平民新聞は印刷屋に原稿が回った段階でいち早く発行禁止処分を受けた。この離れ業をうっかり活字にしてしまったのが、第二代特高課長の丸山鶴吉だった。
かれは社会主義者の才能を認め、彼らの能力を反社会的な方向にではなく、もっと社会的意義の大きな別の方向にむけさせようと思っていた。
その網に引っかかった最初の魚が西川光次郎(光二郎)だったようにわたしには思われる。西川文子は当時を振り返って恩師新渡戸稲造、松村介石そして高島平三郎の世話になったと述懐しているのできっとそうだろう。
この辺の問題は西川光次郎に関する詳細な評伝を書いた田中英夫は見落としている。見落としているといえば高島平三郎と鈴木テル(河本テルの旧姓)との間に生まれた猪瀬謙一の存在についても田中は沈黙している。田中さんは学習院時代からの高島の教え子で、学生時代は小杉の父親の希望で永らく(てか人生の大半を)高島家に下宿していた人物小杉吉也の記述(「高島壽子追悼録」)に注目しており、猪瀬謙一の存在には気づかなかったようだ。この辺はルポライター田中の残念な部分というほかない。
こういう決定的な失点を重ねる田中英夫だが、やはり彼自身のルポルタージュ文学的手法の手ぬるさと洞察力不足(膨大な事実を列挙しつつも真実に辿り着く一歩手前で記述が終わること)に起因していると思う。
高島平三郎は明治32年暮れに夫人の西川(旧姓志知)文子が女学生時代の京都府立高女に講演で訪れている。
洛陽堂は後年、夫光次郎の著書と共に文子らの書籍も出版をしている。文才のなさから平塚雷鳥ほど、西川文子が世間的な注目を受けることはなかった。
西川は釈放後、高島主催の楽之会での講演依頼を受けている。当時西川には警察による尾行がついていたりしていたはずだが、すこしも世間体をきにせず生活支援を兼ねて洛陽堂は何冊かの書籍を出版している。この辺は丸山鶴吉ー高島平三郎ー河本亀之助(洛陽堂主人)がしっかりとタッグを組んでいたので洛陽堂としても躊躇はなかっただろ。
西川光二郎のケースと加藤一夫のケースとは若干違いが感じられるがイノシシが牙をむかれ豚になった連中だが、山口孤剣 を含め両者のために出版活動を通じて苦境に置かれた彼らに対して手を差し伸べたのが洛陽堂だった。
西川文子らの著書に高島は序文を寄せたりしている。大正10年当時西川は修養団の蓮沼門三らと同様に雑誌「まこと」の定期購読者だった。
昭和に入るとかつての社会主義者の中には国家社会主義者になり下がる連中も出現。そうした中の一人が西川で、彼は儒教道徳をベースとした国民意識の変革を体制変革に優先すべきという信念を実践していく修養運動家として大正末には内務警察官僚で元警視庁特高課長だった丸山鶴吉と行動を共にした。
すなわち社会主義運動から離脱した西川は大正15年の建国祭(赤尾敏提案、丸山が準備委員会を立ち上げ、その委員の中に西川光二郎)には準備委員会のメンバーとして参加。西川の性格上思いっきり右旋回して疑似右翼の丸山と行動を共にするまでになっていた次第である。
西川は転向(意地悪く、変節と揶揄した荒畑寒村のような御仁もいたが、正確にいえば西川の場合収入源としての著述能力面での「挫折」)前後のことは人にはあまり語らなかった。
息子の西川満は実践道徳の考え方を行商(全国遊説)した西川は基本的に殉教者だったと。生涯、列車の三等車に揺られながら全国を講演旅行等で回り、自宅には書斎も持たなかったという。正義と愛に貫かれた人生だったらしい(297-299頁)
西川は獄舎につながれていた2年間の間に、人間一人ひとりのこころが汚れているうちは社会制度を変えても社会はよくならないと考えるようになった訳だ(297頁、西川光二郎遺著『入神第一』、昭和16、子供の道話社)。
昭和16年段階には原重治は西川先生追悼の辞の中で「先生の御最期は明らかに孔子学会否日本青年に向って決死殉道報国の教訓を垂れ実践の命令を発せられた」と結んでいる。国家社会主義者、皇道主義者そのものだった訳だ。
愛と正義の終着点が皇道主義とは・・・・・ 西川光二郎という方はその程度の人間だったということだ。
西川には尾道通過時にうたった短歌がある。
紺碧の海を隔てて向島、櫻は白く棚引きにけり(『入神第一』、153頁)
大林の尾道三部作のロケ地となった向島・龍王山(地王山)の桜。千光寺山側のことも念頭に入れてるかも知れないが、直接的にはこの風景を詠んだものだ。
西川が監獄につながれている頃、同じ囚人生活をおくっていたのが倉敷出身の山川均だった。出獄後10歳年下の青山菊栄と結婚、かれらは信念を持って社会主義思想を持ち続け戦前の疾風怒濤時代を乗り切っている。
