- 松永史談会 -

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今津村検地帳の検地作業の推移と場所定位方法

2016年09月26日 | ローカルな歴史(郷土史)情報

6尺1分の間竿を用い、一反300歩として計算し、石盛を出す。
山地は目測や歩測によったり、時には適当な数値を記載しただけというところすらあった。田畑は地形の如何にかかわらず十字法といわれ不規則な田畑でも出入が相殺されるよう長方形とみなし計測された。




今津町の南隣:町前から始まりそのまま新田開発地を西に移動、王子丸・坂(現在の矢ノ上)へと北上し、水内・西ノ坂と西村境に移動。次は場所を、町上に変え中間・長波へと北上。本郷川を挟んで対岸に移動し、安毛・大明神、安毛の残りを処理し、沖田部分は東から西に測量を進め、最後に柳の内・東・東青谷・東剣脇といった当時の本郷川のデルタ地帯を経て今津町に至り、今津町周辺の未検地ヶ所を測量し海に面した沖にて終了している。
台帳なので藩政村の境界の確定状況など判然としないが、隣村松永村総図(支配図で、元禄期の検地内容と宝暦期の土木工事などの履歴などを図示。図内には御水帳の地番と字詰帳の地番と称する2種類が表記、何カ所か誤記がある。性格的には脱漏が100筆以上に及んだ明治19年直前段階の松永村地籍の誤りを内包したままの、地主個人が所有した私的な図面)から当時の検地の実態が少しく透かし見えてくる。つまり、村(例えば山がちな村)によっては測量自体のいい加減さとか地元案内人の岡山藩派遣の検地役人たちに対する非協力的態度などいろいろ問題を内包した元禄検地だったようだ。

案内人は6人で、庄屋・組頭の4名を含めると10人体制で検地作業に協力している。案内人については又市(今津町・・・・村内各所に農地を保有)、久七・市左衛門は長波・中間・長庵あたりに農地を保有。


検地帳の最初のページは又市の保有地(宅地サイズの田圃って・・・・・)から。



堂祠に関して興味深い処があるので最後にその点に言及しておく。それは

それは今津町内とそれに隣接した外部に布置されたお堂(地蔵堂)の所在地表現にある町内・町西・町外れなのだが、
畑・屋敷の立地した今津町後ともどもそうなのだが、①今津町がここに隣接する場所との間で「外れ」「前」「後」という風に分類されている。②地蔵堂が集中した今津町内とその周辺だが、「町西」(王子丸神社も町西)は町外れではないが町内からは西側に外れる区域とみなされた。ここと今津町内とに分けられている。ちなみに元禄検地帳に言う町内の地蔵堂は明治期の今津村測量図では字今津町の東端近くの札ノ辻に位置する。このあたりから町西地蔵堂(現在坂田店の隣)の東に位置するおおかみ小路あたりまでが元禄期における今津町の町内に当たる区域だったのだろうか。仮にそうだとしてこの範囲の屋敷数を明治の地図で試算してみると30程度になるので元禄検地帳に記載された今津町の屋敷数とほぼ同じにはなる。ただこれは単なる試算なので当てには出来ない
元禄時代の今津町(の屋敷地)の総間口が計算可能なので後刻それを算出してみよう。
吾妻橋西詰に位置するジオウ堂(元禄期以後の建立、類似の音に十王堂があるが・・・・じおうどう→焔魔堂?というのはどういう性格のお堂なんだろ。町内には2つある。一つは通称「ジオウドウ」の「十王堂」/「地王堂」といま一つは長波の通称鐘鋳久保:旧火葬場奥、現在は小学校脇の広岡山山頂部に移転)のある一角は現在字町上にあたり、吾妻橋の東詰めにあたる元禄検地帳記載の字柳の内とおなじく検地帳記載の字今津町との間にあった東・東青谷・東剣脇といった現存しない地名の一部はその中に統合され、消滅したようだ。ただ、明治の測量図中の字町上内の地番を見ると、665-690番地と1300-1400番あたりの土地が混在しており、これは明らかに小字名の整理統合の結果現在の字町上域が形成され、その中で消滅した小字地名があったこと判るのである(例えば字「藪岡」・・旧土屋家住宅付近、字「地王堂」)。
薬師寺境内及びその参道脇に字堺を示す破線が入っているがこれは地番から考えて誤記だと判る。
あとで野取帳のほうも見ておこう。
 


黄色丸は地蔵堂。
左側の地蔵堂は町西のそれに当たる。


元禄検地帳中の今津町内の屋敷地の奥行きが最長10間程度、現在旧西国街道北側の屋敷地は奥行17間程度あり、明らかに元禄以後山裾部を削って屋敷地拡張を行っている。旧本陣・河本家住宅の門前の坂道は削り残し地形を反映したものか一度発掘調査が必要だ。街道南側はいまも奥行10間程度。街道から20メートル南側にいくと地質は海岸低地性の泥質土になるらしい。
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