- 松永史談会 -

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元禄期の今津村の字地名

2016年09月22日 | ローカルな歴史(郷土史)情報


黄色線は元禄検地帳作成当時の推定海岸線




東→東青谷と続き、その次が「同所剣脇」.
東青谷に関しては『村史』中の安永7(1778)年7月6日付文書に「青谷新涯の樋、破損汐入の事」に言及したものがあった。青谷新涯(干拓堤防の一角にあった樋門が壊れ海水が流入)とは字柳ノ内の西国街道以南の区域(実際問題として、字柳ノ内の海側を悪水が通過するので本郷川左岸の今津村内には樋門は存在しえない)を含め概ね緑の楕円内の新涯(干拓堤防の存在に注目した場合、蓋然性が高いのは本郷川右岸、つまり旧今津小学校側)だったと推定される。



同所剣脇=東剣脇




所在地は無記載だが、記載の順序から言って惣四郎屋敷(河本姓)は東剣脇か今津町、その続きが惣四郎が保有した今津町の上々畑(23.5間×6間)そして善四郎屋敷(平櫛姓)。惣四郎屋敷(18間×9間)が一体のもの乃至は隣接したものだった可能性もあり、その場合は後述する本郷村番屋屋敷+畑のケースと同じであるから当該屋敷地は今津町に立地したことになる。ただし、事柄はそれほど簡単ではなく、惣四郎屋敷の前に記述された市郎兵衛・善五郎・利右衛門・五郎右衛門らの屋敷との関連でいえばそれらは東剣脇・今津町のいづれに属したかはにわかには決しがたくなるのである。
ただ、字町後に竹藪を保有する10名を調べてみると薬師寺・蓮花寺以外は字今津町に屋敷地を保有する人物で占められている傾向があるので、惣四郎屋敷は今津町に立地した蓋然性が高い。
元禄期の面積は畑とあわせて1反3歩。明治初期の野取帳では942坪なので元禄期以後(おそらくは本陣ー脇本陣が整備された安永期、ただし今津宿には制度的には脇本陣はなく、安永期以後は西坂より現在地に移転してきた蓮花寺が本陣消失時に補完機能を担い、またそれ以前は薬師寺が同様に本陣機能自体を一時的に担った)に大幅に拡張されていたことが判る。町内で式台のある所は確認済のところでいえば、薬師寺・蓮華寺・尾庵村上氏(近世組頭)。長屋門をもつ竹本屋村上家住宅は未確認。



沖は辺と共に位置格として機能する語だが、位置的には辺(例えば海辺、山辺道の山辺の”辺”)に比べると、きょっと距離が大きく離れている感じの、下流側とか位置的にはより低地にある場所に対して付与される言葉で、位置格的な性格を帯びつつ地名に使われる。例えば山裾の地名Xに対して、より地名xとの相対的な場所関係において眼下にあるとか低地寄りのところにあるような場所に対して地名X沖(沖合の”沖”と海辺の”辺”の語感面での距離差、日常会話の中での語としての”沖”や地名用語としての”沖”は海のない内陸部で多用されている)が分布するといった風である。字の沖は通称沖浜を指すのだが、今津町に対して今津町沖といった感じの地名だ。沖浜という呼称はいまでは字前新開の一角を表す呼称に過ぎないが、海に面していた江戸時代前半期の空間イメージを引きずった地名だ。今津村元禄検地帳では字今津町の次、つまり検地帳の最終ページを飾る字地名となっている。町組的には今は中組だが、かつて沖浜は東組に属した。元禄検地帳上の字「東」は現在は字「前新涯」になっているが、現在の公民館・保育所あたりを指したかもしれない(要確認)。


史料解釈
記載事項のアーティキュレーション(articulation)・・記載方法の原則を探る
検地帳では田畑には字が記載されているが、屋敷にはない。そのため検地帳の記載様式(方法)にある特徴から、その屋敷がいずれの字にあったがを見届ける必要があるのだ。例えば、下の史料中の清三郎屋敷が字西坂にあったのか、それとも字町上にあったのかの判別だ。この史料の場合は以下に示す本郷村番所と附属畑の事例からbで分節化し、清三郎屋敷/畑は直後の字町上にあったと考えてよいのだろう。


本郷村の番所屋敷と附属畑はともに字「山手いたやさこ」(山手板屋迫、板屋は本郷村庄屋を務めた佐藤武彦家の屋号)、なぜなら番所は字立神ではなく、山手橋(本郷温泉峡入り口付近)にあったからだ。現代人には誠に分かりにくい記載方法を取っている次第である。これは誰誰(例えば今津・清三郎)の屋敷という情報は当時は今津・清三郎(公儀名)という名前自体が場所性を含む性格のものだったからだろうか。


こういうケースもあるので惣四郎屋敷の場合以前に東剣脇のあったと指摘したが、そうではなく今津町であって、そしてそれに隣接して惣四郎畑も今津町にあったという見方も出来るのだ。元禄検地帳上では惣四郎屋敷の前にはこのような東剣脇から続く屋敷群があり、まことにヤヤコシイことになっている。

市郎兵衛の東剣脇にあった田んぼ2筆に続き市郎兵衛屋敷が記載されている。この場合屋敷は東剣脇にあったのかどうか。また市郎兵衛屋敷の次に書かれた善五郎・久三郎・小兵衛そして惣四郎はどうなるのか、まことに判断が難しい。



についても同様で、記載された六筆の土地の内、前2者は柳の内、屋敷地は字東に属する4筆の中にあったと見られる。
同様に

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