モーリの切り絵を楽しむ!!

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我が半生その② 「やれば出来る・何時やるのか」!!

2013年02月11日 | 老後の生活費(年金など)?
勉強などしませんから当然、高校も進学校では無く工業か商業へ・・。
自分なりに、これからの日本は機械化が進み産業も大きく変化しそうと思っていました。

ま~あ勉強できなくても入れる工業高校へが本音かもしれません。
団塊の世代の競争が激しく、高校入試も大変な競争でした。
何せ小学が12学級(55人)、中学は15学級(55人)と物凄い生徒の数です。

でもどういう訳か・・、工業高校の機械科だけが定員割れして無事に入学しました。
他の学部はもう3~4倍の狭き門・・、やはりその時から自分は運が良いと思いました。

1年・2年と最低線で時には赤点を取りながら、何とか進級して来ましたが・・・

有る日先生が「お前ら、自分はやれば出来ると思ってるだろう・・。 そう思って一生終わるやつも大多数!
やっても出来なくてもいいじゃないか・・、本当に死に物狂いで何かを一生に一度くらいやってみろ!」
この言葉にガクーンと頭を叩かれた思いがしました。

「では本当に自分は何時やるのか?」 「やらないでこのまま一生を終えてしまうのか・・」
今しかやる時が無いと・・、復習からやり始めました・・、その内に予習もやりだす・・。

段々と内容が判るようになり、勉強が楽しくなって来ました。
でも暗記ものの社会・歴史・地理・国語・倫理・英語等には全くダメでしたが、工業ですから専門教科の「機械力学」
「機械材料」「応用力学」「機械製図」「数学」「熱力学」「自動制御」等の全12教科のうち7教科が好きになりました。

試験の結果が上位10名が貼りだされるのですが、自分にはまるで縁の無かったのですが、有る時から専門教科に名前が出るようになりました・・。
周りもそうなると友達が変わり、進学組の優秀な仲間が増え始めますから不思議です。
「お前最近変わったぞ?」「どうした・・?」  「自分でも判らない・・、有る日突然神が降りた様だ・・」


仲間と賭けをするのです・・、「今度の試験で6教科100点を取る!」と学食のパンを賭ける事もしばしばでした・・。
当然答えが一つしかない数学や専門分野は自分の得意な範囲ですから・・、判ってくると試験問題も自分で作れるようになる物ですね。
仲間と想定問題を作りあって事前勉強をする・・、その甲斐あってか見事6教科100点を取る(4回連続)。 勿論学食のパンを御馳走になる。
実は自分は小使いなど貰ってないので、負けると大変だったのですが・・?  それが3年の2学期から急変して無事に卒業できました。
この頃は高一の夏休みからアルバイトし、夜は郵便の速達などの配達などもしていました。

●ダッコちゃん(昭和35年)


●昭和30年代の街の様子


●ローラー絞り付機能付きの洗濯機(昭和37年)



◆人生の転機

まさにそれは「自動制御」を卒論に選んでからです。
その頃は工業の機械科を卒業しても、東京や大阪などの大都市に出て現場要員(機械工)になる人が殆どで、設計等には携わらない。
でも「自動制御」は我が人生を切り開いてくれました。
簡単にいえば、人間が行う動作を機械に代わりに行って貰う事になりますが、自動制御の学問自身がまだ新しく、大学でもごく一部でしかやってませんでした。

人は歩く時「何処は行くか」「どの道を通って行くか?」「所要時間はどのくらいか?」「そこで何をするのか?」「歩く速度は?」「寄り道するのか?」等を
自然に考えて行動しています。 それを機械にやってもらうには大変なことです・・。 常に現状をフィードバックして現在地を確認する事が必要です。
駆動部は機械か電気か?、検知部は何を使うか? 応答範囲は? その精度は?などなど問題が山積でしたが・・?
お陰で多くのチャレンジをする事ができました。

そんな学問との出会いが「卒論」になり、当時の高校の先生でも判る人も無く、図書館で必至に勉強しました。(図書館に入り浸り)
国内でもこの「自動制御」を活かせる職場も一つしかなく、その求人が来るのをじっと待っていました。
他の人達がどんどん決まって行くのを横目に、求人が来る保証もないのに・・・、でも自分には求人が来ると確信が有りました。
夏が終わり9月の末に先生から「求人来たぞ!」、やっと求人が来ましたが当然合格する積りでいました。 


昭和41年3月に上京して会社の近くに下宿生活(2人で一部屋・6畳)です。  同期で12名採用(学卒も)されました・・。
初めは研修で機械加工やドリルの穴明け、部品の組み付けなどの試雇期間3カ月が過ぎ、いよいよ配属部署の決定です。
自分はこれまた運よく「設計部技術課」に配属となりました。  本人の希望通りですが、学卒でも現場に配属される人もいました。

勿論あの頃は残業が当たり前で毎日8時頃まで仕事、休みも日曜日だけそれも休日出勤し残業が100時間を超すのが当たり前でした。
給料は本給の倍になりましたが、多忙で使う場所もないほどでした。  土曜日は半どんでしたネ!
ときどき同期と下宿で一升瓶やビールを買いこんで騒ぐのが楽しみでした。

有る時課長が「学校で学ぶ3・4年なんて初歩の初歩、これから学ぶ事がどれだけ多く有り大切か、それが自分の血や肉に成り自分を形成出来れば大きな財産になる!」と・・。
「電気油圧サーボ」、自分は機械科ですから、電気や油圧は全くの未知の分野、それでもこの時期に本当の多くを勉強し学びました。
その時は毎日が学ぶ事が多く楽しく、貪欲に一生のうちで一番多くを学んだ時期でした!(東大・東工大卒の人達からも多くを学びました)

会社の顧問が東大の機械工学部(自動制御)の学長さんで、良く色んな事を教わりました。  
その息子さんが社員で営業(6歳年上)でしたので、良くご自宅(世田谷)にも遊びに行きました。

◆3度の死にぞこない(一歩間違えば死かも・・)
●3歳の時の腸チフス
●小学校の時、引潮に流されて
 夏休み町内会の主催で毎年 雨晴海岸へ出掛けます。 その時に浅瀬で遊んでいた自分他3名が凄い引潮にのみ込まれ沖へ沖へと流される。
 自分は泳げないので、じたばたしないで力を抜いたら、自分だけ不思議と元の場所に戻され、後の3人は監視員に無事救助され病院へ行きました。
●冬の自転車がバスの下へ
 通学に自転車を使っていましたが、冬の北陸は雪が多いです、有る日バスを追い越そうとして自転車がスリップしてバスの下に入り込んでしまう。
 バスの運転手が直ぐに気付いて急停車・がりがりと音がしたと・・、おっかなびっくり降りて来た運転手の顔は真っ青?
 所が自分は何もなっかったように這い出てきたそうです。 自転車も何処も傷もなく・・?(ハンドルが少し曲がってましたが)

それでもまた転機が来ました・・・、まだまだ続きます・・・。
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