日毎の糧

聖書全巻を朝ごとに1章づつ通読し、学び、黙想しそこから与えられた霊想録である。

愛は多くの罪を覆うからです

2016-03-29 | Weblog
  ペトロ第一の手紙4章 

  8節「何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。」(新共同訳)

  1節「キリストは肉に苦しみをお受けになったのですから、あなたがたも同じ心構えで武装しなさい。肉に苦しみを受けた者は、罪とのかかわりを絶った者なのです」。3章18節のキリストの苦しみを受けて、同じ心構え(覚悟=口語訳)をしなさいと勧める。それは欲情に従わず、神の聖意に従って生きる生涯である(2節)。3節は過去の欲情に生きた時代の「悪徳表」である。これときっぱり訣別して生きると、周囲の異教徒との間に摩擦が生じる(4節)。
  5節「彼らは生きている者と死んだ者とを裁こうとしておられる方に、申し開きをしなければなりません」。口語訳「やがて…」、新改訳「~すぐにも」。それがいつなのか。7節からすると間近い。
  6節「死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです」。再び3章19~20節にもどり、ユダヤ教伝承を根拠としたもので、死者の世界=黄泉(シェオル)にも神の支配があるということ。生前に福音に接する機会が無かった者の教理になっている。
  7節「万物の終わりが迫っています。だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい」。「終わり」(テロス・動詞テレオー)は「完了する、成就する」で、神の歴史の完成を示す。「身を慎む」は目覚めて平衡感覚を持つこと、この反対は酔いしれて分別を無くすること(1章13節、5章7節)。思慮深く冷静に祈る(NTD)。
  8節「何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです」。「心を込めて」(エクテネー)は「緊張して」「いよいよ熱く」(口語訳)である。「愛は多くの罪を覆う」は相手の過失に寛大で、自分に向けられた罪過を赦す(箴言10章12節、ルカ福音書7章47節、第一コリント13章7節)。貧しい信徒が来訪する旅人に対し不平を言わずにもてなす(9節)。
  10節「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい」。「賜物」(カリスマ)は、神からの恵み(カリス)である。管理者(stewards)には忠実が求められる(第一コリント4章1節)。その務めは神の言葉を語ることと、奉仕することに相応しくあること(11節)。
  12節「愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません」。「身に降りかかる火のような試練」とは、キリストの信仰にともなう苦難である(1章7節)。この苦難が大きければ大きいほど、喜びも大きいという。「喜びに満ち溢れる」を詳訳聖書「勝利をもって狂喜している」、KJEV(英訳)「素晴しい喜びをもって喜ぶ」(glad with exceeding joy)である。それは「キリストの苦しみにあずかる」ことだからである(13節)。「あずかる」(コイノーネテ)は「分け合う」「共有する」be sharingである。これはローマ8章17節、フィリピ1章29節にもある。16節「キリスト者として苦しみを受ける」、「キリスト者」(クリスティアノス)は「キリストの輩(野郎)」と揶揄した言葉だったが、ここでは一般に定着した呼称(使徒言行録11章26節)。
  18節「正しい人がやっと救われるのなら、不信心な人や罪深い人はどうなるのか」と言われているとおりです」。箴言11章31節の引用。福音を拒む者への警告である。19節「神の御心によって苦しみを受ける」というのも同じである。キリスト者は真実であられる創造者の前にその身をゆだね、その聖意に応えて善を行うのである(19節)。「善を行う」は、善行に固執すること(NTD)、この手紙には、2章12、15、20、3章6、13、17、19節と多く出ている。