日毎の糧

聖書全巻を朝ごとに1章づつ通読し、学び、黙想しそこから与えられた霊想録である。

更にまさった契約の仲介者になられた

2016-03-11 | Weblog
   ヘブライ人への手紙8章
 
  6節「しかし、今、わたしたちの大祭司は、それよりはるかに優れた務めを得ておられます。更にまさった約束に基づいて制定された、更にまさった契約の仲介者になられたからです。」(新共同訳)

  1節「今述べていることの要点は、わたしたちにはこのような大祭司が与えられていて、天におられる大いなる方の玉座の右の座に着き」。小見出し『新しい優れた約束の大祭司』。これまで論述してきたメルキゼデクに等しい永遠の大祭司イエスが、御座の右に着いておられること、そして人間ではなく神が建てられた真の幕屋で仕えておられるということである(2節)。すべての大祭司は供え物といけにえとを献げる任命を受けているが、この方も何か献げ物を持っていなければならないであろう(3節)。しかしこの方が地上におられるとしたら、律法に従って供え物を献げる祭司たちは現にいるが、この方は決して同じ祭司ではない。何故なら、既にご自身を一回限りの罪の献げ物として献げられたからである(4節)。
  5節「この祭司たちは、天にあるものの写しであり影であるものに仕えており、そのことは、モーセが幕屋を建てようとしたときに、お告げを受けたとおりです。神は、『見よ、山で示された型どおりに、すべてのものを作れ』と言われたのです」。地上の祭司職は天上にある影であり模型だという。その論拠として出エジプト25章40節のモーセの言葉を引用する。わたしたちの大祭司イエスの天上の幕屋における務めは地上の務めより遥かに優れたもので、更にまさった契約の仲介者になられたのである(6節)。「仲介者」(メシテース)は法律用語で裁判を受ける者の弁護人、また負債の保証人などの意味がある。NTD訳「保証人」、口語訳「中保者」。7章22節には「いっそう優れた契約の保証となられた」とある。
  7節「もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう」。最初の契約とは旧い契約を指す。これが十全なものであったなら、第二の契約、新しい契約は不必要であるという。これをエレミヤの預言(31章31~34節)から証明する。この「契約」(ディアセーケー)は、遺言とも訳され対等でなく主導権は神にあり、人と人との間の契約(スンセーケー)とは違う。
  8節「事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。『見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、新しい契約を結ぶ時が来る』と、主は言われる」。これはエレミヤ31章31節を引用したものである。9節はエレミヤ31章32節からで、エジプト脱出の時に結んだモーセの律法による契約に対して忠実でなかったと指摘する。10~11節もエレミヤ31章33節から引用する。それは石の板に刻まれる律法ではなく、心の肉皮に書き記される神の言葉である(第二コリント3章3、7節see)。これは、キリストによる、新しい創造の業である(第二コリント5章17節)。
  12節「わたしは、彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしないからである」。神はイエスによって新しい契約を結ばれたのだから、全ての民の不義を赦し、罪を思い出さないと告げるのである。
  13節「神は『新しいもの』と言われることによって最初の契約は滅びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます」。イエスは律法の終わりとなられたのである(ローマ10章4節口語訳see)

神の子に似た者であって、永遠に祭司です

2016-03-09 | Weblog
  ヘブライ人への手紙7章 

  3節「彼には父もなく、母もなく、系図もなく、また、生涯の初めもなく、命の終わりもなく、神の子に似た者であって、永遠に祭司です」(新共同訳)

