日毎の糧

聖書全巻を朝ごとに1章づつ通読し、学び、黙想しそこから与えられた霊想録である。

信頼しきって、真心から神に近づこう 

2016-03-13 | Weblog
  ヘブライ人への手紙10章 

  22節「心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか」(新共同訳)

  1節「いったい、律法には、やがて来る良いことの影があるばかりで、そのものの実体はありません。従って、律法は年ごとに絶えず献げられる同じいけにえによって、神に近づく人たちを完全な者にすることはできません」。人の手で造られた幕屋で、年毎に犠牲を献げて神に近づく人たちを完全な者にはできない。出来たなら、生贄を献げることは中止される筈だが、実際は繰り返されて、罪の記憶が甦るだけである(2~3節)。ここで詩40篇7~9節を引用し、キリストが来られた時「罪を贖ういけにえを好まない、むしろわたしのため、体を備えて下さった」(5~6節)という。「体を備えて下さった」は、ヘブル語原典では「わたしの耳を開いた」だが、これをギリシャ語訳では「どんな事にも従う」意味として、聖意を行うために「体を備えて下さった」とした(7節)。また詩40篇8~9節も「御旨を行うためにわたしは来ました」として、律法に従って献げることを廃止し(9節)、キリストが罪の贖いのために、ただ一度ご自身の体を献げられたことだと説いている(10節)
  11節「すべての祭司は、毎日礼拝を献げるために立ち、決して罪を除くことのできない同じいけにえを、繰り返して献げます」。しかしキリストは、罪のために唯一のいけにえを献げて、永遠に神の右の座に着いておられる」(12節)。そして敵どもが彼の足もとに服する時を待っているのである(13節)。キリストの唯一の献げ物により永遠に完全な者とされたことを、改めてここでエレミヤ31章33~34節を引用して確認する(15~16節)。「もはや彼らの罪と不法を思い出しはしない」との預言(17節)から、罪を贖う祭司らの供え物は不要なのだと説いた(18節)。
  19節「それで、兄弟たち、わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています」小見出し『奨励と勧告』。イエスの肉体なる垂れ幕から、わたしたちのために開いて下さった新しい生きた道に、はいって行くことがでる(20節)。更に神の家を支配する偉大な祭司がおられるのである。
  22節「心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか」。先ず信頼の確信に満たされることである。「信頼しきって」(プレーロフォリア)は「満ち満ちている、充満する」、NTD訳「信仰の全き確かさにおいて~」。分裂状態でなくひたむきな心である。そして告白するものをしっかり持ち続けること(23節)。NTD訳は「希望の信仰告白に固着しよう」となっている。互いに愛と善行に励まし合うことである(24~25節)。
  26節「もし、わたしたちが真理の知識を受けた後にも、故意に罪を犯し続けるとすれば、罪のためのいけにえは、もはや残っていません」。「故意の罪」とは、民数記15章27~31節に出ている。「過失罪」と区別し、神を冒涜する者として断罪される。ここでは「恵みの霊を侮辱する」こととなっている(27~29節)。神の裁きの論拠として申命記32章35節と詩135篇14節が引用される(30節)。神の復讐については、パウロも記している(ローマ12章19節)。32~36節は回顧と展望について。
  32節「あなたがたは、光に照らされた後、苦しい大きな戦いによく耐えた初めのころのことを、思い出してください」。これまでの教会内外の困難さに耐えてきたことを思い出させる。「苦しめられて見せ物にされた」こと(33節)、「捕えられた人たちと苦しみを共にした」「財産を奪われても耐えた」ことなどである(34~35節)。
  36節「神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです」様々な困難に耐えることができるのは、来たるべき方への信頼によると、ハバクク2章3節を引用して告げる(37~39節)。