ!

 過疎地では、ますます高齢化が進んでいます。山林の境界線には一般に道らしい道は有りません。70才以上の老人に、そんな所を登り・下りさせるのは”酷”だと思いませんか!

 都会に住む人がふる里の祖先伝来の土地を相続するケースが多くなっていますから、共感頂ける方が多いのではと、この記事を書きました。