米坂線の矢来踏切の東側一画に、ふみきり横丁がある。かつて平成10年前後までには、10軒以上の飲食店があり大勢の客で賑わっていた。現在では半数以下に減り、空き店舗も目立つようになった。当時近所に住んでいた、今は亡き職場の先輩が、毎日のように行き付けの店に通っていたのが、懐かしい思い出として残っている。洒落た電話ボックスは、携帯電話の無い時代の良き象徴である。
この一帯は直江町(なおえちょう)と呼ばれ、米沢市立西部小学校や米沢市営西武球場、西部公園、西部コミセンなどの公共施設が町の半分以上の面積を占めている。町名は上杉家二代目藩主景勝に仕えた家老直江兼続に由来する。明治時代に地元米沢の有志が、後世に家老の名を伝え残そうと行政に働きかけて実現したとのことである。
米沢市立西部小学校の近く、熊野神社境内に三又に分かれた大木のかなえ杉がある。20年ほど前、学校との間の道路を約2倍に拡張した都市計画道路が完成したが、歩道はこの木を迂回するように作られている。毎朝多くの子供たちがこの木の下を通って通学している。天を突く様な見事な樹齢260年以上の大木である。
ところで、かなえ(鼎)とはどんな物か、知っている人は大体年が判ってしまう。昔囲炉裏には欠かせないものだった、火鉢などにも置いて使うことがあった。懐かしい昭和30年代までの産物と言ってもいい物である。
▲ 追加訂正:上記のかなえの説明は、ごとく(五徳)をイメージしてのものであった。かなえは、どこの家にあったものではなかった。比較的裕福な家にはあったと思われる足つきの容器である。どちらも足が3本で安定した形をしている所は共通している。