奇跡講座ワークブック編
「私は私自身のためにあがないを受け容れます 」(レッスン139)
改めて139。読むのが大変。否定の否定で肯定、ならまだ解りやすいが!
「選択とは私達が何であるかについての不確かな気持ちの状態以外の何ものでもないでしょうか」
↓
強調でない通常の文【選択とは私達が何であるかについての不確かな気持ちの状態だ】
「その不確かな気持ちがここに根差していないことは疑いがありません」
↓
強調でない通常の文【その不確かな気持ちがここに根ざしています】
「私達が何であるかというこの質問を反映しない質問は存在しません」
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強調でない通常の文【全ての質問は、私達が何であるかというこの質問を反映している】
「私は何だろう?という一つの単純な質問を伴わない葛藤は存在しません」
↓
強調でない通常の文【全ての葛藤は、私は何だろう?という一つの単純な質問を
伴います】
「自分自身を認識することを拒否している人以外の誰がこの質問を
することができるでしょうか」
↓
強調でない通常の文【自分自身を認識することを拒否している人が
この質問(私は何だろう)をすることができます】
これらの文章、一回自分用に訳さないとわからんときある。
それはいいとして、次の文「自分自身を受け容れることを拒否すること
によってのみ、この質問(私は何だろう)を誠実なもののように
思わせることができます」が、何気にハッとさせられました。
まるでパラドックスのようなことに気が付きました。
「私は何だろう?」という質問をしている限り、自我の私から
脱出できない。ということです。
「彼がまるで知らないかのように質問すれば、それは彼がそうであるものを
欲しないことを示すだけです」
「この身体は私です」という認識は、自分への最大級の最初にして
最後の自己欺瞞になる。確かに。それでも、理解の範疇を超えないが。