今回も、1950年~60年頃の田舎の年末から正月の話しです。 現在は、お金さえ出せば”餅”、”おせち料理”などなど何でも手に入りますが、昔は家族総出で正月の準備をしました。
【餅つき】
きな粉も自家製で、12月の中旬に、炒った大豆を石臼で粉にしました。 学校から帰ったら、私も石臼を廻しました。
餅つきの前日に、母が多量の”あんこ”を作りました。 母は砂糖嫌いの不思議な人で、”あんこ”にも砂糖はあまり入れませんでした。 その夜、杵を水に浸して置きました。
どの家にも石臼か木臼があり、我が家のは少しひび割れた年季の入った木臼でした。 (1975年頃に、実家では餅つき機を購入して、木臼を処分してしまった様です。)
八人家族でしたので、早朝から昼頃までかけて、30kg(20升)くらいの糯米を搗きました。 近所に、十人家族の家が有りましたが、一俵(60kg)搗くと自慢していました。 昔は、米を沢山食べたのです!
私は、皿の上に餡を敷いて、(片栗粉を使用せずに)臼から少量の餅を直接皿に落としてもらい、熱々の餅を餡と一緒に頂くのが楽しみでした。
(余談) 姉の一人が高等学校で片栗粉の作り方を教わってきたので、私と二人で時々作りました。 石臼でジャガイモを磨り潰した物を晒しで包んで、水を入れた容器の中で何回も何回も揉みます。 容器の水は白く濁って来ます。 そのまま放置すると、容器の底に白い粉が溜まります。 水を捨てて、乾燥させると片栗粉になりました。
【年末に豆腐を作りました】
田舎の店では豆腐を売っていませんでしたので、我が家では一年に何回か豆腐を作りましたが、年末には必ず作りました。
大豆は貴重な畑ではなく、水田の”畔(あぜ)”で育てました。 近年に撮影された時代劇映画やテレビドラマの水田の周りには、大豆は植わっていませんが、私の田舎では1970年頃まで、ほぼ全ての畔に大豆が植えられていました。
前日、水に漬けて置いた大豆を、水を加えながら石臼で磨り潰し、釜に入れて炊きます。(もの凄い泡が立ちました。) 木の型枠の上に布(フィルター)を置き、釜の液体を流し込んで、素早く”にがり”を加えると、豆腐が出来ました。
”布”の上に残ったのが”おから”です。 私は、”おから”も大好きです。 市販の”おから”より美味しかった様に思います。
豆腐を作る時、一番大変なのが石臼の作業です。 1960年頃に、母がミキサーを買ったので豆腐作りは簡単になりましたが、この頃から我が家では豆腐は作らなくなりました。
【コンニャクも作りました】
コンニャクは、皮が黒いコンニャク芋から作ります。 連作障害が無い様で、田舎では毎年同じ畑の隅に植えていました。 虫も病気も発生せず、ほったらかしで育てました。
容器に竈の灰と水を入れ、コンニャクの凝固剤(灰汁)を作りました。 コンニャク芋と水を桶に入れて、二本の棒を交差させて縛った道具を捏ねて皮をむきました。
釜で水を沸騰させ、そこに芋を入れて、結構長い時間煮た様に思います。 芋を臼に入れて、杵で叩いて”こねる”だけで、"合いの手“”は要りません。 30分ほど搗いたら、お湯を加えながら搗きました。 杵から解放された時、私は疲れてしまって、何時も隣の部屋で横になっていたので、その後の母と姉達の作業を見ていません。 私の役目は皮むき、杵搗き、竈の火の番でした。
我が家のコンニャクはスーパーで売っているものより、色黒で硬くて美味しかったです。 田舎に帰ると、今でもコンニャクを植えた家があります。
【棒寿司】
棒寿司は、11月上旬の秋祭りと、年末の二回作りました。 戦前は、秋に鮎の”なれずし”を作って、正月に頂いたと父は言っていました。
秋祭りの時の棒寿司は、秋刀魚(サイラ)が主でしたが、正月には鯖、アジ、カマスでした。 鯖以外の魚は頭付きで棒寿司にするのです。 カマスが大好きな姉が、「頭を取って、寿司にして欲しい!」と言ったら、父が酷く怒った事を覚えています。 食べられない頭が嫌だったのでは無く、この姉は尖った物が嫌いだったのです。
