これ!どう思います?

マスコミがあまり報道しない様な問題を、私なりに考えてみます。

南方熊楠は町の誇りでした!

2018-08-11 10:39:13 | 偉人
 高校2年のある授業の最初に、先生が開口一番「このクラスには南方熊楠の親戚のものがいる」と言われ、南方熊楠の話しをしてくれました。町の子供たちはほとんど南方熊楠を知っていたと思いますが、私は山奥の生まれで聞いた事のない名前でした。

【町の人から聞いた話】
 南方熊楠さんには収入が無かったので、旦那衆達がお金を用立てたらしい。尊敬する大先生にお金をあげる事は余りにも失礼なので、貸した事にしたらしいです。

 貸した方は、はなから返してもらおうと思っていなかったし、南方熊楠さんには返すあてなど無かった。「借金の返済をもう少し待ってほしい」という手紙を出し、貸した方は今でも”その手紙”を大事に持っている。

【家内の実家に南方熊楠からの手紙が有りました】
 結婚してまもなく、義母が「家には南方熊楠さんからの手紙がある」と言って、出してきました。「借りた金を返せなくて申し訳無い、もう少し待ってほしい」と言う様な手紙が複数ありました。
 町の人から聞いていた事は本当だったのです!

 家内の実家から南方邸までは、歩いて数分の距離です。義父は催促に行かなかったので、南方熊楠は手紙を書いたのだと私は推察しました。
 その手紙は、今でも義理の兄が大事に保管しています。

【南方熊楠と田辺市】
 南方熊楠は和歌山市の出身で、1904年(明治37年) からは田辺市の借家で研究を続けたようです。 この頃は、37歳くらいで、まだ独身でした。

 既に、有名な博物学者で、町の人達の”誇り”だったようです。一生、町の研究者でしたから、収入は殆ど無かったと思われます。

【南方熊楠の墓石】
 紀伊田辺駅から北西に約1km程の所の、”高山寺”に『南方熊楠墓』と彫られた一際目立つ墓石があります。 (駅からタクシーだとすぐです。)

 この墓石のすぐ近くに親戚の墓が有るので、私は何回か『南方熊楠墓』前まで行きました。

【ネイチャーと南方熊楠】
 自然科学の研究者は、英国の学術雑誌”ネイチャー”に論文がのる事が夢だと思いますが、南方熊楠の論文は51点も掲載されているそうです。(出典:ウィキペディア)

【エピローグ
 十年程前に親戚が集まった席で、「南方熊楠は借金を払わないで死んだ!」と言うのを聞いて、私は皆に聞こえるように”大きな声”で、ここに書いた話をしました。 年月を重ねると、話はとんでもない方向に歪められてしまうものですね! 当時の旦那衆達の”心意気”が曲解されない様に、このプログを書きました。


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