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マスコミがあまり報道しない様な問題を、私なりに考えてみます。

企業の民主化 (その2)

2019-11-02 11:06:35 | 民主主義
今回は、「昔は素晴らしい会社だったのに!」と言う話しです。

【企業の民主化度】
 私は、企業の民主主義の程度を表すのに、『民主化度』と言う言葉を勝手に作りました。 民主化度の調査は、非常に重要だと思うのですが、調査して公表すると、企業の求人活動を妨害する事になってしまいそうです。 然し、民間の寄付を集めて”民主化度調査団体”を作ったら、日本の企業は活性化して、経済の低迷から脱出できるのでは?と私は考えています。

 民主化度を高める為には、企業にとって”金”が掛かります。 然し、社員が”生き生きとして”仕事をする様になり、職場に活気が戻ると思います。→→会社の生産性が向上します。  内部留保に走らないで、”金”の一部を民主化度向上に使って欲しい!

【自分の会社の民主化度は?】
 自分が勤めている会社は、往々にして悪く思える様です。 私は、出向や共同研究などで、十社以上の会社に入って仕事をしましたが、自分の会社を褒める社員は殆どいませんでした。 どんな会社にも、どんな職場にも不満は有ります。 そして、殆どの社員は、他社の状況が分からないのですから、自分の会社に不満を持つ事になるのでしょう。

【企業の民主化度は前進/後退します】
 大企業の場合は、上司のパーソナリティで民主化度が前進したり、後退したりします。 同じ会社でも民主化度が高い風土が、伝統的に維持されている部署も有りました。 大体、利益率の高い部署は民主化度が高く、他社との競争が激しく、儲かっていない部署の民主化度は「同じ会社か?」と思えるほど悪かったです。

 1985年頃から、私の勤めていた会社は経営状態が悪化し始めました。 今回は、「1985年頃まで、どんなに素晴らしい会社だったか」について、次回は、「その後、どんな風に民主化度が悪化して行ったか」について書きます。

【私の会社の良かった点】
 私が入社した頃(1970年頃)、会社の民主化度は最高だった様に思います。今、振り返ると「入社した頃の会社は、当時の日本では民主化度の高い会社だった」と思います。 今から考えると、良い会社だったと思われる点を、以下に洗い出して見ました。

【① 月給が高かった】
 私は給料の高低で会社を選んだのでは無かったのですが、入社した会社は、大学の友人達よりも月給は20%以上多かったです。 1970年代には日本の会社は成長しましたから、(今では信じて頂けないかも知れませんが、)毎年、20%近く昇給しました。 私は仕事が忙しかったので、使い切れない程でした。

 1985年頃から、会社の経営に暗雲が立ち込め出して、私の給与は40歳頃がピークになってしまいました。 その後の10年間で、平均給与は20%~30%低下したと思います。

【② ボーナスも沢山出ました】
 当時は月給もボーナスも現金で頂きました。 ボーナスは2袋有りました。 課長以上の方のボーナスは、想像を絶する額でした。 課長になると、(名目だけ)子会社の管理職を兼務して、その会社からもボーナスを貰っていた様です。(この制度は、私が入社して数年後には廃止された様でした。)

(余談) 大卒の初任給が数万円の頃、古手の課長のボーナスは一回100万円以上有りました。 課長が会議で席を外されていた時、新入社員が課長のボーナスを預かったのですが、課長が帰られると、彼は「手帳を預かっていますと」と言って渡しました。(課員全員で大笑いした事を覚えています。)

【③ 社員が増加しました】
 私が入社した後、会社の経営はほぼ順調で、毎年沢山新入社員が入ってきました。 特に、大卒は多かったです。 入社して10年後には社員は2倍以上になっていました。 その後は、次第に会社の経営は厳しくなり、バブル期の前に人員削減を始めていました。 人員削減と同時に、給料がダウンして、職場の雰囲気が悪化して行きました!

【④ 独身寮】
 私の同期は450名ほどいましたが、その大半が独身寮に入りました。各地に独身寮が有り、暖房付きの6畳の二人部屋でした。 入社した年に、大阪で大学の友達が数人集まった事が有りましたが、(昔の大店の丁稚部屋の様な)一部屋に十人以上と言う会社も有りました。(その会社は、現在は超一流企業になっています。)

【⑤ 社宅も充実していました】
 全国、各地に社宅が有って、市価の半額以下の賃料で入居出来ました。 私は転勤で、4か所、10年ほど社宅を利用出来、非常に助かりました。 (一か所は3DKでした!)

