ヤコブの手紙3章
2節「わたしたちは皆、度々過ちを犯すからです。言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です」(新共同訳)
1節「わたしの兄弟たち、あなたがたのうち多くの人が教師になってはなりません。わたしたち教師がほかの人たちより厳しい裁きを受けることになると、あなたがたは知っています」。小見出し『舌を制御する』。これまでは行いを伴わない信仰について論じたが、ここから「わたしたち教師」とあるように、教会内の問題について述べる。裁きは神の家から始まるのである(第一ペトロの手紙4章17節)。
2節「わたしたちは皆、度々過ちを犯すからです。言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です」。口から出るものが人を汚すと主イエスも警告した(マタイ15章11、18節)。舌の制御が如何に困難であるかを諭す。
3節「馬を御するには、口にくつわをはめれば、その体全体を意のままに動かすことができます」 馬の轡(くつわ)で乗り手は全体を制御するのである。これと同様に船の舵を例に挙げ、舵取りは小さな舵で船を意のままに操ることができる。心が「強風に吹きまくられる」ことは1章6~7節にある(4節)。同様に舌は小さな器官だが、節操を失わないなら大言壮語することは無いであろう。
6節「舌は火です。舌は『不義の世界』です。わたしたちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます」。舌は体の一部であるにも関わらず、制御できないばかりか、人生を破滅に堕ち至らせるという(7節)。
8節「しかし、舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています」。これは人の罪深さを示すものである。教会で神を賛美する同じ人が、キリストの結ばれた兄弟を呪うということはあってはならないし、あるはずがない(9~10節)。それは一つの泉から甘い水と苦い水が出てこないと同じである(11節)。無花果の木にオリーブの実を結ぶことが無いのと同じである(12節)。これもマタイ福音書7章17~20節にある。主イエスはこれを「羊の皮を身にまとう狼」だと言っている(同15節)。
13節「あなたがたの中で、知恵があり分別があるのはだれか。その人は、知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい」。小見出し『上からの智恵』。口先だけ(舌)の言葉を否定し、ここで真実の知恵があるか否かを問う。この知恵は「柔和な行いで立派な生き方」を起こさせるものである。内心が問われないなら11~12節と同じである(14節)。
15節「そのような知恵は、上から出たものではなく、地上のもの、この世のもの、悪魔から出たものです」。「ねたみ」と「利己心」で混乱と悪い行いとなる(16節)。
17節「上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません」。
「上から出た知恵」とは神から賜わる知恵である。旧約の箴言にある「神を畏れる知恵」(ホクマー)と同じである。
18節「義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです」。平和の内に蒔かれた種は結果として「良い実」、つまり良い行為が生れるのである。
2節「わたしたちは皆、度々過ちを犯すからです。言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です」(新共同訳)
1節「わたしの兄弟たち、あなたがたのうち多くの人が教師になってはなりません。わたしたち教師がほかの人たちより厳しい裁きを受けることになると、あなたがたは知っています」。小見出し『舌を制御する』。これまでは行いを伴わない信仰について論じたが、ここから「わたしたち教師」とあるように、教会内の問題について述べる。裁きは神の家から始まるのである(第一ペトロの手紙4章17節)。
2節「わたしたちは皆、度々過ちを犯すからです。言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です」。口から出るものが人を汚すと主イエスも警告した(マタイ15章11、18節)。舌の制御が如何に困難であるかを諭す。
3節「馬を御するには、口にくつわをはめれば、その体全体を意のままに動かすことができます」 馬の轡(くつわ)で乗り手は全体を制御するのである。これと同様に船の舵を例に挙げ、舵取りは小さな舵で船を意のままに操ることができる。心が「強風に吹きまくられる」ことは1章6~7節にある(4節)。同様に舌は小さな器官だが、節操を失わないなら大言壮語することは無いであろう。
6節「舌は火です。舌は『不義の世界』です。わたしたちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます」。舌は体の一部であるにも関わらず、制御できないばかりか、人生を破滅に堕ち至らせるという(7節)。
8節「しかし、舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています」。これは人の罪深さを示すものである。教会で神を賛美する同じ人が、キリストの結ばれた兄弟を呪うということはあってはならないし、あるはずがない(9~10節)。それは一つの泉から甘い水と苦い水が出てこないと同じである(11節)。無花果の木にオリーブの実を結ぶことが無いのと同じである(12節)。これもマタイ福音書7章17~20節にある。主イエスはこれを「羊の皮を身にまとう狼」だと言っている(同15節)。
13節「あなたがたの中で、知恵があり分別があるのはだれか。その人は、知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい」。小見出し『上からの智恵』。口先だけ(舌)の言葉を否定し、ここで真実の知恵があるか否かを問う。この知恵は「柔和な行いで立派な生き方」を起こさせるものである。内心が問われないなら11~12節と同じである(14節)。
15節「そのような知恵は、上から出たものではなく、地上のもの、この世のもの、悪魔から出たものです」。「ねたみ」と「利己心」で混乱と悪い行いとなる(16節)。
17節「上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません」。
「上から出た知恵」とは神から賜わる知恵である。旧約の箴言にある「神を畏れる知恵」(ホクマー)と同じである。
18節「義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです」。平和の内に蒔かれた種は結果として「良い実」、つまり良い行為が生れるのである。