大正10年の先憂会会員名簿によると後年有名な作詞家・随筆家となる上村(明治35年3月、旧松永市生まれ)は大正10年当時、千年村下組居住だった。
戦中戦後活躍した上村貞章の代表的な随筆集(上村の随筆集は全集化されている)
上村は幕末期に産炭地九州・小倉から来住した貧乏士族の三男坊:町医者上村兎毛の孫で福山・龍淵寺住職&師範学校/誠之館高校の教員(村田露月編『柳津村誌』、昭和33、359-360頁)。
寺岡千代蔵の消息確認のため「大正10年先憂会会員名簿ー新沼隈建設の権威ー」(雑誌まこと11-12の臨時増刊)をチェックしていたら期せずして上村貞章の消息を一つ発見。
肝心の寺岡情報? この先憂会会員名簿には無かった。昨日お孫さん(概要に住所・電話番号メモ、家は能登原保育所の近く、2018年段階の話では祖父時代の原稿類は残っているとのことだった)から聞いた話の中に早くなくなったということだったので著書『漁村教育』上梓の直後に、もしかすると・・・・・・。
昨日電話で聞いた話の中に、お墓は勤務校のあった走島にあり、そこには(顕彰)碑のようなものが立っているということだった。その時は何のことか意味が理解できなかったが、今にして思えばそういうことだったのかいう感じがしている・・・後日事実確認予定⇒未確認。
広島県における寺岡姓の分布・・・旧沼隈郡の能登原・山波・神村(伊勢宮さんの神主家名方=寺岡、『島津家久日記』に今津町での宿泊先として記載された「四郎左衛門」は「寺岡の四郎左衛門」と同一人物)・西村(といった海辺の村)に集中する特殊な苗字だと判る。
ただし、名方(伊勢の寺岡)家墓地の中に四郎左衛門がなかったようにも思うので、「寺岡の四郎左衞門」の件はもっと範囲を拡げて確認作業が必要。