夏目鏡子は父の中根重一(福山藩士の子)が、柳田國男の二代前の貴族院書記官長(柳田国男の2代前)等の要職を務め、中根家が隆盛中に漱石と結婚(親父は退官後、投資に失敗し中根家は経済的には辛酸をなめた)。
「漱石の3番目の兄 夏目和三郎(直矩)が鏡子の祖父の囲碁仲間の小宮山次郎八と牛込郵便局の同僚であったらしい」とか。
蛇足ついでに
夏目漱石(1867-1916)と高島平三郎(1865-1946)は2歳違い。夏目は河本亀之助(1867-1920)より一学年上。漱石夫人と高島夫人寿子とは明治10年生まれの同い年。漱石は丸山鶴吉が第一高等学校時代の英語教師だが、丸山は漱石に対しては授業中に質問されて答えられないことがあったらしくそれ(コンプレックス)がためにあまり好感を抱いていなかった。明治40年当時漱石の居宅は勤務先とは目と鼻の先で、しかも妻境子の生まれ故郷ということで福山藩の江戸屋敷のあった西片町(本郷西片町十ロノ七)にあった。そこはながらく誠之舎の舎長を務めた高島平三郎にとっても生まれ故郷だった。
漱石の主治医尼子四郎も広島県人、医学史研究の大家富士川游が中心となって高島らと郷友雑誌「飽薇」を刊行
新婚時代の漱石夫人鏡子
74歳前後の鏡子と孫娘(松岡陽子) in front of 漱石の御墓
医学史といえば広島県出身の呉秀三(東京帝大・近代神経医学の推進者)のシーボルト研究が想起されるが、富士川や呉は明治期の広島県人会のまとめ役を担った人たちだった。
参考サイト:中根重一 以下全文引用。
中根 重一(なかね しげかず、1851年11月18日(嘉永4年10月25日[1][2])- 1906年(明治39年)9月16日[1][2])は、明治時代の医師・官僚。貴族院書記官長などを務めた。夏目漱石の義父(妻・鏡子の父)[1][2]、『道草』御住の父のモデル[2]。
勲章は勲四等旭日賞 勅任官大礼服着用
経歴
備後福山藩士・中根忠治の長男として江戸藩邸で生まれる[1][2]。明治4年(1871年)貢進生として上京し大学東校(のちの東京帝国大学医学部)に入学し、ドイツ語を学んで卒業前に退学した[2]。
1875年3月、東京書籍館並博物館雇となる[1]。1877年6月、新潟県雇に転じ、新潟医学所のドイツ語通訳兼助教を務めた[1][2]。1881年7月、新潟県を辞して上京し医師から官吏へ転じた[1][2]。1882年3月、太政官御用掛に任じられ、外務省御用掛、同翻訳官、法制局参事官、兼臨時帝国議会事務局書記官、法制局書記官、貴族院書記官長、行政裁判所評定官などを歴任[1]。1900年10月、内務大臣となる元上司の末松謙澄からの要請で地方局長に就任したが、1901年6月、末松の内相辞任に伴い休職し、同年12月、依願免本官となり退官した[1][2]。
退官後は無職となり、相場で失敗するなど経済的に困窮したため、娘婿である夏目漱石が資金の援助を行っている[2]。
著作
『鉄道問題』八尾書店、1892年。
述『戦後ノ処分ニ関スル外国ノ事例』貴族院事務局、1895年。
共著
山脇玄との共著『府県制郡制釈義』八尾新助、1890年。
訳書
訳編『虎列剌病論』佐藤敬三郎、1880年。
ブルンチェリー著『政治学』1-5巻、近藤幸正、1882-1883年。
マックス・フェスカ著『日本農業及北海道殖民論』外務省、1888年。
ルードルフ・グナィスト著『歳計予算論』博聞社、1888年。
ラートゲン著『地方財政学』2版、日本書籍会社、1889年。
ヒュー・デ・グレー著、平田東助閲『独孛政典』1-5巻、日本書籍会社、1890年。
共訳
保阿倔(フォック)著、竹山屯との共訳『眼科提要』1-3巻、山中市兵衛、1879年。
親族
中根重一
豁子(重一妻)
中根時子
鈴木禎次(時子夫)
中根鏡子
夏目漱石(鏡子夫)
夏目純一
三田嘉米子(純一妻)
夏目房之介
夏目伸六
信子(伸六妻)
夏目沙代子(伸六長女)
夏目一人
夏目哲郎
夏目筆子
松岡譲(筆子夫)
松岡陽子マックレイン
ジョージ・ロバート・マックレイン(陽子夫)
松岡末利子
半藤一利(末利子夫)
夏目恒子
夏目栄子
夏目愛子
夏目ひな子
脚注
^ a b c d e f g h i 『日本近現代人物履歴事典』372頁。
^ a b c d e f g h i j 『夏目漱石周辺人物事典』132-137頁。
参考文献
原武哲、石田忠彦、海老井英次編『夏目漱石周辺人物事典』笠間書院、2014年。
