炎天下、石段の途中でお勉強中(漢字書き取りとか計算問題)かと思いきや、ノートの余白に漫画の絵を描いている風だった それも大切な「お勉強」の一つなんだろうか。
普通はモノクロにすると雰囲気が出せるのだが少子化の時代を感じさせる写真が撮れたかなぁ。
今回紹介する3人は『松永町誌』では政治行政家として取り上げられている。
村上兵五郎、専三の息子で第二代松永村村長。得能正通の親友の一人。当時は得能も村上もそしてこの後紹介する本多も二十歳代の青年だった。性剛毅だったと。いずれも慶応元年~明治元年頃生まれた人たちで、高島平三郎・河本亀之助世代だ。
壇上(1858-1910)は慶応2年18歳時に松永住吉屋壇上保次郎の養子となった人物で、生まれは芦品郡宜山村日野綱三郎の三男。三代目保次郎を襲名し、30歳代だった明治22-24、山陽鉄道の線路建設で神村・鏡山~高須・藤井川間の工事を請け負った。『松永町誌』によれば当初線路敷地の埋め立て用に羽原川河口部の浚渫作業によって得られた廃土の利用を考えたが計画通りにはことは運ばず、線路建設には多額の借金を重ねるはめになったようだが工事を完遂させた。壇上家墓地付近で石炭ガラを見かけた。保次郎は性は謙譲で公共工事=鉄道線路建設に尽力したと。
後ろ側の墓石がご当人。前側のものはその父親の墓石。
本多藤橘家の墓地。本多は機織新涯の埋め立て工事を行った人だが知的な親分肌の地方政治家(長年村会・郡会議員)だった。ちなみに息子著一郎は丸山鶴吉『五十年ところどころ』七 昇仙峽の一夜/75で紹介された当時誠之舎に入寮する旧制第一高等学校生で病弱のため東京帝大入学前後になくなっている。
村上兵五郎家と壇上保次郎家は絶家。