日毎の糧

聖書全巻を朝ごとに1章づつ通読し、学び、黙想しそこから与えられた霊想録である。

それは自分の全身を制御できる完全な人です

2016-03-21 | Weblog
   ヤコブの手紙3章 

  2節「わたしたちは皆、度々過ちを犯すからです。言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です」(新共同訳)

  1節「わたしの兄弟たち、あなたがたのうち多くの人が教師になってはなりません。わたしたち教師がほかの人たちより厳しい裁きを受けることになると、あなたがたは知っています」。小見出し『舌を制御する』。これまでは行いを伴わない信仰について論じたが、ここから「わたしたち教師」とあるように、教会内の問題について述べる。裁きは神の家から始まるのである(第一ペトロの手紙4章17節)。
  2節「わたしたちは皆、度々過ちを犯すからです。言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です」。口から出るものが人を汚すと主イエスも警告した(マタイ15章11、18節)。舌の制御が如何に困難であるかを諭す。
  3節「馬を御するには、口にくつわをはめれば、その体全体を意のままに動かすことができます」 馬の轡(くつわ)で乗り手は全体を制御するのである。これと同様に船の舵を例に挙げ、舵取りは小さな舵で船を意のままに操ることができる。心が「強風に吹きまくられる」ことは1章6~7節にある(4節)。同様に舌は小さな器官だが、節操を失わないなら大言壮語することは無いであろう。
  6節「舌は火です。舌は『不義の世界』です。わたしたちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます」。舌は体の一部であるにも関わらず、制御できないばかりか、人生を破滅に堕ち至らせるという(7節)。
  8節「しかし、舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています」。これは人の罪深さを示すものである。教会で神を賛美する同じ人が、キリストの結ばれた兄弟を呪うということはあってはならないし、あるはずがない(9~10節)。それは一つの泉から甘い水と苦い水が出てこないと同じである(11節)。無花果の木にオリーブの実を結ぶことが無いのと同じである(12節)。これもマタイ福音書7章17~20節にある。主イエスはこれを「羊の皮を身にまとう狼」だと言っている(同15節)。
  13節「あなたがたの中で、知恵があり分別があるのはだれか。その人は、知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい」。小見出し『上からの智恵』。口先だけ(舌)の言葉を否定し、ここで真実の知恵があるか否かを問う。この知恵は「柔和な行いで立派な生き方」を起こさせるものである。内心が問われないなら11~12節と同じである(14節)。
  15節「そのような知恵は、上から出たものではなく、地上のもの、この世のもの、悪魔から出たものです」。「ねたみ」と「利己心」で混乱と悪い行いとなる(16節)。
  17節「上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません」。
「上から出た知恵」とは神から賜わる知恵である。旧約の箴言にある「神を畏れる知恵」(ホクマー)と同じである。
  18節「義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです」。平和の内に蒔かれた種は結果として「良い実」、つまり良い行為が生れるのである。

間違った動機で願い求めるからです

2016-03-21 | Weblog
  ヤコブの手紙4章 

  6節「『願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。謙遜な者には恵みをお与えになる」(新共同訳)

  1節「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか」。小見出し『神に服従しなさい』。「戦いや争い」は平和の反対である。人体に暴れる欲望があり(1章14節)、教会の中に抗争を生んでいるという。欲望と争いに明け暮れるのは殺人行為である(2節)。だから求めても得られる筈がない。何故なら自分中心の間違った動機で求めているからだ(3節)。口語訳「悪い求め方をする」、NTD訳「邪(よこしま)な求め方をする」。
  4節「神に背いた者たち、世の友となることが、神の敵となることだとは知らないのか。世の友になりたいと願う人はだれでも、神の敵になるのです」。「神に背いた者たち」(モイカリドス)は姦夫の女性形、NKJVでは「Adulterers and adulteresses!」(姦淫を犯す男女よ!)。神と民の関係を夫婦関係とみなすのである(ホセア3章1節)。世に恋々としているのは、神に対する不貞なのである。それは神に敵対することになる。5節の「神は、高慢な者を敵とし、/謙遜な者には恵みをお与えになる。」は当時のユダヤの教訓詩からの引用とされている。6節は箴言3章34節の引用である。神は、謙遜な者を受け入れ。高慢な者を敵とする。
  7節「だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます」。悪魔を拒絶し抵抗し(第一ペトロの手紙5章8節)、神の支配のもとに近づき服するなら神はご支配して下さると勧める。「心の定まらない者たち」は口語訳「二心の者ら」である(8節)。神に近づくという主体的な努力が必要なのである。
  9節「悲しみ、嘆き、泣きなさい。笑いを悲しみに変え、喜びを愁いに変えなさい」。悔改めは、嘆き悲しみ号泣する情動をもって表明されるのである(エレミ書4章8節、ヨエル書1章13~14節)。神に心砕かれる者こそ、神に高く引き上げられる(10節)
  11節「兄弟たち、悪口を言い合ってはなりません。兄弟の悪口を言ったり、自分の兄弟を裁いたりする者は、律法の悪口を言い、律法を裁くことになります。もし律法を裁くなら、律法の実践者ではなくて、裁き手です」。小見出し『兄弟を裁くな』。悪口は相手を裁く行為となる(マタイ7章1~2節)。これは3章で「舌は不義の世界」(6節)と指摘されている通りである。「悪口」は、自分が善悪の判断を下す律法において、相手を悪として裁くことになる。律法を定め、裁きを行う方は唯ひとり神だけであり、隣人を裁くあなたは一体何者か(12節)。これはまことに手厳しい指摘である。
  13節「よく聞きなさい。「今日か明日、これこれの町へ行って一年間滞在し、商売をして金もうけをしよう」と言う人たち」。小見出し『誇り高ぶるな』。13~16節 再び2章の「富める者」の主題に戻って教会に隣人愛を勧めた。この事例は地中海を舞台とした活発な貿易商人である。自分の命がどうなるか、明日のことは分からない。命のはかなさを忘れて富に執着する愚かさを指摘する(ルカ福音書12章22~32節)。人の生涯は消えゆく霧に等しい(14節)。
  15節「むしろ、あなたがたは、『主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう』と言うべきです」。「主の御であれば~」は格言で、「ヤコブの条件」(condition of Jacob)と言われるが、ヤコブが初めて打ち出したものではない。すべてのキリスト者には、自分の意志と神の御心との優先順位が求められる。人がなすべき善を知りながら、それを行わないのは、その人にとって罪である(17節)。