戦国時代の旅行記集:『近世初頭九州紀行記集』 December 15 [Sat], 2012, 20:50
中近世の紀行記に見る備後地方
『中書家久公ご上京日記』
沼田の城(小早川居城)→沼田川を渡河し七日市→備後に入り三原の又左衛門家に宿泊し、やがて三原城→高森という城→高丸城(鬼など住みそうな怖い場所)、高丸という地名は沼隈郡山波村の標高一〇六㍍程度の山の名前としてはあるようだが、そこに山城はなかった。また『沼隈郡誌』494頁には沼隈郡高須村の村鎮守今宮さんの旧社境内は「高丸」にあった)→今津の町・四郎左衛門宅に一宿→山田(熊野)の町・山田城→鞆津(町という言葉の使い方に注意、「今津の町」の四郎左衛門(寺岡の四郎左衛門と同一人物)は宿所を経営)。『中書家久公ご上京日記』を読むと尾道に関する言及が無く、三原ー御調本郷ー三成ー今津ルートを使ったかなという印象が確かに強い。
ところで、こういう水準の低い素人談義もある。
問題個所多々だが、一例をあげると・・・・・
今津の町には新旧の二本の山陽道があり、両者を結ぶ路地が縦横につながっている薬師寺の前の道が秀吉時代の山陽道であり、 江戸初期の尾道の高須の埋立により、蓮華寺・本陣前の道が山陽道となっているとも述べている。要するに筆者は中世末から近世初頭における本郷川左岸および本郷川ー藤井川河間の海岸線の後退状況についてほとんど念頭に置くことなく、有馬喜惣太の取材情報を薬師寺の立地する今津町後丘陵一帯に当てはめ新旧2つの山陽道のルートを論じている訳だ。
誰が考えても当時の本郷川を西側に渡ってそのまま今津町後丘陵端道(平坦路)をさけてわざわざ海抜15メートル以上もある薬師寺山門前に至る坂道を秀吉が大軍(備中高梁川では渡河のために舟を25,6隻調達した程度の兵員数)を引き連れ登るといった難儀なことをして、アゲ方面に抜けたとは考えにくい。アゲに抜けるには丘陵端を通過する西国街道をそのまま西行し通称オオカミ小路で曲がるほうがよほど楽だ。そもそも秀吉道が薬師寺山門前を通過したという証拠(伝承・遺跡・遺物)は何一つない。また有馬の言う山麓にあったとされる往古の往還が何処のことを指して言ってるかは分らないし、一番問題になる点はそもそも往古の山麓道なるものが秀吉が通過した山陽道だという前提そのものの妥当性に関してだ。(⇒新稿において否定済み、よって削除)
A:三宝寺に至る、B:御調本郷経由にて三原城に至る、X:字西ノ坂、Y:字西田(西国街道通過)
明治30年の正式2万分1地形図・・・その後の研究で本郷村市⇔東村・永松⇔西村萬福寺前を通過するが近世の「府中往還」(府中ー尾道連絡路)
以下は冗談として処理して頂ければ結構だが、わたしなどには、奉仕団をつくり住民総出で出迎えたであろう天下の覇者秀吉の行軍(季節初夏、旧暦4月9日に)という一大イベントがアゲあたりの曲がりくねったアップダウンのある住民たちの生活道(例えばXを通過)をぞろぞろ行くような形で展開していたとしたらそれこそ秀吉に服属した地元の大名たちにとっては赤恥ものだったろうという気がする。アゲ辺りの曲がりくねったアップダウンのある通路はわたしの感覚(羽柴秀吉と戦って敗れた明智光秀が敗走中に落ち武者狩りで殺された京都市伏見区小栗栖を彷彿とさせるという意味)では落ち武者道そのもの。愛媛県の弓削島(上島町)の周回道路は交通史に興味のあった皇太子さんの来島を契機に新たに整備されたものだと聞いたが、物事って今も昔もそんなものだ。天下人が通過する道は粗相がないように前もって整備されたはずだ(史料的には『広島県史古代中世資料篇Ⅴの山口県文書館蔵史料に一部秀吉下向時関係のものがある)。』
『豊臣秀吉九州下行記』(菊亭家記録2)・・・川辺(備中、高梁川西岸川辺宿)より名護屋まで一里毎に塚を築く(一里塚)
三宝寺より三原城まで8里(3.6キロ×8) 丹念に秀吉が行軍した経路確定のための物的証拠(遺跡・遺物など)を丹念に集めていかなければ確かな議論はできないだろ。後日既往の研究成果、当該古道に関する研究誌をチェックしてみよう・・・・その後の分析で秀吉が九州下向時②通過したのは三原ー尾道ー井原ルートだと判明。
【メモ】『中書家久公ご上京日記』の記載事項と「備後の山城」配置から推定される16世紀当時の山陽道(山手ー御調本郷ー三原ルート)との関係(検討中)
【メモ】京都洛東の古道伝「頼政道」(『源平盛衰記・巻15』に登場する源頼政の園城寺~奈良への逃走路)。東海道、
