ヘブライ人への手紙4章
16節「だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」(新共同訳)
1節「だから、神の安息にあずかる約束がまだ続いているのに、取り残されてしまったと思われる者があなたがたのうちから出ないように、気をつけましょう」。3章後半で神の民が不信仰で安息にあずかることが出来なかったことを知ったが、神の約束はまだ成就していないので、安息に入りそこねないよう注意しようと勧める。
2節「というのは、わたしたちにも彼ら同様に福音が告げ知らされているからです。けれども、彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした。その言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結び付かなかったためです」。「福音が告げ知らされている」とは神の安息に入ることを指す。彼らはこれを聞いても信じて受け入れなかった為に安息に与ることができなかった。しかし信じたわたし達は、この安息に与ることができる(3節)。詩95篇11節を再度引用し、民のカナン侵入による定着という理解を否定する。そして神が既に安息を用意していたことを告げる。それが「もっとも、神の業は天地創造の時以来、既に出来上がっていた」ということである(3節)。それは創世記2章2節の「神の安息」で、地上のすべての人に約束したものである。
5節「そして、この個所でも改めて、『彼らを決してわたしの安息にあずからせはしない』と言われています」。創世記2章と詩95篇11節との結び付きを強調し、安息の意味の二面性を表わす。詩篇は神がイスラエルの民に、創世記は神が全ての人に示した約束である。6節は2節を繰り返し、安息に与りえなかったのは不従順のためであると告げる。詩95篇7節の「今日(きょう)」は、荒れ野から約四百四十年後のダビデを通して語られた「今日」である(7節)。ヨシュアが民に安息を与えたのであれば、このようには言わない(8節)。そこで「安息日の休み」が神の民に残されている(9節)。「安息日の休み」(サッバティスモス)は安息日の複合語、安息日の平安という内容を盛り込んでいる。
11節「だから、わたしたちはこの安息にあずかるように努力しようではありませんか。さもないと、同じ不従順の例に倣って堕落する者が出るかもしれません」。これまで示された通り、神の言葉は生命と力に満ちており、両刃の剣より鋭くて精神と霊、関節と骨髄を切り離すまで刺し通し、心の思いと考えを判別することが出来るからである(12節)。人を解体する鋭利な刃物である。このことは旧約の預言者も語っている(イザヤ49章2節、エレミヤ23章29節)。従って神の御前では隠れたところはなく、全てさらけ出されていて、何一つ隠し事はできない(13節)。喉仏に刃物をさし向けて、徹底した告白を迫る如くである。14節からは「偉大な大祭司キリスト」について5章10節まで述べられる。
14節「さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか」。小見出し『偉大なる大祭司イエス』。2章17節、3章1節で既にイエスが憐れみ深い大祭司であることを伝えている。ここでは神の子イエスは、旧約レビ系の大祭司とはっきり区別される。聖所を通り至聖所に入る如く、イエスは諸々の天を通過された神の子(神性を有する)なる大祭司であるから信仰告白に固着しようと勧める。この大祭司は、「わたしたちの弱さに同情できる」方で、罪は犯さなかったがあらゆる点で同じ試練に遭われたので(15節)、憐れみを受け、恵みに与り、時宜を得た助けをいただくため、確信をもって御座に近づこうではないか(16節)。「同情する」(スンパセース)は共感すること。「大胆に」(カタノーエオ)はよく見る、よく考える、「恵みの座」に躊躇わず近づくことである。
16節「だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」(新共同訳)
1節「だから、神の安息にあずかる約束がまだ続いているのに、取り残されてしまったと思われる者があなたがたのうちから出ないように、気をつけましょう」。3章後半で神の民が不信仰で安息にあずかることが出来なかったことを知ったが、神の約束はまだ成就していないので、安息に入りそこねないよう注意しようと勧める。
2節「というのは、わたしたちにも彼ら同様に福音が告げ知らされているからです。けれども、彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした。その言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結び付かなかったためです」。「福音が告げ知らされている」とは神の安息に入ることを指す。彼らはこれを聞いても信じて受け入れなかった為に安息に与ることができなかった。しかし信じたわたし達は、この安息に与ることができる(3節)。詩95篇11節を再度引用し、民のカナン侵入による定着という理解を否定する。そして神が既に安息を用意していたことを告げる。それが「もっとも、神の業は天地創造の時以来、既に出来上がっていた」ということである(3節)。それは創世記2章2節の「神の安息」で、地上のすべての人に約束したものである。
5節「そして、この個所でも改めて、『彼らを決してわたしの安息にあずからせはしない』と言われています」。創世記2章と詩95篇11節との結び付きを強調し、安息の意味の二面性を表わす。詩篇は神がイスラエルの民に、創世記は神が全ての人に示した約束である。6節は2節を繰り返し、安息に与りえなかったのは不従順のためであると告げる。詩95篇7節の「今日(きょう)」は、荒れ野から約四百四十年後のダビデを通して語られた「今日」である(7節)。ヨシュアが民に安息を与えたのであれば、このようには言わない(8節)。そこで「安息日の休み」が神の民に残されている(9節)。「安息日の休み」(サッバティスモス)は安息日の複合語、安息日の平安という内容を盛り込んでいる。
11節「だから、わたしたちはこの安息にあずかるように努力しようではありませんか。さもないと、同じ不従順の例に倣って堕落する者が出るかもしれません」。これまで示された通り、神の言葉は生命と力に満ちており、両刃の剣より鋭くて精神と霊、関節と骨髄を切り離すまで刺し通し、心の思いと考えを判別することが出来るからである(12節)。人を解体する鋭利な刃物である。このことは旧約の預言者も語っている(イザヤ49章2節、エレミヤ23章29節)。従って神の御前では隠れたところはなく、全てさらけ出されていて、何一つ隠し事はできない(13節)。喉仏に刃物をさし向けて、徹底した告白を迫る如くである。14節からは「偉大な大祭司キリスト」について5章10節まで述べられる。
14節「さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか」。小見出し『偉大なる大祭司イエス』。2章17節、3章1節で既にイエスが憐れみ深い大祭司であることを伝えている。ここでは神の子イエスは、旧約レビ系の大祭司とはっきり区別される。聖所を通り至聖所に入る如く、イエスは諸々の天を通過された神の子(神性を有する)なる大祭司であるから信仰告白に固着しようと勧める。この大祭司は、「わたしたちの弱さに同情できる」方で、罪は犯さなかったがあらゆる点で同じ試練に遭われたので(15節)、憐れみを受け、恵みに与り、時宜を得た助けをいただくため、確信をもって御座に近づこうではないか(16節)。「同情する」(スンパセース)は共感すること。「大胆に」(カタノーエオ)はよく見る、よく考える、「恵みの座」に躊躇わず近づくことである。