日毎の糧

聖書全巻を朝ごとに1章づつ通読し、学び、黙想しそこから与えられた霊想録である。

ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられた

2016-03-12 | Weblog
  ヘブライ人への手紙9章 

  11節「雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです」(新共同訳)
 
  1節「さて、最初の契約にも、礼拝の規定と地上の聖所とがありました」。小見出し『地上の聖所と天の聖所』。8章では旧新の契約についてであるが、9章から地上と天上の幕屋を展開する。第一の幕屋は聖所で燭台、机、供え物のパンが置かれ、第二の幕屋は至聖所で、そこにある祭具とその間の垂れ幕について述べる(2~3節)。
  4節「もし、地上におられるのだとすれば、律法に従って供え物を献げる祭司たちが現にいる以上、この方は決して祭司ではありえなかったでしょう」。また箱の上ではケルビムが償いの座を覆っていた(5節)。
  6節「以上のものがこのように設けられると、祭司たちは礼拝を行うために、いつも第一の幕屋に入ります」。地上の幕屋での祭司の勤めがあり、続いて大祭司の勤めについて述べる(7節)。大祭司が年に一度だけ至聖所にはいるのは「贖罪日」の時である(レビ記16章、23章)。幕屋の存在は、供え物を献げても礼拝する者の良心を完全に出来ないことを示す(8~9節)
  10節「これらは、ただ食べ物や飲み物や種々の洗い清めに関するもので、改革の時まで課せられている肉の規定にすぎません」。新しい祭儀がなされることを「改革の時」としている。NTD「正しい秩序が導入される時」。つまりイエス・キリストの到来の時である。この方は「恵みの大祭司」で完全な幕屋を通って来られる(11節)。
  12節「雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです」。祭壇の流される血は罪を清める力を持つが、ご自身を瑕のない供え物として永遠なる神に献げられたイエス・キリストの血は罪に死んだわたし達の良心を清め、神を礼拝することが出来る(13~14節)。「新しい契約の仲介者」となられたキリストは、召された者たちが、約束された永遠の財産を受け継ぐ者として下さったのである(15節)。それは罪赦された者の変らない栄誉である。16~22節では「遺言の効力」について述べる。これは8章7~8節で「契約」(原語は「遺言」と同じ)として明らかにされていた事である。遺言は遺言者が死んではじめて効力を持つ。遺言つまり契約は、罪を清める血を流すことで成立したのである(18節)。彼らは契約に従い出エジプト24章6~8節に記されている通り、若い雄牛の血を祭壇と民に振りかけて罪の赦しの儀式を行った(19~21節)。「こうしてすべてのものが律法に従って血で清められた。血を流すことなしには罪の赦しはない(22節)。
  23節「このように、天にあるものの写しは、これらのものによって清められねばならないのですが、天にあるもの自体は、これらよりもまさったいけにえによって、清められねばなりません」。小見出し『罪を贖う唯一のいけにえ』。従って大祭司は度々ご自分のものでない血を携えて聖所にはらねばならない(25節)。もしそうだとすれば天地創造の時から度々苦しまねばならない。然し実際は、世の終わりにただ一度、(罪なき・4章15節)御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために(イエス・キリストが)現われてくださいました(26節)。キリストの罪の贖いの業は、「唯一」で「一回限り」(once for all!) である。再度地上に現われるのは、終末の時、救いの完成の日である(28節)