これ!どう思います?

マスコミがあまり報道しない様な問題を、私なりに考えてみます。

選挙運動の体験談

2024-02-17 09:47:51 | 政治
【はじめに】
 「政治には金が必要だ!」と言われますが、その原因の一つは選挙運動です。 公職選挙法では、ボランティアの運動員を集めて選挙運動する事を要求しています。

 ほぼ法令順守が出来るのは、ボランティアの運動員が集められる公明党、共産党、社会民主党、そして連合の支援が得られる政党だと思われます。れいわ新選組は若いボランティアを集めている様です。日本維新の会はどうなんでしょうか?!

 自民党は、昔は土木・建築関係の会社が運動員として社員を派遣していましたが、現在・選挙運動に社員を派遣する会社は激減していると思われます。自民党に投票される方は、是非とも選挙運動に参加してみて下さい! シンドイ仕事で、ボランティアを集めるのが難しい事が理解出来ます。

 自民党には、100万人を超える党員がいますが、「ボランティアで選挙運動に参加する方は殆どいないのでは?」と私は思っています。 公職選挙法を改正して、金を出して運動員を雇って良い事にすると種々の問題が発生すると予想します。自民党が、れいわ新選組の山本太郎氏を見習って、ボランティアで選挙運動する党員を増やさない限り、『黒い金』を無くす事は出来ないでしょう!

 選挙運動に「どんな仕事が有るのか?」、「どんなにシンドイ仕事か?」を理解して頂く為に、私の体験を書きました。

【兵庫3区】
 2009年の衆議院選挙で民主党政権が誕生しましたが、私はその時・兵庫3区の民主党候補の選挙運動をお手伝いしました。

 兵庫3区は、垂水区と須磨区です。面積は『約57km2』で人口は『約36万人』です。(日本一広い選挙区は、北海道12区で、面積は『約14,741km2』、海岸線が『約640km』も有り、人口は『約28万人』です。) 兵庫3区には、民主党の現職D氏、自民党の現職S氏と共産党の候補者など、六人が立候補していましたが、実質的にはD氏とS氏の一騎打ちの状態でした。

 S氏は、2005年の選挙でD氏を破って、衆議院議員になった『小泉チルドレン』の一人です。(2005年の選挙では、D氏は比例区で復活当選していました。) S氏は、四国出身で兵庫3区との繋がりは無かった様です。2005年以降、垂水に地元事務所を設け、その近くに住んでいた様でした。

 S氏は、公明党の推薦を受けていましたが、S氏の選挙活動に公明党の婦人達は積極的に参加していなかった様でした。自民党の県会議員や市会議員も積極的には支援していなかった様に見受けられました。 (S氏は、2012年の選挙で復活して、その後は連続当選しています。)

 兵庫3区の西隣は明石選挙区で、自民党から西村康稔氏が立候補していました。垂水区と明石市の境界に『JR霞ヶ丘駅』が有るのですが、そこで、D氏と西村氏が何回か鉢合わせしました。西村氏は何時も、揃いの『はっぴ』を着た婦人を10人程連れてきていました。「多分、公明党の婦人達だ」と推察しました。

【私の選挙運動の体験】
 私は2009年8月18日~30日に実施された衆議院選挙で、兵庫3区に立候補した民主党の現職議員(D氏)の選挙運動をボランティアでやりました。 運動中に外食、弁当、お茶、コーヒーが出るので、(手弁当でやりたかったので、)最初に『5万円』政治献金したら、D氏は、チャンと領収書を発行してくれました。

 私は、国会が解散する前の6月の末頃から選挙運動に参加しました。告示される前は、休日にD氏が帰省した時に朝と夕方、地元事務所を取り仕切っていた公設秘書と二人で駅前の街頭演説の場所作りをしました。街頭演説を始める頃→→民主党の県会議員と市会議員が集まって来て→→D氏と交代で一時間ほど街頭演説しました。

 朝の街頭演説が終わると、五、六人で毎回・近くの喫茶店でモーニングを頂きました。私は、朝起きると直ぐに昼食を取るのが習慣になっていたので、コーヒーだけ頂きました。 その料金はD氏が支払いました。

 太宰治の『人間失格』に『電気ブラン』が登場します。一度味わって見たいと思っていました。 私の家の近くの駅前で朝の街頭演説をした後に入った喫茶店に『電気ブラン』を置いていました。私は、前払いで『電気ブラン』を注文して呑んだ記憶が有ります。 その後、散歩で、その喫茶店の近くに行くと『電気ブラン』を呑みました。

【地元事務所と選挙事務所】
 D氏の地元事務所は須磨区に有りました。エレベーターの無い鉄筋コンクリート造の古い建物で、階段が暗く/狭く/急でした。3階に有ったので、私は昇り降りに苦労しました。格安の家賃だったと思います。 近くの駐車場に自家用車を1台駐めていました。

 20畳ほどの部屋に古い書類を山積みにしていました。私と同年配の女性の公設秘書、パートの女性、二十歳代の男性、三人いました。 男性は人付き合いが出来ないので、会社に務められ無かったのです。週に二、三回来て、二、三時間簡単な仕事をして帰りました。私は彼と話した記憶が全く有りません。 選挙期間中、彼は出て来ませんでした。

