只管打坐
しかんたざ
曹洞宗の坐禅。ただ、ひたすら坐ることをめざす。何かの目的のために坐るとか、坐ることで何かを得ようというものではない。
坐ること「それ自体」が目的で、考える前にそれを「やる」のです。
面倒だとか、面倒でないとかいうのは“分別”である。心にそれが入り込む隙を与えない。そうすれば何事にも全力で取り組むことができる。
「考える前に動く習慣」
枡野俊明 より
昨日の「先憂後楽」の続きである。
やらなければならないこと、面倒なことを、丁寧にする、そのために呼吸を整える。そのための考え方である。
目の前のことに集中する。
やれば終わる。いつかは終わるのだ。
ちゃんと楽しいことも待っているから。
「坐」の土の幅が広すぎた。そこが残念。