普門寺
檀家が少なく管理が大変らしいがこざっぱりと清掃されていた。
幕末期の納骨塔を挟んで、西(むかって左)側に中土居麻生家墓地、東側に墓じまいをした感じの上土居麻生家。この一族と松永村の高須屋麻生氏との関係は不詳。家紋は異なる。こちらは卍紋。高須屋は八角に剣片喰紋。
墓誌は興譲館第三代館長山下崇(1864-1944、秋堂と号す)
上土居墓の現在 自然石墓はジャンボで寛文期のもの。中央の白装束の石塔は66ヶ国回国記念塔
その向かって左側にある戒名「釈 雪山院・・・」が上土居麻生家12代麻生栄(1865-1923,享年59歳、現在の明治大学卆)の墓
松永銀行常務、松永塩商社や松永製薬所の社長を歴任した。村長・県会議員も務めたようだ。ご子孫は他所に転居し、墓じまいをしてしまった。
沼隈郡高須村の麻生氏については①近世初期に沼隈郡の松永湾岸干潟干拓事業を企図した頃、本荘重政がこの麻生氏のもとに身を寄せたこと、②江戸後半のことだが、森田節齊が幕府の追跡を避けるためにツテを頼って恩師賴山陽の生まれた山陽路の旅に出、とりあえず世話になった先がこの高須麻生氏の元だった。
今回話題にした尾道市高須町の普門寺(〒729-0141広島県尾道市高須町3798-1)は中世高須荘の北堺に立地した古刹。現在も境内が福山市高西町と尾道市高須町の境界部に当たる。
檀家が少なく管理が大変らしいがこざっぱりと清掃されていた。
幕末期の納骨塔を挟んで、西(むかって左)側に中土居麻生家墓地、東側に墓じまいをした感じの上土居麻生家。この一族と松永村の高須屋麻生氏との関係は不詳。家紋は異なる。こちらは卍紋。高須屋は八角に剣片喰紋。
墓誌は興譲館第三代館長山下崇(1864-1944、秋堂と号す)
上土居墓の現在 自然石墓はジャンボで寛文期のもの。中央の白装束の石塔は66ヶ国回国記念塔
その向かって左側にある戒名「釈 雪山院・・・」が上土居麻生家12代麻生栄(1865-1923,享年59歳、現在の明治大学卆)の墓
松永銀行常務、松永塩商社や松永製薬所の社長を歴任した。村長・県会議員も務めたようだ。ご子孫は他所に転居し、墓じまいをしてしまった。
沼隈郡高須村の麻生氏については①近世初期に沼隈郡の松永湾岸干潟干拓事業を企図した頃、本荘重政がこの麻生氏のもとに身を寄せたこと、②江戸後半のことだが、森田節齊が幕府の追跡を避けるためにツテを頼って恩師賴山陽の生まれた山陽路の旅に出、とりあえず世話になった先がこの高須麻生氏の元だった。
今回話題にした尾道市高須町の普門寺(〒729-0141広島県尾道市高須町3798-1)は中世高須荘の北堺に立地した古刹。現在も境内が福山市高西町と尾道市高須町の境界部に当たる。