 8月15日頃に、垂水の商店街に有った店仕舞いした所を借りて→→リフォームして→→椅子、机、冷蔵庫などをレンタルして→→選挙事務所にしました。 (冷蔵庫は大型でした。)

 選挙事務所から徒歩四、五分の所に、崩れかかったボロ屋が有りました。 そこに、D氏を支持する老人達が集まって昔話をしていました。選挙事務所とボロ屋に、後述の『Wグループ』の婦人達が毎日きて、お茶やコーヒーを入れていました。

【駐車場の契約】
 選挙事務所の近くの有料駐車場に、十台ほど駐められるスペースを確保しました。選挙カー用と、車やバイクで応援に来られる運動員の為に必要でした。運動員は朝夕に駐めるだけだったので、日中は1台も駐めていませんでした。 近所に迷惑を掛けない為に、駐車スペースが必要なんです。

【公選はがき】
 衆議院の小選挙区に立候補すると『公選はがき』を35,500枚、国の費用で出す事が出来ます。 然し、D氏の後援会名簿はビックリする程貧弱で、二、三百人程しか記載されていませんでした。 民主党の県会議員と市会議員が、それぞれの後援会名簿を持参してくれました。

 私が、ザット名簿をチェックするとダブり(重複)が多数見つかりました。 「エキセル・データーにして、フィルター機能を使って整理したら、重複しない名簿を作れる」と私が提案したのですが、公設秘書に却下されました。

 D氏は福祉活動家でもあったので、その活動を支援する十数人の婦人達の団体(Wグループ)が有りました。公示前に、D氏の事務所で、彼女達が交代で『公選はがき』の宛名を手当たり次第に手書きしました。 Wグループのメンバーはボランティアでした。 (宛名書きの人を有償で雇う事は法律で禁止されています。)

 連合から派遣されていた郵便局の職員と私の二人で、『公選はがき』を真夜中に中央郵便局に持ち込んで『郵便物区分機』に投入して、配達地域毎に纏めました。 翌日、Wグループの婦人達がダブり(重複)をチェックして、規定の枚数『35,500枚』に絞り込みました。

【仮設電話】
 公示前に、地元事務所に電話を数台仮設していました。Wグループの婦人達が交代で、電話を掛けました。 (電話を掛けの運動員を有償で雇う事も法律で禁止されています。)

【告示後の選挙運動】
 告示された日の早朝に、東京駐在の公設秘書・二人(男性と女性)と連合から責任者(T氏)が選挙事務所の方にきました。連合のT氏は『中々の人物』でしたが、公設秘書の二人は高飛車で選挙運動は全くの素人でした。 連合から、その日の仕事に適した人材を毎日沢山派遣されてきました。毎朝、T氏が各自に仕事を振り分けました。 私にも具体的な指示を出してくれました。

 東京から来た公設秘書・二人は選挙に関する知識と経験が殆ど無い様に見受けられました。二人で選挙を仕切ろうとして→→T氏の指示に異を唱えるだけで→→自分達は何もしませんでした。 二日目に、T氏の堪忍袋の緒が切れて→→「東京に帰れ!」と言われたのですが→→投票日まで事務所でお茶を飲んでいました。

【昼食、休憩】
 12時前後になると、運動員は『てんでんばらばら』に選挙事務所に帰ってきて、Wグループの婦人達が準備した弁当とお茶を頂きました。事務所が狭かったので、急いで食べて席を譲る必要が有りました。 選挙運動は肉体労働ですから、お腹が空きます。弁当を2個貰う人もいました。 

 8月の選挙だったので、時々選挙事務所に帰って→→お茶やコーヒーを貰いました。冷蔵庫は大型でしたが、冷やしたお茶やコーヒーも買っていた様でした。「飛ぶようにはける」のでした。

【選挙カーとウグイス嬢】
 D氏の親戚にレンタカーの会社に勤務されている方がいたので、古びた選挙カーを一台借り、専属の運転手を一人雇いました。そして、ウグイス嬢も一人雇いました。 一日・12時間以上の激務になりますが、法律で日当は15,000円以下と規定されています。 (多分、15,000円以上支払ったのでは?と思いました。とても、法定料金では雇えません! 黒い金が必要になるのです!)