  1節「このメルキゼデクはサレムの王であり、いと高き神の祭司でしたが、王たちを滅ぼして戻って来たアブラハムを出迎え、そして祝福しました」。小見出し『メルキゼデクの祭司職』。本章はイエスがメルキゼデクに等しい大祭司であることを論証している。彼が聖書に登場するのは創世記14章17~20節である。まず彼の名前の意味を説く。「メルキ」はマルヒー(使者=王)、「ゼデク」はツェデカー(正義)で「義の王」である(2節)。同時に「サレム」はシャローム(平和)で「平和の王」である。
  3節「彼には父もなく、母もなく、系図もなく、また、生涯の初めもなく、命の終わりもなく、神の子に似た者であって、永遠に祭司です」。これが彼の系図である。つまり、義と平和の王であるが、同時に永遠の神の祭司であることを表わす。それは族長であるアブラハムが最上の勝利品の中から十分の一をこの方に献げたからである(4節・創世記14章2節)。ところで、同じアブラハムの子孫であるレビ族血統の者が兄弟である民から十分の一を取るように、律法で命じられている(5節)。それなのに、レビ族血統でない者がアブラハムから十分の一を受け取っている(6節)。
  7節「さて、下の者が上の者から祝福を受けるのは、当然なことです」。下の者とはレビ族血統も含むアブラハムの全ての子孫を指す。上の者はメルキゼデクである。次に死ぬはずのレビ族祭司が十分の一を受けるが、永遠なる方が受けるのは当然である(8節)。レビは「アブラハムの腰の中にいた」時だったので、アブラハムを通して十分の一を献げた事になる(9~10節)。律法による祭司制度は十分だった筈だが、アロンとは別な「メルキゼデクと同じ祭司」が立てられたことは、制度に変更があったことになる(11~12節)。「変更」(メタセイシス)とは「取り除く」(12章27節)と同じである。この方、つまりわたしたちの主は祭壇の奉仕に携わったことのないユダ族に属していたからである(13節)。
  14節「と言うのは、私たちの主がユダ族の出身であることは明らかですが、この部族についてモーセは、祭司に関することを何一つ述べていないからです」。この事はメルキゼデクと同じ別な祭司が立てられたことで明らかである(15節)。この方は肉の掟の(限界のある)律法によらない、命の力(死と復活)によって立てられた祭司であることを告げる(16節)。ここで重ねて「永遠にメルキゼデクと等しい祭司」という詩110篇4節を引用する(11、15節、5章6節、6章20節)。その明らかなことを20~27節で五つ項目を挙げて証明している。
 (1)レビ系統の祭司たちは誓いに寄らないで祭司になっているが、主は神の誓いによって祭司となられた。「主は誓い、思い返されることはない」(20~21節)。
 (2)主は永遠に生きているので、変ることのない祭司職を持っている。世襲性の廃止を意味する。「変らない」(アパラバトス)とは法律用語で、判決が下されたら決して変らないという強い意味を示す(22~24節)。
 (3)常に人々のため執り成しておられる方で、完全に救うことができる(25節)。「完全に」(パンテレス)は全く(パス)、終り(テロス)で「申し分なく」「決定的に」「いつも」ということ。執り成しの祈りはヨハネ福音書17章、ローマ8章33節にある。
 (4)主は聖であり、罪なく汚れなく、罪人から離され諸々の天より高くされた大祭司であるから、わたしたちに必要な方である(26節)。「汚れのない」(アミアントス)は、神に近づくのを妨げる汚れがないこと(ヤコブ1章27節)。
 (5)主は他の大祭司と違い、ただ一度罪のためにご自身を献げることによって永遠に完全な者として大祭司の業を成し遂げられた(27~28節)。

最後まで希望を持ち続ける

2016-03-08 | Weblog
  ヘブライ人への手紙6章 

  11節「わたしたちは、あなたがたおのおのが最後まで希望を持ち続けるために、同じ熱心さを示してもらいたいと思います」(新共同訳)

