週末を迎えた軽井沢 全国的に、新型コロナの感染者数がとどまるところを知らない状況で
警報や注意報が発令されても ごく1部なんだろうけれど、自分は大丈夫って考えなのか
はたまた じっとしていられない体質なのか お出かけしたり
誰かと誘い合っておしゃべりしながら ご飯やお茶しなければいられない人もいるようだね
どこそこの景観がきれいだとか どこの何が美味しいとかって話を聞くと
s/w が ONになっちゃう人もいるかもだから 今日はお話で タイムトラベルをしちゃおう
明治時代になって 周辺の田舎より早い時期から 外国人の往来や逗留が増えて
毎年 政財界の著名人や富裕層が 真夏の暑さをしのぐ避暑地になったと言われる軽井沢だけれど
大雑把に 時代をさかのぼると その前の江戸時代は五街道のひとつ 中山道が今の町内を貫いて
軽井沢、沓掛(今は中軽井沢)、追分の 浅間根腰の3宿(あさまねごしのさんしゅく) とも呼ばれる
3つの宿場があった
その他にも脇道として上州(群馬県) 現在の安中や下仁田、草津温泉方面に続く物流や生活道路にあたる道もあった
その江戸時代が訪れる前は 武田氏や北条氏が群雄割拠するせめぎ合いの戦場になったり
そこに至るまでの はっきり解明されていない通過点 「 東山道 」が 町内のどこかを通過して
上州や 佐久市、小諸市方面に連なっていたとされている
この東山道 という道が軽井沢町内のどこを当時通過していたかは はっきりした裏付けがなく
断定的に書かれている 資料もあるけれど 本当の所どれも確定はしていない
大雑把に律令以後中山道制定以前まであたりの候補地点を全部発掘調査でもしない限り断定するのは難しいだろう
ひとつの大問題は 仮に浅間山麓を通過していたとして その浅間山の大噴火
特に 追分火砕流などの火山災害を引き起こしたとされる 天仁時代の大噴火(1108年)など以後
埋もれちゃったとしたら 古道のルートは その辺りから大きく変わらざるを得なかっただろうからね
その時代頃の軽井沢について書かれた古文書などはほんの僅かしか無いようだし
文化財として町内に遺されているのは室町時代(1336-1573)あたり の遺物と言われているものだね
ところで みなさんは 「 古代 」って 知っていますか?
平安時代 奈良時代 それ以前あたりを どういう風に言いますか?
学校に行っていた時代、年代、時期によって 古墳時代 弥生時代 縄文時代 と遡って行く人と
古代 と 学習した人とがいませんか?
弥生時代って 学習しなかった・・とか
軽井沢町の指定文化財は リストやその年表を見ると
室町時代から 縄文中・後期(3000~5000年前:各節あり)の茂沢・南石堂遺跡に遡るんだけれど
最近、巷では 3世紀前後から7世紀前後の古墳が多く作られていた時代を 古墳時代と呼んでいるね
弥生時代から 律令国家になる中間の3~400年の間くらいかな
考古学の研究が進み ひとくくりに 縄文時代と言えば毛皮のパンツに 石斧をくくりつけた
狩猟生活がほとんどだったというこれまでの解釈も 変わって来ているらしい
稲作と重ねられていた弥生時代もより研究が進んでいるそうだね
そして 古墳が多く造られた時期を 「 古墳時代 」と呼称するようにもなった
このあいだここで 古道散策をする人たちのお話をしたのは その後半くらいの時期の道で
律令国家になる前あたり にあったんじゃないかと言われる 通称 「 古東山道 」の気配の探索
昨日 5年前のバス事故の慰霊祭が行われた場所のすぐ上に位置する 「 入山峠 」には
道路沿いの藪の中に 当時 その頃の人の往来があった場所にあると言われる 祭祀遺跡が発見されているんだ
ずっと前に ここでお話ししたんだけれど
碓氷バイパス沿いの ミカドコーヒーのお店の所で 昭和の後半に
弥生時代の後半か古墳時代の初めくらいの時期と言われる住居跡がふたつと 土器が発見されている
その辺りから新幹線の沿線くらいまでにかけて 平成になってからも 発掘調査が行われていて
当時の遺構があると遺跡分布図に載っているんだ
そして 茂沢の縄文時代の遺跡に辿り着いて もしかしたらそれ以前
土器のまだ造られなかった 旧石器の時代にも誰か軽井沢に暮らしていたかもしれない
軽井沢って そんな時代から 人が暮らしたり通過する道があったところなんだ
おっ ! 昔話をしているうちに・・ 空模様が変わって来たね・・
やっぱり今日は STAY HOME! しよう