【選挙ポスター】
 選挙が始まった第一日目は、大忙しです。 先ず、『候補者ポスター掲示板』に、手分けしてポスターを貼る必要が有ります。 連合から派遣された運動員の一部が、自家用車やバイクを持参していて、彼らが短時間に全ての掲示板に貼りました。 (この仕事専用に人を雇うのも法律で禁止されています。 ポスター貼り、選挙期間中のチェック、貼り替えを代行する会社が有ります。)

 選挙期間中、ポスターをチェックする必要が有ります。私がチェックを担当した掲示板では、ポスターに悪質な落書きが有ったり、ポスターが剥がされました。その都度、新しいポスターに貼り替えました。

 県会議員と市会議員が、一戸建てに住む後援会のメンバーから、壁やフェンスにポスターを貼る許可を取り付けてくれました。 地元事務所の公設秘書と私の二人で、ポスター貼りに回ったのですが、二軒に一軒は、奥さんが「近所の公明党の奥さんが煩いので、勘弁して欲しい」と言われたので、貼れませんでした。 (勿論、我が家のフェンスにもポスターを貼りました。)

【ポスティング】
 連合から派遣されたT氏が、数量に限りの有るチラシを投函する場所を決めました。T氏は若い住人が多いい地域を知っていて、そんな地域の一戸建や集合住宅にポスティングする様に指示しました。 私は、乗用車持参で連合から派遣された方とチームを組んでポスティングしました。近くまで車で行って、徒歩でポスティングしたのです。

 連合から郵便局の配達員が派遣されていました。彼らはバイク持参で、バイクを活用してポスティングするのです。その手際の良さには感服しました。 自民党がボランティアの配達員を確保するのは難しいと思います。

(余談 :S氏の運動員) 私は街頭演説の場所を確保する担当もやりました。横取りされない様に、演説が始まるまで、その場に留まるのが仕事でした。 共産党の運動員(C氏)と顔見知りになって、雑談する様になりました。暫くして、自民党の運動員(L氏)、C氏と私の3人で雑談する様になりました。

 L氏は、40歳をゆうに超えている様に見えました。「S候補の大学の後輩で、大学院生です」、「夏休みなのでボランティアで先輩を応援している」と言いました。C氏が、「大学院生にしては年を取り過ぎている」・・・色々、L氏に質問しました。それ以来、L氏は私とC氏に近づきませんでした。 L氏は法律違反の、金で雇われた運動員か?、統一教会から派遣された運動員か?だと思われます。

(余談) 天気の良い日に、10階建て程の公立の真新しい集合住宅でポスティングした時の話しです。 木陰のベンチで老人達が10人ほどで会話を楽しんでいました。 呼び止められて、彼らと雑談しました。彼らはエレベーターの無い五階建ての集合住宅に住んでいたそうです。老朽化していたのと、構造上エレベーターを設けるのが難しかったので→→別の場所に10階建てを建てて→→2棟ほど解体して→→エレベーター付きを新築して→→2棟ほど解体して・・・団地全体を建て替える計画を進めていたのです。

 老人達は、「こんな快適な住まいで一生を終えられるとは思ってもみなかった!」、「本当に有難いです!」と言われました。

【個人演説会】
 須磨区の県会議員が専門学校に通っている男性(S1氏)と女性(S2氏)を二人派遣してくれました。 D氏の個人演説会の会場設定は、地元事務所の公設秘書、S1氏、S2氏と私の四人で何時もやりました。 会場を掃除して→→折り畳み式の椅子と机を、50人分並べました。演説が終わると、四人で後片付けをしました。

 県会議員と市会議員が、周辺の後援会のメンバーに声を掛けてくれたので、何時も満席になり、立って聞く方もおられました。

 菅直人氏が応援に来ました。数百人は入れる会場を確保して、会場設定をする事になりました。当日、連合から沢山運動員が派遣され、皆さん手慣れていて短時間で椅子を並べました。私は邪魔になりそうだったので、傍観しました。

【マニュフェスト配り】
 選挙期間に入った頃は、マニュフェストやチラシを受け取ってくれる方は少なかったのですが→→段々多くなってきて→→「私にも一部下さい」と言ってくれる方が増えて来ました。党本部から多量に送られてきていた→→(山積みされていた)マニュフェストの残りが少なくなって→→希望者だけに渡す事になりました。

 マニュフェストやチラシは全国的に不足して→→重版を繰り返した様でした。 私は連日、マニュフェストを配っていました。 自民党のマニュフェストを希望される方は、少なかったので、「民主党が圧勝するのでは!?」と思う様になりました。

(余談 :選挙予想) 週刊現代だったと記憶するのですが、「民主党が大勝する」と予想しました。私は一冊買って来て、選挙事務所で「政権交代になる!」と話しましたが、連合から派遣されていたT氏も信じてくれませんでした。

(余談 :婦人の意見) 私が街頭演説の場所取りをしていた時、共産党の運動員と雑談していました。 如何にも裕福な家の奥さんと思える婦人が近づいて来て、「政権交代を希望していますが、鳩山由紀夫氏の目は異常だから、鳩山氏が総理大臣になったら日本は大変な事になりますよ!」と仰いました。 その通りになってしまいました!

(後日談) 私は、2カ月間ほどD氏の選挙運動をしました。公示前にはD氏と色々話しました。政治的な話題を出しても→→無視して→→別の話をされました。「D氏は政治家には全く向いていない方で、単なる市民運動家だ!」、「(岸田文雄氏と同様に)特にやりたい事が無い方だ!」と思いました。

 選挙後にD氏は日韓問題について種々発言して→→問題になり→→2011年3月に民主党を離党しました。 私は、D氏を尊敬していなかったので、選挙後・地元事務所に一回も顔を出しませんでした。