【⑥ 最初の職場は冷暖房完備でした】
 私は1971年に入社したのですが、最初の職場は冷暖房完備だったのでビックリしました。 当時、暖房するビルは有りましたが、冷房は極めて少なかったのです。 夏・暑い日は、女性社員達が帰ってしまうと、皆さん、上着とズボンを脱いで、下着姿で仕事をするのは珍しい事では有りませんでした。

(余談) 1950年代に、ビルの冷暖房設備を開発し、デモンストレーションの為に、私の部署が有ったビルに試作機を設置していたのです。 当時の日本は、まだ貧しかったですから、需要が無くて、私が入社した時は冷暖房の分野から撤退していました。 (ダイキン工業さんより、10年程早かったのです。)

【⑦ 会社の病院】
 本社の近くに(結構大規模な)会社の総合病院が有り、勤務時間中でも診察を受ける事が出来ました。 腕の良い先生がおられて、市民の方も沢山来られていました。 この病院は、立て直し、更に大きくなって今でも存在しています。

【⑧ 会社の保養所】
 会社の保養所が全国に十か所近く有り、契約旅館やホテルも沢山有って、格安で家族旅行が出来ました。我が家は、箱根と軽井沢の保養所を何回も利用させて頂きました。

【⑨ スポーツ設備】
 本社には、大きな体育館が有り、ボーリング、トランポリン、バスケットなどの設備があり、昼休みや定時後に楽しむ社員が沢山いました。 大きな工場には、体育館、柔道場、運動場、テニスコートなどが有り、本社の近くにはGHQが作った洒落たプールも有りました。 このプールは暫くして閉鎖されましたが、1985年頃には一般にも開放する温水プールが出来ました。

(余談) 尼崎市だったと記憶するのですが、社員用の野球場が有り、取引先から「借りて欲しい」と時々頼まれました。 手続きが面倒だったのですが、何時も期待に沿える様に頑張りました。 そんな会社には、無理な仕事の依頼が出来たので、私は大いに助かりました。 (情けは人の為ならず。)

【⑩ 実業団スポーツ・クラブ】
 社会人野球部、バレイ部、陸上部とラグビー部が有り、野球部は強かったので応援に行きました。現在は、ラグビー部だけ残っています。

(余談) 私は、学生の頃からラグビーの観戦が趣味の一つです。(新日鉄釜石のファンだったのです。) 入社した頃は、会社のラグビー部は弱かったのですが、急に強くなって、応援する様になりました。それから40年ほど応援しています。 今でも、年に2~3回は観戦に行きます。 故・平尾誠二氏と同じビルに勤務した事が有り、時々廊下ですれ違いました。 ワールドカップでの日本の活躍は、感無量でした!

【⑪ クラブと設備】
 ヨット部、サッカー部、剣道部、弓道部、絵画部、勤労者演劇協議会(労演)、勤労者音楽協議会(労音)などなど、沢山のクラブが有りました。

(思い出 :1) 小形船舶2級免許を持った同期の友人が、会社のヨット部に入っていました。 「一人の出航は禁止、朝の9時まで待って、他に誰も来ない日は諦める」と言う規則が有りました。 結構遠方の港に係留し、最寄の駅から遠かったで、二人以上集まる事が少なかった様です。 休日の朝早く、友人が私を叩き起こして、ヨットに誘うのです。 操船担当を条件に、20回近く乗りました。 ヨーロッパ製の、木製でエンジン、キッチンユニット、トイレ、ベット付きの格好の良い本格的なヨットでした。

(思い出 :2) 私は、演劇鑑賞とクラシック音楽が大好きです。 労演には会社単位や職場単位で申し込むのが原則でしたが、駄目元で一人で申し込みに行って見ました。 最初は断られましたが、「如何に演劇が好きか!」粘り強く話したら、特別に許可して頂けました。 それ以来、殆ど欠かさずに見に行きました。 結婚して、妻も会員にしたので、二人で鑑賞しました。 十年程して遠方に転勤になり、以来労演から遠ざかってしまいました。

【⑫ 女性社員の教養講座】
 女性社員達の為に、お茶、生け花教室などが有りました。 生け花教室の日は、立派な花を持って出社するのです。 男性社員は怒鳴られたりしましたが、私が出向した1995年頃まで、女性社員を怒鳴ったり、虐めたりするのを見た事が有りません。 (会社も、男性社員も女性には気を使っていたのでしょう。)

 定時になると、女性達は一斉に帰ってしまいました。 1990年頃から、女性も専門職として採用する様になりましたが、それまでは事務職としての採用でした。女性は、30歳前に辞めるのがルールの様になっていました。