福島県浜通り、特に原発に近い双葉郡の印象には、物言わぬ沈黙の悲しみが満ちていた。
あの日から13年間、時計が止まり続けている帰還困難区域や、数百人もの命を奪った集落跡の広大な更地。
少しずつ新たな一歩が始まっていた。これからも、現地を訪れて、見守り続けたいと考えています。
ところで、NHK仙台放送局制作、毎週土曜日の朝の『被災地からの声つぎの一歩』を、13年前からほとんど欠かさずに観ています。9日双葉郡に出掛けた日の朝は、偶然にも双葉町の人達がTVに出ていました。
酒田出身の歌手、白崎映美さんの「更地のうた」を、ふと思い出しました。
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◆ 前回のブログ記事の続き、浪江町から米沢の自宅に戻るまでを、以下書き記しました。◆
11日の正午頃、請戸小学校を出発して、浪江町の中心部にある、道の駅なみえに15分ぐらいで到着した。
店内で土産物を買った後、昼食を済ませた。
道の駅の奥には、子供たちが遊べる公園があった。令和2年12月にオープンしたラッキー公園である。浪江町 マスコットキャラクターピカリの大きな構造物があった。
道の駅全景 小春日和の陽射しが眩しかった。
国道6号線そばの道の駅なみえを後にして、走ること約40分、道の駅南相馬に立ち寄った。
浪江町の大半は、第一原子力発電所から20km圏内にあることから、立入りが制限されていたので、今回が初めての道の駅訪問となった。一方、道の駅南相馬は、20km圏外にあり、13年前から数えると5回以上は訪ねた様な気がする。
道の駅南相馬を後にして、走ること約30分、相馬市東日本大震災磯部地区慰霊碑の駐車場に到着した。
月曜日の午後2時前、訪問者は自分一人だけだった。13年前に約300名の尊い命が、津波に飲まれた。
かつて集落があった所は、太陽光発電のパネルで埋まっていた。慰霊碑から歩いて3分、沈黙の海がどこまでも遠く、広がっていた。
の
磯部海岸の堤防から、慰霊碑のある駐車場に再び戻り、一路米沢へと向かった、
東北中央道の道の駅伊達の郷りょうぜんに、午後3時頃に着いた。15分ほど休憩してから、再び東北中央道に上がった。米沢の玄関口の八幡原ICで下りて、西部地区にある自宅に到着したのは、約1時間後だった。
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参考資料として、以下の通り示します。
3.11直後の放射能汚染図
下の図表は、10日の午前中に見学した、東日本大震災・原子力災害伝承館の研修用テキストの抜粋です。
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かつて原発から20km圏内が、立入禁止だった頃、浜通りの北は相馬市方面から、南はいわき市方面から、幾度か出掛けて、ブログに掲載している。後日、整理して紹介したいと考えています。
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