  1~2節「だからわたしたちは、死んだ行いの悔い改め、神への信仰、種々の洗礼についての教え、手を置く儀式、死者の復活、永遠の審判などの基本的な教えを学び直すようなことはせず、キリストの教えの初歩を離れて、成熟を目指して進みましょう」。5章終りの未成人の状態にある読者に対する言葉である。この六項目はキリストの教えの初歩であるが、未成熟状態にいつまでも留まらないようにしようと呼び掛ける。初歩とは、ユダヤ教の指導者ラビから学んだ共通の教えだからである。「成熟を目指して進みましょう」は意訳。これは3節の神からの呼び掛けに対して応えること。TEVでは Let us go forward!となっている。4~5節 知識と実際とが離れては厳しい時代状況にはついて行けない。棄教、背教が起きることを警告する。
  6節「その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません。神の子を自分の手で改めて十字架につけ、侮辱する者だからです」。生ける神から離れることとなる(3章12節see)。これは議論を呼ぶところだが、人の側には悔改めが不可能でも神は可能であることをイエスは告げている(マタイ18章21~22節)。然し「天からの賜物を味わい、聖霊にあずかった者」(4節)は、それは故意に聖意に逆らう罪であり、悔い改めて立ち帰る余地はない(第一ヨハネ5章16節)。7~8節は畑の作物を育てても、その管理を怠るなら茨が生えてくる譬である。
  9節「しかし、愛する人たちこんな風に話していても、わたしたちはあなたがたについて、もっと良いこと、救いにかかわることがあると確信しています」。性急な判断はしない。あなた方に少しでも救いに関わることがあるならそれを評価する。あなたがたの働きや、聖なる者たちに以前も今も仕えることにより、神の名のために示したあの愛をお忘れになるようなことはないからである(10節)。聖徒に仕えるという愛の交わりである。
  11節「わたしたちは、あなたがたおのおのが最後まで希望を持ち続けるために、同じ熱心さを示してもらいたいと思います」。これを最後まで続けて欲しい。このために「信仰と忍耐とによって、約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣う者となってほしい」という(12節)。
  13節「神は、アブラハムに約束をする際に、御自身より偉大な者にかけて誓えなかったので、御自身にかけて誓い」。小見出し『神の確かな約束』。第一の場面はアブラハムがハラン出立の時にあった神の約束とイサク誕生である(14~15節)。それには25年という忍耐した歳月だった(創世記12~18、21章)。第二の場面は16~17節「イサク奉献の物語」である(創世記22章16~17節)。
  18節「それは、目指す希望を持ち続けようとして世を逃れて来たわたしたちが、二つの不変の事柄によって力強く励まされるためです。この事柄に関して、神が偽ることはありえません」。二つの不変の事柄とは、神がアブラハムに示した約束と誓いである。
  19節「わたしたちが持っているこの希望は、魂にとって頼りになる、安定した錨のようなものであり、また、至聖所の垂れ幕の内側に入って行くものなのです」。錨は船舶の安全装置、潮に押し流されて座礁しない為のもの、同様に神の望みは魂の安全にし、欠くことが出来ない。この不動の望みに関して言えば、至聖所の垂れ幕の内側に入って行く大祭司への信頼となる。
  20節「イエスは、わたしたちのために先駆者としてそこへ入って行き、永遠にメルキゼデクと同じような大祭司となられたのです」。これは7章に続く。

畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました

2016-03-07 | Weblog
  ヘブライ人への手紙5章 

  7節「キリストは肉において生きておられた時、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました」(新共同訳)

  1節「大祭司はすべて人間の中から選ばれ、罪のための供え物やいけにえを献げるよう、人々のために神に仕える職に任命されています」。ここで大祭司の資格が明らかにされる。第一に人間の中から選ばれ、人々のために神に仕える役に任じられることである。それは「弱さを身にまとっている」ので、罪にいたる無知と迷いにある人々を「思いやる」ことが出来ねばならないからである(2節)。第二は「弱さを身にまとう」とは、人としての脆弱で壊れやすい「土の器」である。「思いやる」(メトリオパセイン)とは「判断する、測る、思い測る」ということを示す。第三に大祭司は罪を犯す弱さを持つ人々のために、また自分自身のために、罪の贖いの供え物を献げねばならない(3節)。
  4節「また、この光栄ある任務を、だれも自分で得るのではなく、アロンもそうであったように、神から召されて受けるのです」。同じように、この大祭司となる栄光ある任務をキリストも受けられた。それは詩2篇7節「わたしは今日、あなたを産んだ、あなたはわたしの子」と呼ばれ(5節)、また110篇4節「あなたこそ永遠にメルキゼデクに等しい祭司」と告げられたのである(6節)。なぜなら罪なきイエスがわたしたちの弱さを思いやり、罪の贖いの供え物をする大祭司としての任務を受けられるからである(4章15節see)。
  7節「キリストは肉において生きておられた時、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました」。ここにはキリストの生涯が凝縮して表現される。神の御子が地上であらゆる試練を受け、その最後はゲッセマネと十字架上で激しい叫び声をあげられた。それは死と苦しみに勝利する御父に対する全き服従であった。御子であるキリストは真実の人として従順を経験されたのである(8節)。
  9節「そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり」。そして死に勝利され、復活され永遠の救いの源となられ、メルキゼデクと等しい大祭司と呼ばれたのである(10節)。
  11節「このことについては、話すことがたくさんあるのですが、あなたがたの耳が鈍くなっているので、容易に説明できません」。小見出し『一人前のキリスト者の生活』。大祭司キリストについての勧めはまだ多くあるが、耳が鈍くなっている今は容易に語れない。誰かから神の言葉の初歩を教えて貰わなければならない。それは消化が難しい固い食物ではなく、乳を必要とするからだ(12節)。固い食物である「義の言葉」を理解できない(13節)。
  14節「固い食物は、善悪を見分ける感覚を経験によって訓練された、一人前の大人のためのものです」。「一人前の大人」(テレイオーン)、「充分に成長した人」「完成した人」、口語訳「成人」、NTD訳「成熟した者」。宗教的信仰的に、善悪の区別ができるよう訓練されているのである。