かれは社会主義者の才能を認め、彼らの能力を反社会的な方向にではなく、もっと社会的意義の大きな別の方向にむけさせようと思っていた。
その網に引っかかった最初の魚が西川光次郎(光二郎)だったようにわたしには思われる。西川文子は当時を振り返って恩師新渡戸稲造、松村介石そして高島平三郎の世話になったと述懐しているのできっとそうだろう。
この辺の問題は西川光次郎に関する詳細な評伝を書いた田中英夫は見落としている。見落としているといえば高島平三郎と鈴木テル(河本テルの旧姓)との間に生まれた猪瀬謙一の存在についても田中は沈黙している。田中さんは学習院時代からの高島の教え子で、学生時代は小杉の父親の希望で永らく(てか人生の大半を)高島家に下宿していた人物小杉吉也の記述(「高島壽子追悼録」)に注目しており、猪瀬謙一の存在には気づかなかったようだ。この辺はルポライター田中の残念な部分というほかない。
こういう決定的な失点を重ねる田中英夫だが、やはり彼自身のルポルタージュ文学的手法の手ぬるさと洞察力不足(膨大な事実を列挙しつつも真実に辿り着く一歩手前で記述が終わること)に起因していると思う。
高島平三郎は明治32年暮れに夫人の西川(旧姓志知)文子が女学生時代の京都府立高女に講演で訪れている。
洛陽堂は後年、夫光次郎の著書と共に文子らの書籍も出版をしている。文才のなさから平塚雷鳥ほど、西川文子が世間的な注目を受けることはなかった。
西川は釈放後、高島主催の楽之会での講演依頼を受けている。当時西川には警察による尾行がついていたりしていたはずだが、すこしも世間体をきにせず生活支援を兼ねて洛陽堂は何冊かの書籍を出版している。この辺は丸山鶴吉ー高島平三郎ー河本亀之助(洛陽堂主人)がしっかりとタッグを組んでいたので洛陽堂としても躊躇はなかっただろ。
西川光二郎のケースと加藤一夫のケースとは若干違いが感じられるがイノシシが牙をむかれ豚になった連中だが、山口孤剣 を含め両者のために出版活動を通じて苦境に置かれた彼らに対して手を差し伸べたのが洛陽堂だった。
西川文子らの著書に高島は序文を寄せたりしている。大正10年当時西川は修養団の蓮沼門三らと同様に雑誌「まこと」の定期購読者だった。
昭和に入るとかつての社会主義者の中には国家社会主義者になり下がる連中も出現。そうした中の一人が西川で、彼は儒教道徳をベースとした国民意識の変革を体制変革に優先すべきという信念を実践していく修養運動家として大正末には内務警察官僚で元警視庁特高課長だった丸山鶴吉と行動を共にした。
すなわち社会主義運動から離脱した西川は大正15年の建国祭(赤尾敏提案、丸山が準備委員会を立ち上げ、その委員の中に西川光二郎)には準備委員会のメンバーとして参加。西川の性格上思いっきり右旋回して疑似右翼の丸山と行動を共にするまでになっていた次第である。
西川は転向(意地悪く、変節と揶揄した荒畑寒村のような御仁もいたが、正確にいえば西川の場合収入源としての著述能力面での「挫折」)前後のことは人にはあまり語らなかった。
息子の西川満は実践道徳の考え方を行商(全国遊説)した西川は基本的に殉教者だったと。生涯、列車の三等車に揺られながら全国を講演旅行等で回り、自宅には書斎も持たなかったという。正義と愛に貫かれた人生だったらしい(297-299頁)
西川は獄舎につながれていた2年間の間に、人間一人ひとりのこころが汚れているうちは社会制度を変えても社会はよくならないと考えるようになった訳だ(297頁、西川光二郎遺著『入神第一』、昭和16、子供の道話社)。
昭和16年段階には原重治は西川先生追悼の辞の中で「先生の御最期は明らかに孔子学会否日本青年に向って決死殉道報国の教訓を垂れ実践の命令を発せられた」と結んでいる。国家社会主義者、皇道主義者そのものだった訳だ。
愛と正義の終着点が皇道主義とは・・・・・ 西川光二郎という方はその程度の人間だったということだ。
西川には尾道通過時にうたった短歌がある。
紺碧の海を隔てて向島、櫻は白く棚引きにけり(『入神第一』、153頁)
大林の尾道三部作のロケ地となった向島・龍王山(地王山)の桜。千光寺山側のことも念頭に入れてるかも知れないが、直接的にはこの風景を詠んだものだ。
西川が監獄につながれている頃、同じ囚人生活をおくっていたのが倉敷出身の山川均だった。出獄後10歳年下の青山菊栄と結婚、かれらは信念を持って社会主義思想を持ち続け戦前の疾風怒濤時代を乗り切っている。