ヘブライ人への手紙13章
8節「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」(新共同訳)
1節「兄弟としていつも愛し合いなさい」小見出し『神に喜ばれる奉仕』。神の御國を継ぐ者として、地上の生活を確かなものとするという実践が勧められる。先ず愛の実践であるが、旅人をもてなすこと(2節)、投獄されている者と虐待されている者の慰問(3節)。この旅人も虐待されている人々も概ね巡回伝道者を指している。
4節「結婚はすべての人に尊ばれるべきであり、夫婦の関係は汚してはなりません。神は淫らな者や姦淫する者を裁かれるのです」。健全な結婚生活である。また金銭に執着しないで神から与えられるもので満足する(5節)。「わたしは決してあなたを離れず~」は申命記3章6節の引用。
6節「主はわたしの助け手。わたしは恐れない。人はわたしに何ができるだろう」118篇6節の引用である。
7節「あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい」。罪と戦って血を流すまで抵抗した指導者(12章4節)である。殉教者が想定される(12節see)。イエス・キリストは変ることのないアルケーゴス(先導者)である(8節)。「異なる教え」に惑わされないこと(9節)。
10節「わたしたちには一つの祭壇があります。幕屋に仕えている人たちは、それから食べ物を取って食べる権利がありません」。既に9~10章で示された大祭司イエスの御業を思い起こさせる。「一つの祭壇」とは、唯一一回限りの犠牲を献げる(キリストの)祭壇である。「宿営の外で苦難に遭われ」(12節)「辱めを担われた」(13節)とは、十字架による罪の贖いをなされたイエス・キリストを指し、その御許(みもと)に赴こうではないかと勧めている。天の御國を仰いで賛美のいけにえ、唇の実をたえず献げるのである(14~15節)。17節「指導者たちの言うことを聞き入れ、服従しなさい…」とは、既に地上の働きを終えた指導者(7節)でなく、今立てられている指導者である。その執り成しと導きに信頼して従うのである。
18節「わたしたちのために祈ってください。わたしたちは、明らかな良心を持っていると確信しており、すべてのことにおいて、立派にふるまいたいと思っています」。わたしたちは明らかな良心をもっていると確信しているので、見倣うことができると思うという。7節と同じ勧めである。
20節「永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスが死者の中から引き上げられた平和の神が」。小見出し『結びの言葉』。永遠の大祭司イエスが罪の贖いを完成し、更に羊の大牧者として天の栄光へと導き牧して下さるという喜ばしい名が崇められるようにという祝福の祈りで(復活の主と平和の神が讃える21節)。
22節「兄弟たち、どうか、以上のような勧めの言葉を受け入れてください、実際、わたしは手短に書いたのですから」。まだ言い足りない処があったと思われる。テモテへの言及があるが、何処に投獄されていたのか不明である(23節、3節参照)。
24節「あなたがたのすべての指導者たち、またすべての聖なる者たちに宜しく」。1章のはじめには挨拶の言葉はなく、場所と時と宛てた人々については推定の域を出ない。確かなことはユダヤ人キリスト者を念頭に書かれたことと優れた指導者たちとの交流(7、17節)があったことが知られる。
8節「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」(新共同訳)
1節「兄弟としていつも愛し合いなさい」小見出し『神に喜ばれる奉仕』。神の御國を継ぐ者として、地上の生活を確かなものとするという実践が勧められる。先ず愛の実践であるが、旅人をもてなすこと(2節)、投獄されている者と虐待されている者の慰問(3節)。この旅人も虐待されている人々も概ね巡回伝道者を指している。
4節「結婚はすべての人に尊ばれるべきであり、夫婦の関係は汚してはなりません。神は淫らな者や姦淫する者を裁かれるのです」。健全な結婚生活である。また金銭に執着しないで神から与えられるもので満足する(5節)。「わたしは決してあなたを離れず~」は申命記3章6節の引用。
6節「主はわたしの助け手。わたしは恐れない。人はわたしに何ができるだろう」118篇6節の引用である。
7節「あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい」。罪と戦って血を流すまで抵抗した指導者(12章4節)である。殉教者が想定される(12節see)。イエス・キリストは変ることのないアルケーゴス(先導者)である(8節)。「異なる教え」に惑わされないこと(9節)。
10節「わたしたちには一つの祭壇があります。幕屋に仕えている人たちは、それから食べ物を取って食べる権利がありません」。既に9~10章で示された大祭司イエスの御業を思い起こさせる。「一つの祭壇」とは、唯一一回限りの犠牲を献げる(キリストの)祭壇である。「宿営の外で苦難に遭われ」(12節)「辱めを担われた」(13節)とは、十字架による罪の贖いをなされたイエス・キリストを指し、その御許(みもと)に赴こうではないかと勧めている。天の御國を仰いで賛美のいけにえ、唇の実をたえず献げるのである(14~15節)。17節「指導者たちの言うことを聞き入れ、服従しなさい…」とは、既に地上の働きを終えた指導者(7節)でなく、今立てられている指導者である。その執り成しと導きに信頼して従うのである。
18節「わたしたちのために祈ってください。わたしたちは、明らかな良心を持っていると確信しており、すべてのことにおいて、立派にふるまいたいと思っています」。わたしたちは明らかな良心をもっていると確信しているので、見倣うことができると思うという。7節と同じ勧めである。
20節「永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスが死者の中から引き上げられた平和の神が」。小見出し『結びの言葉』。永遠の大祭司イエスが罪の贖いを完成し、更に羊の大牧者として天の栄光へと導き牧して下さるという喜ばしい名が崇められるようにという祝福の祈りで(復活の主と平和の神が讃える21節)。
22節「兄弟たち、どうか、以上のような勧めの言葉を受け入れてください、実際、わたしは手短に書いたのですから」。まだ言い足りない処があったと思われる。テモテへの言及があるが、何処に投獄されていたのか不明である(23節、3節参照)。
24節「あなたがたのすべての指導者たち、またすべての聖なる者たちに宜しく」。1章のはじめには挨拶の言葉はなく、場所と時と宛てた人々については推定の域を出ない。確かなことはユダヤ人キリスト者を念頭に書かれたことと優れた指導者たちとの交流(7、17節)があったことが知られる。