大胆に恵みの座に近づこうではありませんか

2016-03-06 | Weblog
  ヘブライ人への手紙4章 

  16節「だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」(新共同訳)

  1節「だから、神の安息にあずかる約束がまだ続いているのに、取り残されてしまったと思われる者があなたがたのうちから出ないように、気をつけましょう」。3章後半で神の民が不信仰で安息にあずかることが出来なかったことを知ったが、神の約束はまだ成就していないので、安息に入りそこねないよう注意しようと勧める。
  2節「というのは、わたしたちにも彼ら同様に福音が告げ知らされているからです。けれども、彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした。その言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結び付かなかったためです」。「福音が告げ知らされている」とは神の安息に入ることを指す。彼らはこれを聞いても信じて受け入れなかった為に安息に与ることができなかった。しかし信じたわたし達は、この安息に与ることができる(3節)。詩95篇11節を再度引用し、民のカナン侵入による定着という理解を否定する。そして神が既に安息を用意していたことを告げる。それが「もっとも、神の業は天地創造の時以来、既に出来上がっていた」ということである(3節)。それは創世記2章2節の「神の安息」で、地上のすべての人に約束したものである。
  5節「そして、この個所でも改めて、『彼らを決してわたしの安息にあずからせはしない』と言われています」。創世記2章と詩95篇11節との結び付きを強調し、安息の意味の二面性を表わす。詩篇は神がイスラエルの民に、創世記は神が全ての人に示した約束である。6節は2節を繰り返し、安息に与りえなかったのは不従順のためであると告げる。詩95篇7節の「今日(きょう)」は、荒れ野から約四百四十年後のダビデを通して語られた「今日」である(7節)。ヨシュアが民に安息を与えたのであれば、このようには言わない(8節)。そこで「安息日の休み」が神の民に残されている(9節)。「安息日の休み」(サッバティスモス)は安息日の複合語、安息日の平安という内容を盛り込んでいる。
  11節「だから、わたしたちはこの安息にあずかるように努力しようではありませんか。さもないと、同じ不従順の例に倣って堕落する者が出るかもしれません」。これまで示された通り、神の言葉は生命と力に満ちており、両刃の剣より鋭くて精神と霊、関節と骨髄を切り離すまで刺し通し、心の思いと考えを判別することが出来るからである(12節)。人を解体する鋭利な刃物である。このことは旧約の預言者も語っている(イザヤ49章2節、エレミヤ23章29節)。従って神の御前では隠れたところはなく、全てさらけ出されていて、何一つ隠し事はできない(13節)。喉仏に刃物をさし向けて、徹底した告白を迫る如くである。14節からは「偉大な大祭司キリスト」について5章10節まで述べられる。
  14節「さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか」。小見出し『偉大なる大祭司イエス』。2章17節、3章1節で既にイエスが憐れみ深い大祭司であることを伝えている。ここでは神の子イエスは、旧約レビ系の大祭司とはっきり区別される。聖所を通り至聖所に入る如く、イエスは諸々の天を通過された神の子(神性を有する)なる大祭司であるから信仰告白に固着しようと勧める。この大祭司は、「わたしたちの弱さに同情できる」方で、罪は犯さなかったがあらゆる点で同じ試練に遭われたので(15節)、憐れみを受け、恵みに与り、時宜を得た助けをいただくため、確信をもって御座に近づこうではないか(16節)。「同情する」(スンパセース)は共感すること。「大胆に」(カタノーエオ)はよく見る、よく考える、「恵みの座」に躊躇わず近づくことである。

『今日』という日のうちに、日々励まし合いなさい

2016-03-05 | Weblog
  ヘブライの手紙3章 

  13節「あなたがたのうちだれ一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、『今日』という日のうちに、日々励まし合いなさい」(新共同訳)