寿司を作る日の朝、私は一人で笹の葉を取に出掛けました。 隣の集落に続いた川沿いの細い昔の道があり、当時はもう殆ど使用されていませんでした。 草ぼうぼうの道で、怖い”マムシ”が時々いるのですが、寿司を作る時期には冬眠しているので安心です。 この小道の脇に、普通の二倍以上大きな葉を付ける笹が自生していました。
棒寿司は笹の葉で巻いて、木の箱にぎっしり詰めて、蓋をして置きました。 笹の葉の香りが寿司に移って、美味しかったです。
(余談:秋刀魚) 田舎では秋刀魚の事を『サイラ』と呼んでいました。紀州の秋刀魚は脂が少なく、焼いてもボトボト脂が滴る事が無かった様に思います。 棒寿司には、脂の少ない方が適しています。 紀州出身の佐藤春夫の詩、『秋刀魚の歌』には紀州の秋刀魚の方がイメージぴったりだと思います。
【おせち料理】
大晦日に、母と姉達が手分けして、おせち料理を作りました。 大所帯だったので、沢山作りましたが、特に変わったものは有りませんでした。
紅白歌合戦が始まる頃までには、正月の準備は完了していました。 我が家にテレビが来たのは1970年過ぎで、まだラジオで聞いていました。 私は、歌謡曲が嫌いなので、大晦日には別室で読書をしました。
【国旗】
集落の全ての家で、祝日には国旗を掲げました。もちろん正月にも掲げました。 集落には、父が中心になって再建した氏神さんが有りましたが、初詣の記憶は有りません。
(余談) 妻の嫁入り道具の中に国旗が入っていました。 我が家では、1985年頃まで祝日には国旗を玄関先に飾っていました。
【お屠蘇】
我が家には、”塗り”のお屠蘇のセットが有りました。 結婚後に家内は、日本酒に「屠蘇散」を加えていましたが、田舎では単なる日本酒でした。 元旦の朝は、まず、家族全員でお屠蘇を頂きました。 物心付くころから、幼い私も一番小さい杯で頂きました。 勿論、そのあとでお年玉を頂きました。
昨年、長男の娘が五歳になるので、「そろそろお屠蘇を飲ませても良いか」と思い、お嫁さんに伺ったのですが、「まだ早い」と言われました。 お屠蘇は何歳からなら、良いと思われますか?
【火鉢と栗】
我が家は、幹の直径が50cm以上有る大きな栗の木を、山裾に十本程植えていました。 栗は豊作と不作の年が有りますが、不作の年でも食べきれない程の収穫がありました。
正月には、朝から火鉢に炭を入れ、家族は銘々勝手に餅や栗を焼いて食べました。 私は、皆を驚かせようと、栗の皮に傷を付けずに火鉢に入れたのです。 栗が弾けて、灰が部屋中に舞い上がり、大変怒られた記憶があります。
【凧揚げ】
12月に入ると、男の子達は奴凧と凧糸を買い、夏の障子の張替えの時に出来た”紙端”を適当に切って、凧の足にしました。 糊は店で買う”物”ですが、昔は御飯で凧に”足”を貼り付けました。
お年玉をもらうと、タコ糸を数束買い増しして、凧を高く揚げる競争をしました。 そろそろ冬休みの終わりの頃になると、タコ糸を何本も継いで、山より高く凧を揚げたあと、何とかして地上に降ろそうと奮闘しました。 誰も凧を回収する事は出来ず、糸が切れて山の向こうに飛んで行きました。 それで、楽しい正月は終わりになったのです。
【餅つき】
きな粉も自家製で、12月の中旬に、炒った大豆を石臼で粉にしました。 学校から帰ったら、私も石臼を廻しました。
餅つきの前日に、母が多量の”あんこ”を作りました。 母は砂糖嫌いの不思議な人で、”あんこ”にも砂糖はあまり入れませんでした。 その夜、杵を水に浸して置きました。
どの家にも石臼か木臼があり、我が家のは少しひび割れた年季の入った木臼でした。 (1975年頃に、実家では餅つき機を購入して、木臼を処分してしまった様です。)
八人家族でしたので、早朝から昼頃までかけて、30kg(20升)くらいの糯米を搗きました。 近所に、十人家族の家が有りましたが、一俵(60kg)搗くと自慢していました。 昔は、米を沢山食べたのです!
