本荘の中では「」(自己の身礼の変妙を自覚できない、普通にいえば無礼な人間)と分類された人間に対しては斧ならぬ刀を使って切り捨て御免?!
理由つけは滑稽だが、人間と禽獣とは両眼視という面で共通する。しかも行動面を観察してみると禽獣も礼(例えば夫婦愛・仲間同士の朋友感覚)を心得ているようだし・・・、違いは人は神変の気(「気」は陰陽五行説上の概念)を受けているのに対し、畜類は変屈の気を受けていると考えられると。話は人に転じ、人も変妙の結果千変万化で、と呼んでいいものもいるのだと。形は人間だが、心は鬼、すなわち鬼心というケースを数々見てきた本荘だったろうが自らは(妄想心から解放され)仏心を供えた人間として生を全うすることの大切さを自分自身に対して、またもしかすると(折角親父の本荘重政が後見人となった形で10歳の時に500石の待遇で仕官させてもらっていたのにそのチャンスを生かせず、福山藩の客分重政の死と同時に武家社会から放逐されるほど出来の悪かった)息子(1645年生まれ)に対しても言い聞かせる意図が『自白法鑑』には込められていたように思われるのだが・・・・、さてさて真相や如何に。
本荘のユニークなところは彼の言う「禽獣」とは仏教経典が説く「餓鬼畜生」中の畜生の類でない点だ。可能性の問題として、罪人(50-51頁)も畜類も普通の人間同様に死して空妙(例えば場所的には天上世界、心境的には弓射の時の無念無想・・・48頁)に至る。また、つらつら観(おもんみる)に天の性は衆生の聖愚を隔てず、受(うく)然にその性を授かって正用(せいよう)なるを聖となす、不用を愚となすのみなりと書いておりこの辺は陽明学の言説を受容したものだろうか、氏より育ち、どんな人間でも心掛け次第で立派になれるという論法だから寛容性のある考え方といえよう。本荘には罪人に関する言及がある。
すなわち業悪邪道の人は悪名が世間的に流布し社会的な制裁を強いられるものだが、罪人だって死んでも空妙に至らずということはない(50-51頁)と。すべてのものが救われる式の本荘のこの考え方だが、断っておくが、親鸞の「悪人正機」説とはまったく別もの。
まっとうな人間(正確に言えば「妄想心から離脱出来た人」)にするには心身のうちの身体の矯正が必要だと(理由は人間は体/心からなり、後者は体の影に過ぎないから、影をいくら矯正しても無駄だという訳だ・・・【α】)。ってことは、いまではすっかりご法度となりつつある、体罰を伴うスパルタ式教育採用ということになるのだろう。本荘には修験道とか修験者といった、「六根清浄」を唱えつつ、身体の生理的苦痛を克服しながら仏道の修行に明け暮れる人たちに通じる心性を感じる。
断っておくが本荘は「人の形は消滅あれども、心は不生不滅の性なり」(2頁)と考えていた。この場合人の形は身体つまり体のことだ。さらに「心はよく人体を養育すといえどもまた能く体を呵責す」(27頁)とも…【β】。【α】と【β】とは一見矛盾するようだが、前者は人の病に対する外科的な、そして後者は(心療)内科的対応の有効性を示唆したものと考えればよい。陰陽ということで言えば、前者は陽、動脈、masculinity=男性的原理に基づく処置、後者は陰、静脈、femininity=女性的原理に基づくそれと考えれば納得出来ないこともない。
熊沢蕃山は『集義外書』(110頁)には「人の心は人の形ある間の事なり」と。私的には熊沢の考え方のほうがよく理解できる。
masculinityー不動明王像のキャラクター特性ー
本荘の気質から考えて、剣大明神を不動明王像の形象をかりて表現したところは何となく解るような気がする。