  1節「だから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち、わたしたちが公に言い表している使者であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい」。小見出し『イエスはモーセに優る』。既に2章17~18節からわたしたちが信仰を告白しているイエスは、民の罪を償うためにすべての点で同じ試練を受けられた使者であり、神の前に憐れみ深い忠実な大祭司であることを考えなさいという。「考えなさい」(カタノエオー)は充分に知ること、「思い見るべきである」(口語訳)、「見据えなさい」(岩波訳)。
  2節「モーセが神の家全体の中で忠実であったように、イエスは、御自身を立てた方に忠実であられました」。「神の家」とはイスラエルを指す。つまりモーセはイスラエルの中で民に忠実であったが(民数記12章7節)、イエスは神の前にすべての点で忠実な方であった。それは家を建てる人が家そのものより尊ばれるのと同じでイエスはモーセより大きな栄光を受けるに相応しい者とされた(3節)。家を建てる人とは万物を造られた神のことである(4節)。モーセは神の家に対して家僕として忠実に仕えたが、キリストは御子として神の家を忠実に治められるのである(5~6節)。
  7節「だから、聖霊がこう言われるとおりです。『今日、あなたたちが神の声を聞くなら』」。聖霊がこのように警告していると呼び掛ける。ここで詩95篇7~11節を引用して述べる。この詩篇は4章11節まで展開されることになるが、この箇所では、12節にある「警告」について述べている。
  8節「荒れ野で試練を受けたころ、神に反抗したときのように、心をかたくなにしてはならない」。出エジプト17章2~3節、民数記20章13節にある、民が荒れ野で水を求めた時のことである。カデシュではモーセは心頑なになり、神の言葉に忠実でなかったためカナンに入ることが出来なかった。9~10節では荒れ野40年間に陥った不信仰であった。「心を頑なにする」(スクレーロテース)は「厳しい」「烈しい」(スクレーロス)から来たことばで、金属の溶け難い状態を指す。10節の『彼らはいつも心が迷っており』は傾斜面を滑り落ちる状態を指し、神の道から離れ荒れ野を彷徨するのである。
  12節「兄弟たち、あなたがたのうちに、信仰のない悪い心を抱いて、生ける神から離れてしまう者がないように注意しなさい」。不信仰に陥り生ける神から離れないようにと警告する。ここで、二つのことが求められ勧められる。
  13節「あなたがたのうちだれ一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、『今日』という日のうちに、日々励まし合いなさい」。生ける神への信頼は日々新たでなければならない(第2コリント5章17節)。「一日一生」(内村鑑三)である。「きょう」という日々を再び巡り来ない貴重な生涯の一日として備えられた道を歩むのである。
  14節「わたしたちは、最初の確信を最後までしっかりと持ち続けるならキリストに連なる者となるのです」。それは主イエスの再び来られる日を目指してである(フィリピ3章13~14節)。ここから三つの問答形式で、前述の詩篇から不信仰について説く。先ず「だれが神の声に反抗したのか。エジプトを出たすべての者ではなかったか」(16節)。次に「いったい、だれに対して神は四十年間憤られたのか。罪を犯し死骸を荒れ愛野にさらした者ではなかったか」(17節)。そして第三は「だれに対して神は安息にあずからせはしないと誓われたのか。従わなかった者に対してではなかったか」(18節)。かくして彼らが安息に与ることが出来なかったのは、不信仰のせいであったことが分るという(19節)。

兄弟たちと同じようにならねばならなかった

2016-03-04 | Weblog
  ヘブライ人への手紙2章 

  17節「それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです」(新共同訳)

  1節「だから、わたしたちは聞いたことにいっそう注意を払わねばなりません。そうでないと、押し流されてしまいます」。小見出し『大いなる救い』。1章の勧めを受けてこれに応答すること。「注意を払う」(プロセケイン)、口語訳「心に留める」は、船の錨をおろすこと、もしそうしないなら「押し流される」(パラルノオーメン)、漂流することになる。
  2節「もし、天使たちを通して語られた言葉が効力を発し、すべての違犯や不従順が当然な罰を受けたとするならば」。「天使たちによって語られた」とは、旧約の啓示を指す。その違反や不従順に対して断罪されるなら、神の御子によって啓示された救いに無頓着でいてどうして断罪されないだろうかという(3節)。この救いは主イエスが語り、これを聞いて使徒たちが告げた確かなもの、神もしるし、不思議、力ある業で証したものである(4節)。6
  5節「神は、わたしたちが語っている来るべき世界を、天使たちに従わせるようなことはなさらなかったのです」。小見出し『救いの創始者』。ここでも「天使たち~」は旧約であり、「来るべき世界」は新約の御子イエスの時を指している。
  6節「ある個所で、次のようにはっきり証しされています。『あなたが心に留められる人間とは、何者なのか。また、あなたが顧みられる人の子とは、何者なのか』」。イエスの救いの出来事を詩8篇5~7節(ギリシャ語訳)を引用して証言する。
  7節「あなたは彼を天使たちよりも、わずかの間、低い者とされたが、栄光と栄誉の冠を授け~」。「わずかの間、低い者とされた」とは、イエスの地上で人として虚しくなられたことを指す(14、17節)。それは十字架の苦しみと死というわずかの間で、死に勝利して「栄光と栄誉の冠を授けられた」のである(8~9節)。
  10節「というのは、多くの子らを栄光へと導くために、彼らの救いの創始者を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の目標であり源である方に、ふさわしいことであったからです」。このイエスの死と栄光は、救いの「創始者」(アルケーゴス)となるためであった。アルケー(初め)とアゴー(導く)の合成語で「先導者」(12章1節)「導き手」(使徒言行録3章15節)とも訳せる。これは死と命の間の深淵に救いの命綱を渡すことである(ギリシャではこれをアルケーゴスと呼ぶ)。神はこのことを人類の究極目標として下さったのである。
  12節「『わたしは、あなたの名をわたしの兄弟たちに知らせ、集会の中であなたを賛美します』と言い」。詩22篇23節の引用。13節はイザヤ書8章17~18節の引用で、イエスがわたしたちの兄弟となられたことを証言する。14節以下は御子イエスが、わたし達と等しく死とその苦しみを味われた理由を説いている。理由の第一は「それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼす」(14節)、次に第二として死の恐怖で生涯、死の奴隷状態になっている者たちを解放すること(15節)。それは天使ではなく、アブラハムの子孫を助けるのである(16節)
  17節「イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかった」ことが理由の第三である。大祭司は、神と民とに関わることを身に負うのである。「忠実な大祭司」としての働きは、更に3章以降で展開されている。

