ヘブライ人への手紙6章
11節「わたしたちは、あなたがたおのおのが最後まで希望を持ち続けるために、同じ熱心さを示してもらいたいと思います」(新共同訳)
1~2節「だからわたしたちは、死んだ行いの悔い改め、神への信仰、種々の洗礼についての教え、手を置く儀式、死者の復活、永遠の審判などの基本的な教えを学び直すようなことはせず、キリストの教えの初歩を離れて、成熟を目指して進みましょう」。5章終りの未成人の状態にある読者に対する言葉である。この六項目はキリストの教えの初歩であるが、未成熟状態にいつまでも留まらないようにしようと呼び掛ける。初歩とは、ユダヤ教の指導者ラビから学んだ共通の教えだからである。「成熟を目指して進みましょう」は意訳。これは3節の神からの呼び掛けに対して応えること。TEVでは Let us go forward!となっている。4~5節 知識と実際とが離れては厳しい時代状況にはついて行けない。棄教、背教が起きることを警告する。
6節「その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません。神の子を自分の手で改めて十字架につけ、侮辱する者だからです」。生ける神から離れることとなる(3章12節see)。これは議論を呼ぶところだが、人の側には悔改めが不可能でも神は可能であることをイエスは告げている(マタイ18章21~22節)。然し「天からの賜物を味わい、聖霊にあずかった者」(4節)は、それは故意に聖意に逆らう罪であり、悔い改めて立ち帰る余地はない(第一ヨハネ5章16節)。7~8節は畑の作物を育てても、その管理を怠るなら茨が生えてくる譬である。
9節「しかし、愛する人たちこんな風に話していても、わたしたちはあなたがたについて、もっと良いこと、救いにかかわることがあると確信しています」。性急な判断はしない。あなた方に少しでも救いに関わることがあるならそれを評価する。あなたがたの働きや、聖なる者たちに以前も今も仕えることにより、神の名のために示したあの愛をお忘れになるようなことはないからである(10節)。聖徒に仕えるという愛の交わりである。
11節「わたしたちは、あなたがたおのおのが最後まで希望を持ち続けるために、同じ熱心さを示してもらいたいと思います」。これを最後まで続けて欲しい。このために「信仰と忍耐とによって、約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣う者となってほしい」という(12節)。
13節「神は、アブラハムに約束をする際に、御自身より偉大な者にかけて誓えなかったので、御自身にかけて誓い」。小見出し『神の確かな約束』。第一の場面はアブラハムがハラン出立の時にあった神の約束とイサク誕生である(14~15節)。それには25年という忍耐した歳月だった(創世記12~18、21章)。第二の場面は16~17節「イサク奉献の物語」である(創世記22章16~17節)。
18節「それは、目指す希望を持ち続けようとして世を逃れて来たわたしたちが、二つの不変の事柄によって力強く励まされるためです。この事柄に関して、神が偽ることはありえません」。二つの不変の事柄とは、神がアブラハムに示した約束と誓いである。
19節「わたしたちが持っているこの希望は、魂にとって頼りになる、安定した錨のようなものであり、また、至聖所の垂れ幕の内側に入って行くものなのです」。錨は船舶の安全装置、潮に押し流されて座礁しない為のもの、同様に神の望みは魂の安全にし、欠くことが出来ない。この不動の望みに関して言えば、至聖所の垂れ幕の内側に入って行く大祭司への信頼となる。
20節「イエスは、わたしたちのために先駆者としてそこへ入って行き、永遠にメルキゼデクと同じような大祭司となられたのです」。これは7章に続く。
11節「わたしたちは、あなたがたおのおのが最後まで希望を持ち続けるために、同じ熱心さを示してもらいたいと思います」(新共同訳)
1~2節「だからわたしたちは、死んだ行いの悔い改め、神への信仰、種々の洗礼についての教え、手を置く儀式、死者の復活、永遠の審判などの基本的な教えを学び直すようなことはせず、キリストの教えの初歩を離れて、成熟を目指して進みましょう」。5章終りの未成人の状態にある読者に対する言葉である。この六項目はキリストの教えの初歩であるが、未成熟状態にいつまでも留まらないようにしようと呼び掛ける。初歩とは、ユダヤ教の指導者ラビから学んだ共通の教えだからである。「成熟を目指して進みましょう」は意訳。これは3節の神からの呼び掛けに対して応えること。TEVでは Let us go forward!となっている。4~5節 知識と実際とが離れては厳しい時代状況にはついて行けない。棄教、背教が起きることを警告する。
6節「その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません。神の子を自分の手で改めて十字架につけ、侮辱する者だからです」。生ける神から離れることとなる(3章12節see)。これは議論を呼ぶところだが、人の側には悔改めが不可能でも神は可能であることをイエスは告げている(マタイ18章21~22節)。然し「天からの賜物を味わい、聖霊にあずかった者」(4節)は、それは故意に聖意に逆らう罪であり、悔い改めて立ち帰る余地はない(第一ヨハネ5章16節)。7~8節は畑の作物を育てても、その管理を怠るなら茨が生えてくる譬である。
9節「しかし、愛する人たちこんな風に話していても、わたしたちはあなたがたについて、もっと良いこと、救いにかかわることがあると確信しています」。性急な判断はしない。あなた方に少しでも救いに関わることがあるならそれを評価する。あなたがたの働きや、聖なる者たちに以前も今も仕えることにより、神の名のために示したあの愛をお忘れになるようなことはないからである(10節)。聖徒に仕えるという愛の交わりである。
11節「わたしたちは、あなたがたおのおのが最後まで希望を持ち続けるために、同じ熱心さを示してもらいたいと思います」。これを最後まで続けて欲しい。このために「信仰と忍耐とによって、約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣う者となってほしい」という(12節)。
13節「神は、アブラハムに約束をする際に、御自身より偉大な者にかけて誓えなかったので、御自身にかけて誓い」。小見出し『神の確かな約束』。第一の場面はアブラハムがハラン出立の時にあった神の約束とイサク誕生である(14~15節)。それには25年という忍耐した歳月だった(創世記12~18、21章)。第二の場面は16~17節「イサク奉献の物語」である(創世記22章16~17節)。
18節「それは、目指す希望を持ち続けようとして世を逃れて来たわたしたちが、二つの不変の事柄によって力強く励まされるためです。この事柄に関して、神が偽ることはありえません」。二つの不変の事柄とは、神がアブラハムに示した約束と誓いである。
19節「わたしたちが持っているこの希望は、魂にとって頼りになる、安定した錨のようなものであり、また、至聖所の垂れ幕の内側に入って行くものなのです」。錨は船舶の安全装置、潮に押し流されて座礁しない為のもの、同様に神の望みは魂の安全にし、欠くことが出来ない。この不動の望みに関して言えば、至聖所の垂れ幕の内側に入って行く大祭司への信頼となる。
20節「イエスは、わたしたちのために先駆者としてそこへ入って行き、永遠にメルキゼデクと同じような大祭司となられたのです」。これは7章に続く。