私は、皿の上に餡を敷いて、(片栗粉を使用せずに)臼から少量の餅を直接皿に落としてもらい、熱々の餅を餡と一緒に頂くのが楽しみでした。
(余談) 姉の一人が高等学校で片栗粉の作り方を教わってきたので、私と二人で時々作りました。 石臼でジャガイモを磨り潰した物を晒しで包んで、水を入れた容器の中で何回も何回も揉みます。 容器の水は白く濁って来ます。 そのまま放置すると、容器の底に白い粉が溜まります。 水を捨てて、乾燥させると片栗粉になりました。
【年末に豆腐を作りました】
田舎の店では豆腐を売っていませんでしたので、我が家では一年に何回か豆腐を作りましたが、年末には必ず作りました。
大豆は貴重な畑ではなく、水田の”畔(あぜ)”で育てました。 近年に撮影された時代劇映画やテレビドラマの水田の周りには、大豆は植わっていませんが、私の田舎では1970年頃まで、ほぼ全ての畔に大豆が植えられていました。
前日、水に漬けて置いた大豆を、水を加えながら石臼で磨り潰し、釜に入れて炊きます。(もの凄い泡が立ちました。) 木の型枠の上に布(フィルター)を置き、釜の液体を流し込んで、素早く”にがり”を加えると、豆腐が出来ました。
”布”の上に残ったのが”おから”です。 私は、”おから”も大好きです。 市販の”おから”より美味しかった様に思います。
豆腐を作る時、一番大変なのが石臼の作業です。 1960年頃に、母がミキサーを買ったので豆腐作りは簡単になりましたが、この頃から我が家では豆腐は作らなくなりました。
【コンニャクも作りました】
コンニャクは、皮が黒いコンニャク芋から作ります。 連作障害が無い様で、田舎では毎年同じ畑の隅に植えていました。 虫も病気も発生せず、ほったらかしで育てました。
容器に竈の灰と水を入れ、コンニャクの凝固剤(灰汁)を作りました。 コンニャク芋と水を桶に入れて、二本の棒を交差させて縛った道具を捏ねて皮をむきました。
釜で水を沸騰させ、そこに芋を入れて、結構長い時間煮た様に思います。 芋を臼に入れて、杵で叩いて”こねる”だけで、"合いの手“”は要りません。 30分ほど搗いたら、お湯を加えながら搗きました。 杵から解放された時、私は疲れてしまって、何時も隣の部屋で横になっていたので、その後の母と姉達の作業を見ていません。 私の役目は皮むき、杵搗き、竈の火の番でした。
我が家のコンニャクはスーパーで売っているものより、色黒で硬くて美味しかったです。 田舎に帰ると、今でもコンニャクを植えた家があります。
【棒寿司】
棒寿司は、11月上旬の秋祭りと、年末の二回作りました。 戦前は、秋に鮎の”なれずし”を作って、正月に頂いたと父は言っていました。
秋祭りの時の棒寿司は、秋刀魚(サイラ)が主でしたが、正月には鯖、アジ、カマスでした。 鯖以外の魚は頭付きで棒寿司にするのです。 カマスが大好きな姉が、「頭を取って、寿司にして欲しい!」と言ったら、父が酷く怒った事を覚えています。 食べられない頭が嫌だったのでは無く、この姉は尖った物が嫌いだったのです。