御子は、天使たちより優れた者となられました

2016-03-03 | Weblog
  ヘブライ人への手紙1章 

  4節「御子は、天使たちより優れた者となられました。天使たちの名より優れた名を受け継がれたからです」(新共同訳)
 
  1節「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが」。小見出し『神は御子によって語られた』。著者は、冒頭の挨拶なしに、まず神の語りかけに注目させる。旧約時代は預言や夢、幻、自然、奇跡などで語られた。
  2節「この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました」。「この終わりの時代」、口語訳「終りの時」TEV「the last days」ギリシャ語「エスカト―」である。終末論(eschatology)が展開されるには、もはや何の媒介もなく直接御子イエスを通して語りかけられた。この御子がいかなる地位を占める方であるかを示す。それは「万物の相続者」であり、神の創造に参与されたという、空間と時間にわたる宇宙的なスケールで描き出す。
  3節「御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました」。「本質の完全な現れ」口語訳「本質の真の姿」(カラクテール テース フポスタセオース)。カラクテールはカラッソウ(刻む、刻印する)の名詞形で、印鑑と印影が一致するのと同じで御子は神の本質と一致し、神との一体性を示す。NTでは唯一回の使用でcharacterの語源になっている。このように神と等しい御子が「人々の罪を清められ」「天の高い所におられる方の右の座に着かれた」。「人々の罪を清める」とは、受肉と贖罪という救いの業を指す。「右の座に着く」は、神と等しい栄光を受ける権威の座に就くことである。これは全ての天使に優ることである(4節)。御子は天使にまさるということを5節から13節まで七か所引用している。
  5節「いったい神は、かつて天使のだれに、『あなたはわたしの子、わたしは今日、あなたを産んだ』と言われ、更にまた、『わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる』と言われたでしょうか」。詩2篇7節、サムエル記下7章14節からの引用。
  6節「更にまた、神はその長子をこの世界に送るとき、『神の天使たちは皆、彼を礼拝せよ』と言われました」。申命記32章43節の引用。
  7節「また、天使たちに関しては、『神は、その天使たちを風とし、御自分に仕える者たちを燃える炎とする』と言われ」、詩104篇4節の引用。8~9節は詩45篇7~8節の引用。10~12節は詩102篇26~28節の引用。
  13節「神は、かつて天使のだれに向かって、『わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで、わたしの右に座っていなさい』と言われたことがあるでしょうか」。詩110篇1節の引用
  14節「天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、遣わされたのではなかったですか」。御使を天界の存在として崇拝すべきでなく、救い受け継ぐ者らに仕える者として遣わされたという。本書は、御子キリストの卓越した存在をこれほどまで強調し、その救いを受け継ぐキリスト者に対し励ましを与えようとしているのは、背景に激しい権力者の迫害が伺える。

御子は、天使たちより優れた者となられました

2016-03-03 | Weblog
  ヘブライ人への手紙1章 

  4節「御子は、天使たちより優れた者となられました。天使たちの名より優れた名を受け継がれたからです」(新共同訳)
 
