日毎の糧

聖書全巻を朝ごとに1章づつ通読し、学び、黙想しそこから与えられた霊想録である。

神の子に似た者であって、永遠に祭司です

2016-03-09 | Weblog
  ヘブライ人への手紙7章 

  3節「彼には父もなく、母もなく、系図もなく、また、生涯の初めもなく、命の終わりもなく、神の子に似た者であって、永遠に祭司です」(新共同訳)

  1節「このメルキゼデクはサレムの王であり、いと高き神の祭司でしたが、王たちを滅ぼして戻って来たアブラハムを出迎え、そして祝福しました」。小見出し『メルキゼデクの祭司職』。本章はイエスがメルキゼデクに等しい大祭司であることを論証している。彼が聖書に登場するのは創世記14章17~20節である。まず彼の名前の意味を説く。「メルキ」はマルヒー(使者=王)、「ゼデク」はツェデカー(正義)で「義の王」である(2節)。同時に「サレム」はシャローム(平和)で「平和の王」である。
  3節「彼には父もなく、母もなく、系図もなく、また、生涯の初めもなく、命の終わりもなく、神の子に似た者であって、永遠に祭司です」。これが彼の系図である。つまり、義と平和の王であるが、同時に永遠の神の祭司であることを表わす。それは族長であるアブラハムが最上の勝利品の中から十分の一をこの方に献げたからである(4節・創世記14章2節)。ところで、同じアブラハムの子孫であるレビ族血統の者が兄弟である民から十分の一を取るように、律法で命じられている(5節)。それなのに、レビ族血統でない者がアブラハムから十分の一を受け取っている(6節)。
  7節「さて、下の者が上の者から祝福を受けるのは、当然なことです」。下の者とはレビ族血統も含むアブラハムの全ての子孫を指す。上の者はメルキゼデクである。次に死ぬはずのレビ族祭司が十分の一を受けるが、永遠なる方が受けるのは当然である(8節)。レビは「アブラハムの腰の中にいた」時だったので、アブラハムを通して十分の一を献げた事になる(9~10節)。律法による祭司制度は十分だった筈だが、アロンとは別な「メルキゼデクと同じ祭司」が立てられたことは、制度に変更があったことになる(11~12節)。「変更」(メタセイシス)とは「取り除く」(12章27節)と同じである。この方、つまりわたしたちの主は祭壇の奉仕に携わったことのないユダ族に属していたからである(13節)。
  14節「と言うのは、私たちの主がユダ族の出身であることは明らかですが、この部族についてモーセは、祭司に関することを何一つ述べていないからです」。この事はメルキゼデクと同じ別な祭司が立てられたことで明らかである(15節)。この方は肉の掟の(限界のある)律法によらない、命の力(死と復活)によって立てられた祭司であることを告げる(16節)。ここで重ねて「永遠にメルキゼデクと等しい祭司」という詩110篇4節を引用する(11、15節、5章6節、6章20節)。その明らかなことを20~27節で五つ項目を挙げて証明している。
 (1)レビ系統の祭司たちは誓いに寄らないで祭司になっているが、主は神の誓いによって祭司となられた。「主は誓い、思い返されることはない」(20~21節)。
 (2)主は永遠に生きているので、変ることのない祭司職を持っている。世襲性の廃止を意味する。「変らない」(アパラバトス)とは法律用語で、判決が下されたら決して変らないという強い意味を示す(22~24節)。
 (3)常に人々のため執り成しておられる方で、完全に救うことができる(25節)。「完全に」(パンテレス)は全く(パス)、終り(テロス)で「申し分なく」「決定的に」「いつも」ということ。執り成しの祈りはヨハネ福音書17章、ローマ8章33節にある。
 (4)主は聖であり、罪なく汚れなく、罪人から離され諸々の天より高くされた大祭司であるから、わたしたちに必要な方である(26節)。「汚れのない」(アミアントス)は、神に近づくのを妨げる汚れがないこと(ヤコブ1章27節)。
 (5)主は他の大祭司と違い、ただ一度罪のためにご自身を献げることによって永遠に完全な者として大祭司の業を成し遂げられた(27~28節)。