ヘブライ人への手紙2章
17節「それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです」(新共同訳)
1節「だから、わたしたちは聞いたことにいっそう注意を払わねばなりません。そうでないと、押し流されてしまいます」。小見出し『大いなる救い』。1章の勧めを受けてこれに応答すること。「注意を払う」(プロセケイン)、口語訳「心に留める」は、船の錨をおろすこと、もしそうしないなら「押し流される」(パラルノオーメン)、漂流することになる。
2節「もし、天使たちを通して語られた言葉が効力を発し、すべての違犯や不従順が当然な罰を受けたとするならば」。「天使たちによって語られた」とは、旧約の啓示を指す。その違反や不従順に対して断罪されるなら、神の御子によって啓示された救いに無頓着でいてどうして断罪されないだろうかという(3節)。この救いは主イエスが語り、これを聞いて使徒たちが告げた確かなもの、神もしるし、不思議、力ある業で証したものである(4節)。6
5節「神は、わたしたちが語っている来るべき世界を、天使たちに従わせるようなことはなさらなかったのです」。小見出し『救いの創始者』。ここでも「天使たち~」は旧約であり、「来るべき世界」は新約の御子イエスの時を指している。
6節「ある個所で、次のようにはっきり証しされています。『あなたが心に留められる人間とは、何者なのか。また、あなたが顧みられる人の子とは、何者なのか』」。イエスの救いの出来事を詩8篇5~7節(ギリシャ語訳)を引用して証言する。
7節「あなたは彼を天使たちよりも、わずかの間、低い者とされたが、栄光と栄誉の冠を授け~」。「わずかの間、低い者とされた」とは、イエスの地上で人として虚しくなられたことを指す(14、17節)。それは十字架の苦しみと死というわずかの間で、死に勝利して「栄光と栄誉の冠を授けられた」のである(8~9節)。
10節「というのは、多くの子らを栄光へと導くために、彼らの救いの創始者を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の目標であり源である方に、ふさわしいことであったからです」。このイエスの死と栄光は、救いの「創始者」(アルケーゴス)となるためであった。アルケー(初め)とアゴー(導く)の合成語で「先導者」(12章1節)「導き手」(使徒言行録3章15節)とも訳せる。これは死と命の間の深淵に救いの命綱を渡すことである(ギリシャではこれをアルケーゴスと呼ぶ)。神はこのことを人類の究極目標として下さったのである。
12節「『わたしは、あなたの名をわたしの兄弟たちに知らせ、集会の中であなたを賛美します』と言い」。詩22篇23節の引用。13節はイザヤ書8章17~18節の引用で、イエスがわたしたちの兄弟となられたことを証言する。14節以下は御子イエスが、わたし達と等しく死とその苦しみを味われた理由を説いている。理由の第一は「それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼす」(14節)、次に第二として死の恐怖で生涯、死の奴隷状態になっている者たちを解放すること(15節)。それは天使ではなく、アブラハムの子孫を助けるのである(16節)
17節「イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかった」ことが理由の第三である。大祭司は、神と民とに関わることを身に負うのである。「忠実な大祭司」としての働きは、更に3章以降で展開されている。
17節「それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです」(新共同訳)
1節「だから、わたしたちは聞いたことにいっそう注意を払わねばなりません。そうでないと、押し流されてしまいます」。小見出し『大いなる救い』。1章の勧めを受けてこれに応答すること。「注意を払う」(プロセケイン)、口語訳「心に留める」は、船の錨をおろすこと、もしそうしないなら「押し流される」(パラルノオーメン)、漂流することになる。
2節「もし、天使たちを通して語られた言葉が効力を発し、すべての違犯や不従順が当然な罰を受けたとするならば」。「天使たちによって語られた」とは、旧約の啓示を指す。その違反や不従順に対して断罪されるなら、神の御子によって啓示された救いに無頓着でいてどうして断罪されないだろうかという(3節)。この救いは主イエスが語り、これを聞いて使徒たちが告げた確かなもの、神もしるし、不思議、力ある業で証したものである(4節)。6
5節「神は、わたしたちが語っている来るべき世界を、天使たちに従わせるようなことはなさらなかったのです」。小見出し『救いの創始者』。ここでも「天使たち~」は旧約であり、「来るべき世界」は新約の御子イエスの時を指している。
6節「ある個所で、次のようにはっきり証しされています。『あなたが心に留められる人間とは、何者なのか。また、あなたが顧みられる人の子とは、何者なのか』」。イエスの救いの出来事を詩8篇5~7節(ギリシャ語訳)を引用して証言する。
7節「あなたは彼を天使たちよりも、わずかの間、低い者とされたが、栄光と栄誉の冠を授け~」。「わずかの間、低い者とされた」とは、イエスの地上で人として虚しくなられたことを指す(14、17節)。それは十字架の苦しみと死というわずかの間で、死に勝利して「栄光と栄誉の冠を授けられた」のである(8~9節)。
10節「というのは、多くの子らを栄光へと導くために、彼らの救いの創始者を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の目標であり源である方に、ふさわしいことであったからです」。このイエスの死と栄光は、救いの「創始者」(アルケーゴス)となるためであった。アルケー(初め)とアゴー(導く)の合成語で「先導者」(12章1節)「導き手」(使徒言行録3章15節)とも訳せる。これは死と命の間の深淵に救いの命綱を渡すことである(ギリシャではこれをアルケーゴスと呼ぶ)。神はこのことを人類の究極目標として下さったのである。
12節「『わたしは、あなたの名をわたしの兄弟たちに知らせ、集会の中であなたを賛美します』と言い」。詩22篇23節の引用。13節はイザヤ書8章17~18節の引用で、イエスがわたしたちの兄弟となられたことを証言する。14節以下は御子イエスが、わたし達と等しく死とその苦しみを味われた理由を説いている。理由の第一は「それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼす」(14節)、次に第二として死の恐怖で生涯、死の奴隷状態になっている者たちを解放すること(15節)。それは天使ではなく、アブラハムの子孫を助けるのである(16節)
17節「イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかった」ことが理由の第三である。大祭司は、神と民とに関わることを身に負うのである。「忠実な大祭司」としての働きは、更に3章以降で展開されている。