これ!どう思います?

マスコミがあまり報道しない様な問題を、私なりに考えてみます。

在宅医療 (その3)

2018-11-10 11:08:17 | 在宅医療
【甥が在宅医療専門の医師になりました】
 二十年ほど前のことですが、、医者の国家試験に合格した甥が、「これからは在宅医療を進めないと健康保険制度は破綻してしまう」と言いました。当時は、在宅医療専門の医師は殆どいなかったと思います。

 親戚や知り合いの医師に聞いてみると、「在宅医療は金にならない」が共通した意見でした。私は、金にならない事を承知で、在宅医療専門を目指すと言う甥を”志のある人間”だと見直しました。

 私は一介のサラリーマンで金は有りませんでした。 甥の活躍を陰ながら見守ること以外は出来ませんでしたが、幸いにも暫くして全国紙に甥の記事が出る様になりました。 インターネットが普及するとともに甥の記事が少しづつ多くなり、講演会の記事や、雑誌のインタビュー記事をインターネットで読んで活躍しているのを見守っています。

 近年インタビューで、含蓄のある事を言っています。『治療の提供でなく、「生活の持続性」を提供する』、 『生活保護のように国や自治体が助ける「公助」、これからは「自助」と「互助」を高めていくべきです』・・・

【マンションの一室で始めました】
 最初は金が無かったためと思いますが、甥はマンションの一室を借りて在宅医療を始めました。全くの試行錯誤だったろうと推察します。

 開業医が午後の休診時間に、在宅患者を往診するのが今でも一般的です。余程の事が無い限り夜中に往診を依頼するのはためらわれます。甥は、『在宅患者を往診するだけでなく、介護している家族の精神的/肉体的な負担を軽減する』ことにも心掛けている様です。 夜中に容態が少しおかしくなったら、家族は心配になり、電話を掛けたくなります。そのために、24時間電話を受け付けている様です。

 365日×24時間電話を受け付けて、電話の内容から必要と判断した時は夜中でも往診しています。20年掛けて、その様な対応が出来る体制の構築や,電子カルテシステムを工夫・導入した様です。

 是非とも、『新宿ヒロクリニック』、『医療法人三育会』、『英裕雄』で検索して見て下さい。

(余談) 甥のメールアドレスを知りたくて、夜の10時頃にクリニックに電話したら、在宅患者の往診中だと言う若い女性が親切に対応してくれました。現在はモバイルの時代ですから、クリニックで電話を受ける必要が無いのですね!

【新宿ヒロクリニック】
 2015年に新宿区大久保に”新宿ヒロクリニック”を移転して外来診療も手掛けている様です。グーグルアースで建物の外観を見る事が出来ました。クリニックを建てた会社のホームページで内部の写真も見えます。 軌道に乗っているのだと安心しました。

 現在のスタッフは85人と書いていました。このスタッフで在宅医療患者(450人)と外来患者に対応している様です。新たに450床の病院を設立しようとしたら、”医療法”の規定によって(私の試算では)200人以上のスタッフが必要になります。東京23区内に450床の病院を建設するためには莫大な費用が掛かると思われます。在宅医療が不可欠です。

【元気な内に意思表示を!】
 だいぶ前に読んだ新宿ヒロクリニックの記事の中に、在宅医療を始める前に、患者の受けたい医療を聞いて書くフォーマットがありました。

 まだ患者が元気な内に、「病状が悪化したら入院したいですか? 在宅医療のままでよいですか?」等々、細かく聞いて記録/保管する様になっていました。

 甥のプログに、幼児を抱えた母親が回復の見込みが無い難病になった話がありました。「息子が一人立ちするまで何が何でも生きる。そのためには呼吸器をつけることも、胃婁をすることも辞さない。たとえ何もできなくても息子のそばに居続けよう。」。高校三年生になった時、頑張り続けた母親が突然息をひきとったそうです。その時息子は、「僕は大丈夫だよ。お母さんから、命をもらったから、何があっても大丈夫」と言ったそうです。 人は色々です、本人や家族の希望が叶う様になるのが理想の社会だと思います。

 私は医者に作ってもらった、”私が治る見込みのない病気にかかり死期が迫ったときに以下の処置を希望します ・・・”と書いた小さなカードを財布に入れて持ち歩いています。妻と子供達にその諭旨を伝えています。

【甥のエピソード】
 この甥は私が大変世話になった、姉の長男です。(姉はもう30年以上前に無くなってしまいました。) 義理の兄と姉は子供を大事にしていましたが、友達の様にして育てました。毎年お盆に一週間ほど甥を連れて帰省しました。私はこの甥が可愛くて、一日中遊んでやりましたが、少し目を離すと昆虫や蛙を捕まえていました。蛇が大好きで、捕まえるとなかなか手放さず、困りました。

 甥がまだ中学生の頃に、東京から私の故郷の和歌山県の山奥まで自転車で、一人で行った事があります。この行動的な性格からか、近年は一人でインドやネパールに旅行しています。

 殆ど例の無い在宅医療専門医を目指したのは、義理の兄と姉の子供の育て方が影響しているのではと私は思います。私は甥を誇りに思っていますが、姉が生きていたら同じ思いでしょう!

 甥の祖父は英義彦と言います、ウイキペディアに簡単な記事があります。喜界島の出身で、義理の兄(甥の父)が良い所だったと言っていたのですが、一週間ほど夏に仕事で行ったことがあります。喜界島にはハブがいないので、仕事の間に探索しました。海で泳いだら熱帯魚がうようよいて感動しました。

 英義彦は米英仏独などに留学して、日大の法学部の教授になり、晩年には衆議院議員になりました。子供が四人いましたが、姉の家に集まると英語で談笑していましたので、義彦家では英語で話していたと推察します。義理の兄は、息子には英語を教えませんでした。

 甥の祖母は栃木(?)の旧家の出で、上野の音大の声楽科の第一期生だったと言っていました。(現在の東京藝術大学?) オペラを良く聞いていました。私も時々一緒に聞きましたが、オペラは好きになれませんでした。でも管弦楽は大好きになりました。

【看取りは貴重な経験です!】
 ”住井すゑ”が書いていた「子を持つて知る、子の恩」と言う言葉を時々噛みしめています。 子供のいない方には申し訳無い話しですが、子供から沢山楽しい事を貰い、自分が少しですが成長した様に思います。

 両親を引き取って、介護して、看取ったら、楽しい事は少なかったですが、人の一生が少し分かった様に思えます。貴重な経験でした。

 私には姉が五人いますが、皆、義理の親と同居したり介護したりせずにすみました。母が亡くなる三か月程前に、姉達に会いたいと言うので何回も連絡しましたが、病院の近くに住んでいた姉が、一度だけ見舞ってくれました。 姉達も死ぬ前に子供に会いたいと思うかもしれません。その時、母を見舞わなかった事を後悔するのでは?


最新の画像もっと見る