  1節「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが」。小見出し『神は御子によって語られた』。著者は、冒頭の挨拶なしに、まず神の語りかけに注目させる。旧約時代は預言や夢、幻、自然、奇跡などで語られた。
  2節「この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました」。「この終わりの時代」、口語訳「終りの時」TEV「the last days」ギリシャ語「エスカト―」である。終末論(eschatology)が展開されるには、もはや何の媒介もなく直接御子イエスを通して語りかけられた。この御子がいかなる地位を占める方であるかを示す。それは「万物の相続者」であり、神の創造に参与されたという、空間と時間にわたる宇宙的なスケールで描き出す。
  3節「御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました」。「本質の完全な現れ」口語訳「本質の真の姿」(カラクテール テース フポスタセオース)。カラクテールはカラッソウ(刻む、刻印する)の名詞形で、印鑑と印影が一致するのと同じで御子は神の本質と一致し、神との一体性を示す。NTでは唯一回の使用でcharacterの語源になっている。このように神と等しい御子が「人々の罪を清められ」「天の高い所におられる方の右の座に着かれた」。「人々の罪を清める」とは、受肉と贖罪という救いの業を指す。「右の座に着く」は、神と等しい栄光を受ける権威の座に就くことである。これは全ての天使に優ることである(4節)。御子は天使にまさるということを5節から13節まで七か所引用している。
  5節「いったい神は、かつて天使のだれに、『あなたはわたしの子、わたしは今日、あなたを産んだ』と言われ、更にまた、『わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる』と言われたでしょうか」。詩2篇7節、サムエル記下7章14節からの引用。
  6節「更にまた、神はその長子をこの世界に送るとき、『神の天使たちは皆、彼を礼拝せよ』と言われました」。申命記32章43節の引用。
  7節「また、天使たちに関しては、『神は、その天使たちを風とし、御自分に仕える者たちを燃える炎とする』と言われ」、詩104篇4節の引用。8~9節は詩45篇7~8節の引用。10~12節は詩102篇26~28節の引用。
  13節「神は、かつて天使のだれに向かって、『わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで、わたしの右に座っていなさい』と言われたことがあるでしょうか」。詩110篇1節の引用
  14節「天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、遣わされたのではなかったですか」。御使を天界の存在として崇拝すべきでなく、救い受け継ぐ者らに仕える者として遣わされたという。本書は、御子キリストの卓越した存在をこれほどまで強調し、その救いを受け継ぐキリスト者に対し励ましを与えようとしているのは、背景に激しい権力者の迫害が伺える。

今は、あなたにもわたしにも役立つ者となっています

2016-03-02 | Weblog
  フィレモンへの手紙 

  11節「彼は、以前はあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにもわたしにも役立つ者となっています」(新共同訳)

  1節「キリスト・イエスの囚人パウロと兄弟テモテから、わたしたちの愛する協力者フィレモン」。小見出し『挨拶』。彼はローマ獄中でこの手紙を執筆していることが伺える。フィレモンは自分の家を教会として提供していた(2節)。神と主イエス・キリストからの恵みと平和(口語訳「平安」エイレーネー)があるようにと祈る(3節)。
  4節「わたしは、祈りの度に、あなたのことを思い起こして、いつもわたしの神に感謝しています」。小見出し『フィレモンの愛と信仰』。パウロはフィレモンのことをよく知っていて、思い起こして神に感謝していた。それは主にある信仰と、聖なる者たち一同に対する愛の交わりを聞いていたからだ(5節)。キリストの為になされている善いことを知り、信仰の交わりが活発になるようにと祈る(6節)
  7節「兄弟よ、わたしはあなたの愛から大きな喜びと慰めを得ました。聖なる者たちの心があなたのお陰で元気づけられたからです」。この「大きな喜びと慰め」は8節以下に述べる事柄を先取りしたものである。
  8節「それで、わたしは、あなたのなすべきことを、キリストの名によって遠慮なく命じてもよいのですが」。小見出し『パウロオネシモの為に執り成す』。愛に訴えての願いは、ローマで監禁中にもうけたわたしの子オネシモのことであるという(9節)。「監禁中にもうけた」とは、遥かローマに逃走してきたオネシモが監禁中のパウロに出会って、キリストの救いに導かれた。そして主にあるわが子となったことである(10節)。
  11節「彼は、以前はあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにもわたしにも役立つ者となっています」。そして、彼はわたしの心である(12節)。「心」(スプラギゴナ)は英訳mine own bowelsで内臓・腸を意味し、深く激しい愛情表現である。 本当はわたしの許に引き止めて福音の奉仕をお願いしたいが、オネシモはフィレモン家の奴隷なので、承諾なしにわたしは、それはしない(13~14節)。
  15節「恐らく彼がしばらくあなたのもとから引き離されていたのは、あなたが彼をいつまでも自分のもとに置くためであったかもしれません」。ここは、ローマ8章28節「神の計画に従って…万事が益となるように共に働く」という信仰の証である。最早オネシモは、奴隷としてではなく、わたしにとってもとより、あなたにとっても主に結ばれた、愛する兄弟である(16節)。
  17節「だから、わたしを仲間と見なしてくれるのでしたら、オネシモをわたしと思って迎え入れてください」。「仲間」(コイノーノス)はコイノーニア(交わり)から来た言葉で、口語訳「信仰の友」、新改訳「親しい友」TEV「partner」、同志である。コロサイ4章9節では「忠実な、愛するオネシモ」と呼んでいる。
  18節「彼があなたに何か損害を与えたり、負債を負ったりしていたら、それはわたしの借りにしておいてください」。これは自筆で書いているのだがとして、現実の事柄として奴隷身分で債務が未だあるとするなら、その解決についてもパウロは支払うことを表明した(19節)。これによって、主による喜びを与えられ、心を元気付けて下さいと頼む。ここには信仰に基づく愛の共同体が示されている。
  23節「キリスト・イエスのゆえにわたしと共に捕らわれている、エパフラスがよろしくと言っています」。小見出し『結びの言葉』。エパフラスは、コロサイに宣教したパウロの同労者(コロサイ1章7節)であり、24節で協力者たちと呼ばれる、マルコ、アリスタルコ、デマス、ルカもそれぞれコロサイ教会と挨拶を交わす同志であった(コロサイ4章9~10、14節)。