秦郁彦編『日本近現代人物履歴事典』東京大学出版会、2002年。
「漱石の3番目の兄 夏目和三郎(直矩)が鏡子の祖父の囲碁仲間の小宮山次郎八と牛込郵便局の同僚であったらしい」とか。
蛇足ついでに
夏目漱石(1867-1916)と高島平三郎(1865-1946)は2歳違い。夏目は河本亀之助(1867-1920)より一学年上。漱石夫人と高島夫人寿子とは明治10年生まれの同い年。漱石は丸山鶴吉が第一高等学校時代の英語教師だが、丸山は漱石に対しては授業中に質問されて答えられないことがあったらしくそれ(コンプレックス)がためにあまり好感を抱いていなかった。明治40年当時漱石の居宅は勤務先とは目と鼻の先で、しかも妻境子の生まれ故郷ということで福山藩の江戸屋敷のあった西片町(本郷西片町十ロノ七)にあった。そこはながらく誠之舎の舎長を務めた高島平三郎にとっても生まれ故郷だった。
漱石の主治医尼子四郎も広島県人、医学史研究の大家富士川游が中心となって高島らと郷友雑誌「飽薇」を刊行
新婚時代の漱石夫人鏡子
74歳前後の鏡子と孫娘(松岡陽子) in front of 漱石の御墓
医学史といえば広島県出身の呉秀三(東京帝大・近代神経医学の推進者)のシーボルト研究が想起されるが、富士川や呉は明治期の広島県人会のまとめ役を担った人たちだった。
参考サイト:中根重一 以下全文引用。
中根 重一(なかね しげかず、1851年11月18日(嘉永4年10月25日[1][2])- 1906年(明治39年)9月16日[1][2])は、明治時代の医師・官僚。貴族院書記官長などを務めた。夏目漱石の義父(妻・鏡子の父)[1][2]、『道草』御住の父のモデル[2]。
勲章は勲四等旭日賞 勅任官大礼服着用
経歴
備後福山藩士・中根忠治の長男として江戸藩邸で生まれる[1][2]。明治4年(1871年)貢進生として上京し大学東校(のちの東京帝国大学医学部)に入学し、ドイツ語を学んで卒業前に退学した[2]。
1875年3月、東京書籍館並博物館雇となる[1]。1877年6月、新潟県雇に転じ、新潟医学所のドイツ語通訳兼助教を務めた[1][2]。1881年7月、新潟県を辞して上京し医師から官吏へ転じた[1][2]。1882年3月、太政官御用掛に任じられ、外務省御用掛、同翻訳官、法制局参事官、兼臨時帝国議会事務局書記官、法制局書記官、貴族院書記官長、行政裁判所評定官などを歴任[1]。1900年10月、内務大臣となる元上司の末松謙澄からの要請で地方局長に就任したが、1901年6月、末松の内相辞任に伴い休職し、同年12月、依願免本官となり退官した[1][2]。
退官後は無職となり、相場で失敗するなど経済的に困窮したため、娘婿である夏目漱石が資金の援助を行っている[2]。
著作
『鉄道問題』八尾書店、1892年。
述『戦後ノ処分ニ関スル外国ノ事例』貴族院事務局、1895年。
共著
山脇玄との共著『府県制郡制釈義』八尾新助、1890年。
訳書
訳編『虎列剌病論』佐藤敬三郎、1880年。
ブルンチェリー著『政治学』1-5巻、近藤幸正、1882-1883年。
マックス・フェスカ著『日本農業及北海道殖民論』外務省、1888年。
ルードルフ・グナィスト著『歳計予算論』博聞社、1888年。
ラートゲン著『地方財政学』2版、日本書籍会社、1889年。
ヒュー・デ・グレー著、平田東助閲『独孛政典』1-5巻、日本書籍会社、1890年。
共訳
保阿倔(フォック)著、竹山屯との共訳『眼科提要』1-3巻、山中市兵衛、1879年。
親族
中根重一
豁子(重一妻)
中根時子
鈴木禎次(時子夫)
中根鏡子
夏目漱石(鏡子夫)
夏目純一
三田嘉米子(純一妻)
夏目房之介
夏目伸六
信子(伸六妻)
夏目沙代子(伸六長女)
夏目一人
夏目哲郎
夏目筆子
松岡譲(筆子夫)
松岡陽子マックレイン
ジョージ・ロバート・マックレイン(陽子夫)
松岡末利子
半藤一利(末利子夫)
夏目恒子
夏目栄子
夏目愛子
夏目ひな子
脚注
^ a b c d e f g h i 『日本近現代人物履歴事典』372頁。
^ a b c d e f g h i j 『夏目漱石周辺人物事典』132-137頁。
参考文献
原武哲、石田忠彦、海老井英次編『夏目漱石周辺人物事典』笠間書院、2014年。
秦郁彦編『日本近現代人物履歴事典』東京大学出版会、2002年。