ヘブライ人への手紙8章
6節「しかし、今、わたしたちの大祭司は、それよりはるかに優れた務めを得ておられます。更にまさった約束に基づいて制定された、更にまさった契約の仲介者になられたからです。」(新共同訳)
1節「今述べていることの要点は、わたしたちにはこのような大祭司が与えられていて、天におられる大いなる方の玉座の右の座に着き」。小見出し『新しい優れた約束の大祭司』。これまで論述してきたメルキゼデクに等しい永遠の大祭司イエスが、御座の右に着いておられること、そして人間ではなく神が建てられた真の幕屋で仕えておられるということである(2節)。すべての大祭司は供え物といけにえとを献げる任命を受けているが、この方も何か献げ物を持っていなければならないであろう(3節)。しかしこの方が地上におられるとしたら、律法に従って供え物を献げる祭司たちは現にいるが、この方は決して同じ祭司ではない。何故なら、既にご自身を一回限りの罪の献げ物として献げられたからである(4節)。
5節「この祭司たちは、天にあるものの写しであり影であるものに仕えており、そのことは、モーセが幕屋を建てようとしたときに、お告げを受けたとおりです。神は、『見よ、山で示された型どおりに、すべてのものを作れ』と言われたのです」。地上の祭司職は天上にある影であり模型だという。その論拠として出エジプト25章40節のモーセの言葉を引用する。わたしたちの大祭司イエスの天上の幕屋における務めは地上の務めより遥かに優れたもので、更にまさった契約の仲介者になられたのである(6節)。「仲介者」(メシテース)は法律用語で裁判を受ける者の弁護人、また負債の保証人などの意味がある。NTD訳「保証人」、口語訳「中保者」。7章22節には「いっそう優れた契約の保証となられた」とある。
7節「もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう」。最初の契約とは旧い契約を指す。これが十全なものであったなら、第二の契約、新しい契約は不必要であるという。これをエレミヤの預言(31章31~34節)から証明する。この「契約」(ディアセーケー)は、遺言とも訳され対等でなく主導権は神にあり、人と人との間の契約(スンセーケー)とは違う。
8節「事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。『見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、新しい契約を結ぶ時が来る』と、主は言われる」。これはエレミヤ31章31節を引用したものである。9節はエレミヤ31章32節からで、エジプト脱出の時に結んだモーセの律法による契約に対して忠実でなかったと指摘する。10~11節もエレミヤ31章33節から引用する。それは石の板に刻まれる律法ではなく、心の肉皮に書き記される神の言葉である(第二コリント3章3、7節see)。これは、キリストによる、新しい創造の業である(第二コリント5章17節)。
12節「わたしは、彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしないからである」。神はイエスによって新しい契約を結ばれたのだから、全ての民の不義を赦し、罪を思い出さないと告げるのである。
13節「神は『新しいもの』と言われることによって最初の契約は滅びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます」。イエスは律法の終わりとなられたのである(ローマ10章4節口語訳see)
6節「しかし、今、わたしたちの大祭司は、それよりはるかに優れた務めを得ておられます。更にまさった約束に基づいて制定された、更にまさった契約の仲介者になられたからです。」(新共同訳)
1節「今述べていることの要点は、わたしたちにはこのような大祭司が与えられていて、天におられる大いなる方の玉座の右の座に着き」。小見出し『新しい優れた約束の大祭司』。これまで論述してきたメルキゼデクに等しい永遠の大祭司イエスが、御座の右に着いておられること、そして人間ではなく神が建てられた真の幕屋で仕えておられるということである(2節)。すべての大祭司は供え物といけにえとを献げる任命を受けているが、この方も何か献げ物を持っていなければならないであろう(3節)。しかしこの方が地上におられるとしたら、律法に従って供え物を献げる祭司たちは現にいるが、この方は決して同じ祭司ではない。何故なら、既にご自身を一回限りの罪の献げ物として献げられたからである(4節)。
5節「この祭司たちは、天にあるものの写しであり影であるものに仕えており、そのことは、モーセが幕屋を建てようとしたときに、お告げを受けたとおりです。神は、『見よ、山で示された型どおりに、すべてのものを作れ』と言われたのです」。地上の祭司職は天上にある影であり模型だという。その論拠として出エジプト25章40節のモーセの言葉を引用する。わたしたちの大祭司イエスの天上の幕屋における務めは地上の務めより遥かに優れたもので、更にまさった契約の仲介者になられたのである(6節)。「仲介者」(メシテース)は法律用語で裁判を受ける者の弁護人、また負債の保証人などの意味がある。NTD訳「保証人」、口語訳「中保者」。7章22節には「いっそう優れた契約の保証となられた」とある。
7節「もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう」。最初の契約とは旧い契約を指す。これが十全なものであったなら、第二の契約、新しい契約は不必要であるという。これをエレミヤの預言(31章31~34節)から証明する。この「契約」(ディアセーケー)は、遺言とも訳され対等でなく主導権は神にあり、人と人との間の契約(スンセーケー)とは違う。
8節「事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。『見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、新しい契約を結ぶ時が来る』と、主は言われる」。これはエレミヤ31章31節を引用したものである。9節はエレミヤ31章32節からで、エジプト脱出の時に結んだモーセの律法による契約に対して忠実でなかったと指摘する。10~11節もエレミヤ31章33節から引用する。それは石の板に刻まれる律法ではなく、心の肉皮に書き記される神の言葉である(第二コリント3章3、7節see)。これは、キリストによる、新しい創造の業である(第二コリント5章17節)。
12節「わたしは、彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしないからである」。神はイエスによって新しい契約を結ばれたのだから、全ての民の不義を赦し、罪を思い出さないと告げるのである。
13節「神は『新しいもの』と言われることによって最初の契約は滅びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます」。イエスは律法の終わりとなられたのである(ローマ10章4節口語訳see)