- 松永史談会 -

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洛陽堂刊行の雑誌『都会及農村』

2018年09月03日 | 河本亀之助と東京洛陽堂
大正4年11月15日、洛陽堂は編集主幹に天野藤男を据え、雑誌「都会及農村」を御大典記念発行という形で創刊(1巻1号)した。翌月12月28日印刷納め、大正5年1月1日に刊行されたのが正月号(2巻1号)。わたしの所蔵本で見ると、4月号までの表紙挿絵は平福百穂筆。3巻1-3号は恩地孝四郎筆。3巻5-6号の表紙挿絵は橋口五葉(1881-1921、「」のサインあり)。いずれも複数号に亘って表紙のデザインを使いまわしている。3巻には中国新聞藤井氏より贈呈の書き込みがあり「乞高評」の印。創刊号には「贈呈」の印。

「地方改良」という国策に沿った雑誌「都会及農村」だった。天野藤男の編集者としての能力不足が影響したのか3巻を見ると創刊時の勢いは失せていた感じ。天野自身も、刊行しなくてよい雑誌だとか「3号雑誌」だとか、いろいろ周囲からチャチャを入れられていたようだ。当時洛陽堂が発行していた雑誌『白樺』と比較すると、やはり内容面での知的喚起力、企画の斬新さなど何処を切り取っても雲泥の差。編集後記で「加藤一夫」が書いたものを掲載するとの予告をしていたが、実現はみなかったらしい。永井潜の弟子医学者で推理小説家小酒井 不木(ペンネーム)が3巻5号に一文を寄せていた。広島県人の心理学者下田次郎も寄稿(3巻8号)。「壺網」というタイトルの一文(「都会及農村」3-5、46-51頁、大正6」)を寄せた寺岡千代蔵は広島県沼隈郡の人(大正6年当時、沼隈郡走島村立燧洋尋常小学校長)。ザーッと文章に目を通してみたが文芸的センスのある人だったようだ。
武者小路実篤が2巻1号に「ある読者に」という一文を寄せている。執筆者(日本における近代農学の祖・横井時敬ら・・・むろん高島平三郎も)の顔ぶれから見て2巻一号(つまり創刊時)が雑誌『都会及農村』のピークだったかな~
岡山県井原出身で東京市長経験者阪谷芳郎は都市計画や都市基盤整備の必要を、また郷党の丸山鶴吉は都会の持つ光と影のうち、後者(社会問題の温床になりやすい貧民窟など)に目を向けた都市研究の必要性を指摘している点が目を引いた。


大正7年1月刊 167頁+洛陽堂図書目録、B6判(NHKブックスサイズ)、ソフトカバー
前掲した寺岡千代蔵「壺網」の骨子は『漁村教育』151-153頁に転載


3巻9号の挿画は恩地孝四郎、3巻10号は原勇・恩地孝(孝四郎)が担当。なお、原勇は「月映」同人以外の人物(詳細不詳)。


河本哲夫が神田北神保町2番地に開業したことを告げる「新生堂」の広告を掲載(3巻6号、大正5年6月1日刊行)。


中身の分析は他日を期す。私の印象では後年の有名画家の駆け出し時代の作品がこの雑誌には多々見られ、そちらの研究の方が意義がありそう。

なお、わたしが所有しない雑誌『都会及農村』の1巻2号、4,5巻

洛陽堂刊雑誌の仰天古書市場価格・・・これは雑誌「白樺」復刻版・全巻5セット入手できる価格に相当する。

10月9日現在売り切れ。収集家にとっては垂涎の的になるんだろうか


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