日毎の糧

聖書全巻を朝ごとに1章づつ通読し、学び、黙想しそこから与えられた霊想録である。

行いが伴わないなら、信仰は死んだものです

2016-03-19 | Weblog
  ヤコブの手紙2章 

  17節「信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」(新共同訳)

  1節「わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません」。小見出し『人を分け隔てしてはならない』。ここでも1章16、19節と同じ呼び掛けで、富める者と貧しい者との差別をしないようにと語る。集会に出席する者で、貧しい服装の人と立派な身なりの人とを見て、特別に扱うのは間違いであると注意する(2~4節)。「金の指輪」は議員階級の人々かローマの貴族を指している。貧しい人とは異なる。これは「誤った考えに基づいて判断を下した」ことになる(4節)。
  5節「わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか」。初期の教会は貧しい人々が富みを共有した(使徒言行録4章32~35節)。主イエスは貧しい者の幸いを語られた(ルカ6章20節)。貧しい人々は天に富を積むのである(マタイ6章20節)。貧しい者を辱めるのは神の名を冒涜したことになる(7節)。
  8節「もしあなたがたが、聖書に従って、『隣人を自分のように愛しなさい』という最も尊い律法を実行しているなら、それは結構なことです」。レビ記19章18節の引用。これを守ることは、律法全体を守ったことになる(9~12節)。王の律法(royal law)と呼ばれる。人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されるが、憐れみをかける者は、終わりの裁きの時に神は憐れみをかけてくださるという。憐れみは裁きに打ち勝つからである(13節)。
  14節「わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことが出来るでしょうか」小見出し『行いを欠く信仰は死んだもの』。1~4節の事例が前提となっていると思われる。その日の食べ物も事欠く者がいる時(15節)、口先だけで祝福を祈り、安心して行きなさいと言うだけである(16節)。
  17節「信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」。これは「信仰によってのみ神に義とされる」(ローマ3章22節)と説く「信仰義認」に対する挑戦といえる。ルターはヤコブの手紙を「藁の書翰」として批判した(後に撤回する)。行いを伴わない信仰はありえないからだ(18節)。
  19節「あなたは『神は唯一だ』と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています」。『神は唯一だ』とはローマ信徒の手紙3章30節の引用とされている。著者ヤコブは、この手紙を知っていたのだろうか。行いの伴わない信仰とは何と愚かなことか(20節)。21~23節は、創世記22章1~19節のことである。同じ出来事をヘブライ人への手紙11章17~19節で信仰の行為として取り上げている。ローマの信徒への手紙にも信仰の証明として(ローマの手紙4章18~21節)。
  22節「アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう」。問われている「行いを伴う信仰」は、アブラハムの信仰においてヤコブの手紙とローマの信徒への手紙を結び合わせている。
  23節「『アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた』という聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれたのです」。この創世記15章6節を、ローマの手紙4章23節でも引用している。「信仰のみ」と抽象的に説いて、行いを生み出さない信仰(霊肉二元論=ギリシャ思想)が批判されている(24節)。娼婦ラハブの物語はイスラエルの救済に結びついた事例となっている(25~26節)。