ヤコブの手紙5章
16節「だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします」(新共同訳)
1節「富んでいる人たち、よく聞きなさい。自分にふりかかってくる不幸を思って、泣きわめきなさい」。小見出し『富んでいる人たちに対して』。4章終りからの続きであり、驕り高ぶる富める人々に対する終わりの時の審判を告げる。この悔改めは4章9節に出ている。「衣服には虫が付き、金銀も錆びてしまう」(2節)は主イエスも言われた(マタイ福音書6章19節)。
3節「金銀も錆びてしまいます。この錆びこそが、あなたがたの罪の証拠となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くすでしょう。あなたがたは、この終わりの時のために宝を蓄えたのでした」。金銀が錆びているのは罪の証拠、審判の時貯め込んだ金銀とともにあなた方は滅ぼされるという意味。労働者らへの未支払いの賃金が、叫び声をあげて不正を訴えている。その叫びは万軍の主の耳に達している(4節)。
5節「あなたがたは、地上でぜいたくに暮らして、快楽にふけり、屠られる日に備え、自分の心を太らせ」。不正の富で贅沢の限りを尽くし、快楽にふけり主の審判の日に当たって心を太らせている。「屠られる日」とは神の審判を指す。「心を太らせる」は傍若無人に振る舞うことで、アイロニー(無知をあばく)である。その奢った態度は正しい人を罪に定めて殺すという暴挙なのである(6節)。
7節「兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです」。小見出し『忍耐と祈り』この世の楽しみから締め出された兄弟たちに、再び慰めと忍耐の勧めをする(1章3~4節)。「秋の雨と春の雨」(口語訳「先の雨と後の雨」)とは、種蒔きと刈り取りの時であり、その時が来るなら忍耐は報われるというのである。
8節「あなたがたも忍耐しなさい。心を固く保ちなさい。主が来られる時が迫っているからです」。この農夫のように主の再臨の時を待望する姿勢が示される。更に教会内で、互いに不平を言わないようにと注意する(9節)。4章11~12節にあった。
10節「兄弟たち、主の名によって語った預言者たちを、辛抱と忍耐の模範としなさい」。ここで、旧約の預言者たちの辛抱と忍耐の模範を取り挙げる。それはヨブである。この忍耐は、受動的な忍耐ではなく、疑いと悲しみと悲惨の波に大胆に立ち向かう強い信仰を確保することのできるものである。ヨブの物語は42章から神が慈愛と憐れみに満ちた方であると述べている。12節は、主イエスの言葉を取り上げて(マタイ5章33~37節)、神の名だけでなく、天や地を指し、その他様々なものを引き合いに出して誓ってはならない。然りは然り、否は否という。それはキリストの言葉を生活の行動指針とする態度である。13節で教会での祈りと賛美が取り上げられ、14~15節は病気の癒しを祈ることが語られる。教会には「癒しの賜物」を持つ教師がいた(第一コリント12章30節)。
16節「だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします」。「正しい人」(口語訳「義人」)として預言者エリヤを取り上げる(17~18節)。これは列王記上17章1節、18章1、45~46節に出てくる。
20節「罪人を迷いの道から連れ戻す人は、その罪人の魂を死から救い出し、多くの罪を覆うことになると、知るべきです」。これは主の愛と赦しの許に連れ戻すことである。愛は多くの罪を覆う(第一ペトロ4章8節)。罪を覆われた者の幸いが詩32篇1節にある。
16節「だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします」(新共同訳)
1節「富んでいる人たち、よく聞きなさい。自分にふりかかってくる不幸を思って、泣きわめきなさい」。小見出し『富んでいる人たちに対して』。4章終りからの続きであり、驕り高ぶる富める人々に対する終わりの時の審判を告げる。この悔改めは4章9節に出ている。「衣服には虫が付き、金銀も錆びてしまう」(2節)は主イエスも言われた(マタイ福音書6章19節)。
3節「金銀も錆びてしまいます。この錆びこそが、あなたがたの罪の証拠となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くすでしょう。あなたがたは、この終わりの時のために宝を蓄えたのでした」。金銀が錆びているのは罪の証拠、審判の時貯め込んだ金銀とともにあなた方は滅ぼされるという意味。労働者らへの未支払いの賃金が、叫び声をあげて不正を訴えている。その叫びは万軍の主の耳に達している(4節)。
5節「あなたがたは、地上でぜいたくに暮らして、快楽にふけり、屠られる日に備え、自分の心を太らせ」。不正の富で贅沢の限りを尽くし、快楽にふけり主の審判の日に当たって心を太らせている。「屠られる日」とは神の審判を指す。「心を太らせる」は傍若無人に振る舞うことで、アイロニー(無知をあばく)である。その奢った態度は正しい人を罪に定めて殺すという暴挙なのである(6節)。
7節「兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです」。小見出し『忍耐と祈り』この世の楽しみから締め出された兄弟たちに、再び慰めと忍耐の勧めをする(1章3~4節)。「秋の雨と春の雨」(口語訳「先の雨と後の雨」)とは、種蒔きと刈り取りの時であり、その時が来るなら忍耐は報われるというのである。
8節「あなたがたも忍耐しなさい。心を固く保ちなさい。主が来られる時が迫っているからです」。この農夫のように主の再臨の時を待望する姿勢が示される。更に教会内で、互いに不平を言わないようにと注意する(9節)。4章11~12節にあった。
10節「兄弟たち、主の名によって語った預言者たちを、辛抱と忍耐の模範としなさい」。ここで、旧約の預言者たちの辛抱と忍耐の模範を取り挙げる。それはヨブである。この忍耐は、受動的な忍耐ではなく、疑いと悲しみと悲惨の波に大胆に立ち向かう強い信仰を確保することのできるものである。ヨブの物語は42章から神が慈愛と憐れみに満ちた方であると述べている。12節は、主イエスの言葉を取り上げて(マタイ5章33~37節)、神の名だけでなく、天や地を指し、その他様々なものを引き合いに出して誓ってはならない。然りは然り、否は否という。それはキリストの言葉を生活の行動指針とする態度である。13節で教会での祈りと賛美が取り上げられ、14~15節は病気の癒しを祈ることが語られる。教会には「癒しの賜物」を持つ教師がいた(第一コリント12章30節)。
16節「だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします」。「正しい人」(口語訳「義人」)として預言者エリヤを取り上げる(17~18節)。これは列王記上17章1節、18章1、45~46節に出てくる。
20節「罪人を迷いの道から連れ戻す人は、その罪人の魂を死から救い出し、多くの罪を覆うことになると、知るべきです」。これは主の愛と赦しの許に連れ戻すことである。愛は多くの罪を覆う(第一ペトロ4章8節)。罪を覆われた者の幸いが詩32篇1節にある。