寿司を作る日の朝、私は一人で笹の葉を取に出掛けました。 隣の集落に続いた川沿いの細い昔の道があり、当時はもう殆ど使用されていませんでした。 草ぼうぼうの道で、怖い”マムシ”が時々いるのですが、寿司を作る時期には冬眠しているので安心です。 この小道の脇に、普通の二倍以上大きな葉を付ける笹が自生していました。
棒寿司は笹の葉で巻いて、木の箱にぎっしり詰めて、蓋をして置きました。 笹の葉の香りが寿司に移って、美味しかったです。
(余談:秋刀魚) 田舎では秋刀魚の事を『サイラ』と呼んでいました。紀州の秋刀魚は脂が少なく、焼いてもボトボト脂が滴る事が無かった様に思います。 棒寿司には、脂の少ない方が適しています。 紀州出身の佐藤春夫の詩、『秋刀魚の歌』には紀州の秋刀魚の方がイメージぴったりだと思います。
【おせち料理】
大晦日に、母と姉達が手分けして、おせち料理を作りました。 大所帯だったので、沢山作りましたが、特に変わったものは有りませんでした。
紅白歌合戦が始まる頃までには、正月の準備は完了していました。 我が家にテレビが来たのは1970年過ぎで、まだラジオで聞いていました。 私は、歌謡曲が嫌いなので、大晦日には別室で読書をしました。
【国旗】
集落の全ての家で、祝日には国旗を掲げました。もちろん正月にも掲げました。 集落には、父が中心になって再建した氏神さんが有りましたが、初詣の記憶は有りません。
(余談) 妻の嫁入り道具の中に国旗が入っていました。 我が家では、1985年頃まで祝日には国旗を玄関先に飾っていました。
【お屠蘇】
我が家には、”塗り”のお屠蘇のセットが有りました。 結婚後に家内は、日本酒に「屠蘇散」を加えていましたが、田舎では単なる日本酒でした。 元旦の朝は、まず、家族全員でお屠蘇を頂きました。 物心付くころから、幼い私も一番小さい杯で頂きました。 勿論、そのあとでお年玉を頂きました。
昨年、長男の娘が五歳になるので、「そろそろお屠蘇を飲ませても良いか」と思い、お嫁さんに伺ったのですが、「まだ早い」と言われました。 お屠蘇は何歳からなら、良いと思われますか?
【火鉢と栗】
我が家は、幹の直径が50cm以上有る大きな栗の木を、山裾に十本程植えていました。 栗は豊作と不作の年が有りますが、不作の年でも食べきれない程の収穫がありました。
正月には、朝から火鉢に炭を入れ、家族は銘々勝手に餅や栗を焼いて食べました。 私は、皆を驚かせようと、栗の皮に傷を付けずに火鉢に入れたのです。 栗が弾けて、灰が部屋中に舞い上がり、大変怒られた記憶があります。
【凧揚げ】
12月に入ると、男の子達は奴凧と凧糸を買い、夏の障子の張替えの時に出来た”紙端”を適当に切って、凧の足にしました。 糊は店で買う”物”ですが、昔は御飯で凧に”足”を貼り付けました。
お年玉をもらうと、タコ糸を数束買い増しして、凧を高く揚げる競争をしました。 そろそろ冬休みの終わりの頃になると、タコ糸を何本も継いで、山より高く凧を揚げたあと、何とかして地上に降ろそうと奮闘しました。 誰も凧を回収する事は出来ず、糸が切れて山の向こうに飛んで行きました。 それで、楽しい正月は終わりになったのです。