- 松永史談会 -

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「男児志を決して郷関を出づる」の巻ー亀之助が後事を託した4人の人々ー

2018年09月11日 | ローカルな歴史(郷土史)情報

家紋は「丸に四方剣花菱」・・・・東村の石井一族の家紋だ。屋号は亀居。これが石井豊太家の屋号だった(東村。大石井家当主談)。【メモ】屋号の付け方が東村の大石井(屋号:満井)と同形。松永に出た分家の益田屋石井氏とはこの点が異なる。


河本亀之助(1866-1920)は上京するときに亀之助一家の将来のことを依頼がてら石井憲吉(1850-1921)・石井一郎(1866-1926)大前・小川恒松(1832-1892)とこの石井豊太(大正1-5年草戸・佐波・神島組合立佐戸島尋常小学校校長、大正7-12年出身地の沼隈郡東村村長)の方へ挨拶廻りをしている。石井豊太は石井一郎ともども亀之助とは、おそらく私塾大成館時代の、友人だろうか。小川恒松と石井憲吉とはいづれも年の離れた年長者だ。とくに恒松の場合は息子・竹野豊八(大成館を出て後年今津尋常小学校校長)が亀之助と同じ世代だった。なお、亀之助を見送った「林・村上・河本諸氏」とあるうちの、「林」は今津村在住の医師林昌造(石井亮吉『松永塩業史/文化史の研究』、昭和48、279頁)だろうか。
今回の調査で河本亀之助が後事を託した4人の人々の消息確認が一応完了した。かれらの墓石は今津薬師寺墓地の半径50メートルの範囲にまとまった形で立地。





この一族は関西方面に転居したと聞いたが、法事はきっちり励行しているようだ。塔婆が・・・・ブロックの穴を利用して立てかける方法もありだな~。わたしの所では今年5月に3人分の法事をまとめてしたが、早くもその時の塔婆が朽ちてきた。



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