OH~!
だ、だ、だ、脱皮してるじゃないか~!!!
アゲハは体が固定されてから1週間くjらいかかったから、のん気に構えてました。
危うく見逃すところでした。
見たい方はこちらへどうぞ!→ツマグロヒョウモン観察日記
初めて描いた油絵は『ランプトンの肖像』の模写だった。
知る人ぞ知る大御所漫画家萩尾望都の名作、『ポーの一族』の主人公エドガー少年の肖像画の元となっている絵である。
それがサー・トーマス・ローレンス描いた『ランプトンの肖像』である。
模写した元絵を探したけれど見つからず、唯一下のサイト(色文字をクリック)で見つけ出しました。ご覧下さい。
私は、彼の作品の中ではやっぱりこれが一番のお気に入りです。
今回まとめるに当たって知った作品の中で、この記事の最後の作品(The Calmady Children)も素敵です。
サー・トーマス・ローレンス『ランプトンの肖像』
↓この絵は『ランプトンの肖像』の全体です。
模写した元の絵はこの絵の一部分が使われています。
勿論、『ランプトンの肖像』という絵の存在を知ったのは萩尾望都の漫画が発端ではあるが、実際の所、衣服やポーズは同じでもエドガー少年の肖像とランプトンの肖像は全く別物だった。
所詮エドガー少年は漫画の中の平面な1キャラクターであり、その肖像画には特に何の感情も抱きはしなかったが、サー・トーマス・ローレンスの描いた元の絵は違った。見た瞬間、今まで自分が知っている人物画は何処かへ吹っ飛んでしまった。
あどけない顔ながら、美しく整った品の良い顔立ち、油絵ならではの柔らかくも勢いのある筆のタッチで描かれたハリのあるジョーゼットのような白いフリルとビロード(別珍?)の風合いの上着と華やかながらも落ち着いた色調。私は一目でこの絵の虜になった。その頃には既に、ルーベンスもレンブラントもボッティチェりもダヴィンチも知っていたけど、私にとってランプトンの表情はモナリザ以上の衝撃だった。
昔、小学4~5年生頃だったろうか。
その頃私は、水彩絵の具で絵を描くと、初めは水で溶いているのだが、明らかに水彩絵の具としての使い方を間違っているとしか思えないくらいにコテコテに(グチャグチャではない)なるのを見て、担任の先生が「ichiiさんに油絵を描かしてみたいねえ」と言われたことがあった。あの頃の(というより、今も?)田舎の小、中学校には専属の美術教師もいなければ、美術部もないし、洒落た絵画教室なんてものもない。結局、「油絵」というキーワードは「描かせてみたいねえ」の夢と幻の言葉のまま、私が高校に入るまで現れることはなかった。そして実際に油絵を体験する時がやってきたわけだが、当然私がこの絵を模写の対象としたのは言うまでもない。もしもこの絵に出会ってなければ、(無謀なことに)モナリザを選んでいたと思う。(でも、全くタッチが違う…。)
と、いうわけでその模写はというと、何となく流れで、中学の時の隣りのクラスの担任の先生のもとへ行ってしまいました。それを知って私の担任が残念がっていたのを憶えています。(あの時は描いたという満足だけで、作品に対する執着や愛着もなくて、欲しい人は好きに持って行っていいよという感じだった。
今思うに、あの場合やっぱり担任に渡すべきっだたのかなぁ、と…今さらですが。)
トーマス・ローレンス
(Sir Thomas Lawrence, 1769年4月13日―1830年1月7日)イギリスの画家
ブリストルで生まれ、6歳の時には父の経営していた宿屋で、客の好きな物を描いたり、ジョン・ミルトンの晩年の演説をするなど、子供ながらその片鱗を見せていた。
彼のデビューはオックスフォードでのクレヨン肖像画家としてで、その時には後援者がついており、1782年に一家はバースへ移り住むが、若い芸術家トーマスは、お洒落な人々の好むクレヨンで絵を描いて収入を得ていた。
1784年トーマスは賞をもらい、クレヨン芸術協会の銀製パレットを手に入れた。彼はラファエロ・サンティの『変容』を描いた後、油絵で描き始めた。
絵で身を立てる決意をしたトーマスは、1787年にロンドンへ出てきて、、その頃当代一の画家であったジョシュア・レイノルズに迎えられてロイヤルアカデミーの生徒となった。
1791年にはアカデミー会員となり、1792年にはディレッタンティ教会の画家に任命され、亡くなったレノルズの代わりに国王ジョージ3世のお抱え画家となった。
1794年、彼は当代の社交界や王侯の肖像画を描くようになった。
1885年、彼はナイトに授爵された。
1818年、トーマスは依頼を受けてアーヘンへ行き、王侯や第三共和制の外交官たちの肖像を描いた。ウィーンとローマへも足を伸ばした。どこでも王侯から際だって実物よりよく見せるやり方が気に入られ、芸術家として自身の利益になるように心得た宮廷儀礼も同様であった。
18ヶ月後に帰国し、彼が到着した日には、数日前に亡くなっていたベンジャミン・ウエストの部屋で、ロイヤル・アカデミーの会長職に選ばれ、1820年から会長職に就き、死の年まで務めた。彼は生涯結婚しなかった。
以下詳しい生涯についてはこちらをご覧下さい。
→『サー・トーマス・ローレンス』
The Fluyder Children (フライダー家の子供たち)
Elisabeth Farren, Later Countess of Derby