希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです

2016-03-01 | Weblog
  テトスへの手紙3章 

 7節「こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです」(新共同訳)

  1節「人々に、次のことを思い起こさせなさい。支配者や権威者に服し、これに従い、すべての善い業を行う用意がなければならないこと」。小見出し『善い行いの勧め』。「支配者」(アルカイ=先に立つ者)「権威者」(エクスーシア=権威を持つ者)は地上の政治的権力を指す。教会は現実の秩序に協調するが、埋没することではない(ローマ13章1~7節)。
  2節「だれをもそしらず、争いを好まず、寛容で、すべての人に心から優しく接しなければならないことを」。「善い業」とは何かが示される。義を貫こうとすれば非寛容になる。然し和解の福音を携える者は穏健で争いを好まないのである(第1テモテ3章3節)。
  3節「わたし達自身もかつては、無分別で、不従順で、道に迷い、種々の情欲と快楽のとりことなり、悪意とねたみを抱いて暮らし、忌み嫌われ、憎み合っていたのです」。悪徳の列挙は、第1テモテ1章9~10節、6章4~5節にもある。
  4節「しかし、わたしたちの救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現れたときに」。主語が「わたし達」となり、バプテスマに結びつく信仰告白である。神であるメシアが、すべての人を愛するためにこの世に来られた。
  5節「神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです」。神は律法によってではなく、憐れみにより、聖霊により新生の業をバブテスマによって実現して下さった。
  6節「神は、わたしたちの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊をわたしたちに豊かに注いでくださいました」。父なる神とイエス・キリストと聖霊に導かれる者となった。
  7節「こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです」。わたしたちは、恵みにより義とされ、永遠の命を受け継ぐ者とされた。この信仰の告白を徹底するように。そして日常生活では良い行いをするよう心がけてほしい(8節)。
  9節「愚かな議論、系図の詮索、争い、律法についての論議を避けなさい。それは無益で、むなしいものだからです」。クレタ教会にいる反対論者や敵対者らとは議論を避け、訓戒して従わないなら、関係を断つようにと勧める。これは1章10~11、13~14節に言及している者らのことである。このような人は心がすっかりゆがんでいて、自ら悪いと知りつつ罪を犯しているのである(10~11節)。
  12節「アルテマスかティキコをあなたのもとへ遣わしたら、急いで、ニコポリスにいるわたしのところへ来てください。わたしはそこで冬を越すことにしたからです」小見出し『結びの言葉』。「ニコポリス」はアドリア海に面した処で、パウロの西方地域に対する新しい伝道が考えられている。ティキコは使徒言行録20章4節、第2テモテ4章12節にあり、パウロの良い協力者である。14節にも「良い行い」に言及している(9節、2章7、14節)。愛の実践を伴う信仰である(ガラテヤ5章6節)。