伏見丘陵を越える、奈良街道(京都~宇治・岡屋千軒経由で奈良に至る古道)など、京都には伝承古道の話題には事欠かない。
中近世の紀行記に見る備後地方
『中書家久公ご上京日記』
沼田の城(小早川居城)→沼田川を渡河し七日市→備後に入り三原の又左衛門家に宿泊し、やがて三原城→高森という城→高丸城(鬼など住みそうな怖い場所)、高丸という地名は沼隈郡山波村の標高一〇六㍍程度の山の名前としてはあるようだが、そこに山城はなかった。また『沼隈郡誌』494頁には沼隈郡高須村の村鎮守今宮さんの旧社境内は「高丸」にあった)→今津の町・四郎左衛門宅に一宿→山田(熊野)の町・山田城→鞆津(町という言葉の使い方に注意、「今津の町」の四郎左衛門(寺岡の四郎左衛門と同一人物)は宿所を経営)。『中書家久公ご上京日記』を読むと尾道に関する言及が無く、三原ー御調本郷ー三成ー今津ルートを使ったかなという印象が確かに強い。
問題個所多々だが、一例をあげると・・・・・
今津の町には新旧の二本の山陽道があり、両者を結ぶ路地が縦横につながっている薬師寺の前の道が秀吉時代の山陽道であり、 江戸初期の尾道の高須の埋立により、蓮華寺・本陣前の道が山陽道となっているとも述べている。要するに筆者は中世末から近世初頭における本郷川左岸および本郷川ー藤井川河間の海岸線の後退状況についてほとんど念頭に置くことなく、有馬喜惣太の取材情報を薬師寺の立地する今津町後丘陵一帯に当てはめ新旧2つの山陽道のルートを論じている訳だ。
誰が考えても当時の本郷川を西側に渡ってそのまま今津町後丘陵端道(平坦路)をさけてわざわざ海抜15メートル以上もある薬師寺山門前に至る坂道を秀吉が大軍(備中高梁川では渡河のために舟を25,6隻調達した程度の兵員数)を引き連れ登るといった難儀なことをして、アゲ方面に抜けたとは考えにくい。アゲに抜けるには丘陵端を通過する西国街道をそのまま西行し通称オオカミ小路で曲がるほうがよほど楽だ。そもそも秀吉道が薬師寺山門前を通過したという証拠(伝承・遺跡・遺物)は何一つない。また有馬の言う山麓にあったとされる往古の往還が何処のことを指して言ってるかは分らないし、一番問題になる点はそもそも往古の山麓道なるものが秀吉が通過した山陽道だという前提そのものの妥当性に関してだ。
A:三宝寺に至る、B:御調本郷経由にて三原城に至る、X:字西ノ坂、Y:字西田(西国街道通過)
明治30年の正式2万分1地形図・・・その後の研究で本郷村市⇔東村・永松⇔西村萬福寺前を通過するが近世の「府中往還」(府中ー尾道連絡路)
以下は冗談として処理して頂ければ結構だが、わたしなどには、奉仕団をつくり住民総出で出迎えたであろう天下の覇者秀吉の行軍(季節初夏、旧暦4月9日に)という一大イベントがアゲあたりの曲がりくねったアップダウンのある住民たちの生活道(例えばXを通過)をぞろぞろ行くような形で展開していたとしたらそれこそ秀吉に服属した地元の大名たちにとっては赤恥ものだったろうという気がする。アゲ辺りの曲がりくねったアップダウンのある通路はわたしの感覚(羽柴秀吉と戦って敗れた明智光秀が敗走中に落ち武者狩りで殺された京都市伏見区小栗栖を彷彿とさせるという意味)では落ち武者道そのもの。愛媛県の弓削島(上島町)の周回道路は交通史に興味のあった皇太子さんの来島を契機に新たに整備されたものだと聞いたが、物事って今も昔もそんなものだ。天下人が通過する道は粗相がないように前もって整備されたはずだ(史料的には『広島県史古代中世資料篇Ⅴの山口県文書館蔵史料に一部秀吉下向時関係のものがある)。』
『豊臣秀吉九州下行記』(菊亭家記録2)・・・川辺(備中、高梁川西岸川辺宿)より名護屋まで一里毎に塚を築く(一里塚)
三宝寺より三原城まで8里(3.6キロ×8) 丹念に秀吉が行軍した経路確定のための物的証拠(遺跡・遺物など)を丹念に集めていかなければ確かな議論はできないだろ。後日既往の研究成果、当該古道に関する研究誌をチェックしてみよう・・・・その後の分析で秀吉が九州下向時②通過したのは三原ー尾道ー井原ルートだと判明。
【メモ】『中書家久公ご上京日記』の記載事項と「備後の山城」配置から推定される16世紀当時の山陽道(山手ー御調本郷ー三原ルート)との関係(検討中)
【メモ】京都洛東の古道伝「頼政道」(『源平盛衰記・巻15』に登場する源頼政の園城寺~奈良への逃走路)。東海道、
伏見丘陵を越える、奈良街道(京都~宇治・岡屋千軒経由で奈良に至る古道)など、京都には伝承古道の話題には事欠かない。