(五式戦闘機とP-51戦闘機)
昭和20年7月16日、三重県上空で日米の戦闘機の空中戦が行われ、
日本機に撃墜された米軍機が、津市美里町桂畑の山に墜落しました。
墜落した米軍機は、硫黄島から飛来した陸軍P-51戦闘機。
交戦した日本機は、陸軍明野飛行隊所属の五式戦闘機でした。
P-51は、桂畑の長野城址がある山の頂上から100m下の斜面に墜落し、
乗員(パイロット)は即死。
地元の警防団により現地に埋葬されたが、
戦後に米軍が遺体を回収し、米国の陸軍墓地に埋葬した。
機体の残骸についてはどのように処分されたか不明で、
津市白山町で撃墜されたB-29のように部品は保存されていない。
撃墜した檜與平(ひのきよへい)大尉は、徳島県出身、
南方で空戦中に脚に被弾し、義足となって戦線に復帰、
明野飛行隊(三重県伊勢市小俣町)に所属して、終戦まで生き残った。
(上の画像の五式戦は、明野飛行隊所属機)
当該空戦時に使用していた義足は、
航空自衛隊入間基地の資料館に展示されている。
以上の記述は、
津市在住の戦史研究家・雲井保夫さんの調査による成果です。
桂畑の長野城址の頂上から見た、津市街です。
画像右の鉄塔からさらに下の斜面に墜落しました。
30年ほど前、地元の老人(空戦の当時は小学生)に聞いたところ、
「墜落していったのが、自分の家からも見えた。
集落の大人が山に登って見てくるというので、
自分たち子どもも大人と一緒に登ったんや」
とのことです。
大戦中、白山町上空でB-29に体当たりした陸軍の戦闘機
白山町でB-29に体当たりしたのが
陸軍の三式戦闘機「飛燕」でした。
「飛燕」は陸海軍で唯一の水冷式エンジンを搭載した戦闘機でしたが、
エンジンの生産が遅れがちになり、
未完成の機体がどんどん増えていったので、
「空冷式エンジンを持ってきて、機体に載せて完成させよ」
となって生まれたのが五式戦闘機です。
元の「飛燕」の機体が優秀だったので、
急造した五式戦も良好な戦闘機になった、ということです。