砂漠の朝

大人になれない人の育児日記。
奇跡講座ワークブックを実践中。

8月10日

2022-08-10 11:28:40 | 奇跡講座テキスト or ワークブック
奇跡講座ワークブック編

レッスン123~124の復習(レッスン142)

レッスン142~150まで、全くおなじことをします。
一応121から140までのレッスンの復習ということになっては
いますが、毎日同じことをします。実践が伴っていないのに、
レッスンを進めたくてついつい次に次にと説明文を読んでいたので、
こういうレッスンはありがたいです。

朝晩、1時間に1回思い出すもの
「私は身体ではありません。
私は自由です。というのは、私は神が創造したままの私だからです」

今日は、レッスン124の「神と一つです」というテーマが
なんだか安らぎます。
あさってはお盆です。コロナなのでなるべくさっと帰りたいけど
それを提案する気力も正義も願望もない。ため息ばかり。
あ、その気持ちもワークしないと。

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8月8日

2022-08-09 13:28:08 | 奇跡講座テキスト or ワークブック
レッスン141(121と122の復習)をやっております。

「この思いは、私が望むものではありません。
その代わりに、私は(   )を選択してます。」

()にはそのときどきの言葉を入れています。「一つの心」を
当てはめるとなんだか視界がぱっと開けたのでグッドです。

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8月9日

2022-08-09 06:12:54 | 奇跡講座テキスト or ワークブック
奇跡講座ワークブック編

レッスン121~122復習(レッスン141)

常に実践を、という感じの復習です。でも忘れずにいるのは自我なので
うーん。また煙に巻かれているような・・・スピリチュアルにハマるのは
やっぱり危険というのが少しわかるような。ラクしてどうにかという
魂胆だからね、私の場合。何も起こりませんように!と毎日願ってるけど
本当に本当に苦しいことが起きてからでない限り、何も始まらないのか
もしれない。悲しいことに何も起こらないのだよな。もはや誰も近寄って来ない

上記↑思いひとつひとつ、レッスン対象になります。

「この思いは、私が望むものではありません。
その代わりに、私は(  )を選択します。」

復習期間、常にこれ↑を行う。プラス、朝晩15分、&1時間に1回、以下↓

「私は身体ではありません。
私は自由です。というのは、私は神が創造したままの私だからです」


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8月8月

2022-08-08 13:52:28 | 奇跡講座テキスト or ワークブック
昨日のおそば屋さんのことで、またも、あることないこと想像して
(実際には全くない、と思う)少しだけ面白くない気分になりましたけど、
なんとか軽~い心持ちに戻りつつあります。

私自身のことを言うと、これでもかってくらい友達にスルーされて来たので
自分の気持ちや嗜好について言わないように気をつけてる。そのため他人に
対しても厳しいジャッジをしてしまう。自分のコンプレックスを刺激されると
「自慢?」「何が言いたい」「何アピールですかそれ」とか思ってしまう。
どんなに優しいかしれん人に対しても、刃を向けてしまう。
その時々ではなく、数ヶ月前のことを掘り起こしてまで。あぁ、この世界で
私の味方は誰もいないなぁ、正義ふりかざすからかだろなぁ、等など、
その辺のことでまた落ち込みますけど、「身体は私にあらず」とか
奇跡講座ワークブックのレッスンを実践(言葉ではなく)すると、
「嫌われていいんだわ」とか、「何やっても大丈夫だわ」という心になる。

(自我を)見過ごす
(出来なくても)練習中
(私は身体でなく)神の子

そう思うように頑張ってるレベルなので、なんとかそれが平常です
となるようにするつもりでいます。これを聖霊にお願いします。


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8月7日

2022-08-07 17:45:03 | 奇跡講座テキスト or ワークブック
「私達は自分の幸せを得るだけのためにここにやってきたのではありません」

一般的に言われてることだけども。とってもガッテンしております。
ガッテンしかないレッスン139「私は私自身のためにあがないを
受け容れます」。

誰か偉い人が、「自分の利益だけを求めてはいけない」
と言っても、そりゃわかってるけど自分の生活だけでいっぱいだし・・・、とか
思春期の少年のように反発したり、利益を求めようにも方法がわからない、
というふうにしか反応できなかった。母が倒れたとき、実家に行くと
ユニセフの資料があった。家でひとりになった父が募金をしたのだ。
どうしてもそういう解釈になってしまう。だから、そういう解釈では
限界がある。
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8月7日

2022-08-07 16:57:29 | 奇跡講座テキスト or ワークブック
奇跡講座ワークブック編

「私は私自身のためにあがないを受け容れます 」(レッスン139)

改めて139。読むのが大変。否定の否定で肯定、ならまだ解りやすいが!


「選択とは私達が何であるかについての不確かな気持ちの状態以外の何ものでもないでしょうか」
 ↓
強調でない通常の文【選択とは私達が何であるかについての不確かな気持ちの状態だ】


「その不確かな気持ちがここに根差していないことは疑いがありません」
 ↓
強調でない通常の文【その不確かな気持ちがここに根ざしています】


「私達が何であるかというこの質問を反映しない質問は存在しません」
 ↓
強調でない通常の文【全ての質問は、私達が何であるかというこの質問を反映している】


「私は何だろう?という一つの単純な質問を伴わない葛藤は存在しません」
 ↓
強調でない通常の文【全ての葛藤は、私は何だろう?という一つの単純な質問を
伴います】


「自分自身を認識することを拒否している人以外の誰がこの質問を
することができるでしょうか」
 ↓
強調でない通常の文【自分自身を認識することを拒否している人が
この質問(私は何だろう)をすることができます】


これらの文章、一回自分用に訳さないとわからんときある。

それはいいとして、次の文「自分自身を受け容れることを拒否すること
によってのみ、この質問(私は何だろう)を誠実なもののように
思わせることができます」が、何気にハッとさせられました。
まるでパラドックスのようなことに気が付きました。
「私は何だろう?」という質問をしている限り、自我の私から
脱出できない。ということです。
「彼がまるで知らないかのように質問すれば、それは彼がそうであるものを
欲しないことを示すだけです」
「この身体は私です」という認識は、自分への最大級の最初にして
最後の自己欺瞞になる。確かに。それでも、理解の範疇を超えないが。


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8月7日

2022-08-07 16:22:52 | 奇跡講座テキスト or ワークブック
奇跡講座ワークブック編

「救いだけが癒すと言うことができます」(レッスン140) 

今朝、自分の顔を鏡で見たら、すごく不安げで表情はこわばって、
エゴまみれで、もう完全に獣と化してたので、どこにもでかけたくない!
という状態に陥っていましたが、
「私が思っている理由で怒っているのではありません」(レッスン5)
を思い出して唱えたら「本当にそうだなぁ」と共感でき(以前は必死に怒りを
抑えることしかできなかった)怒りがどこかへ消えた。私ではない自我が
私の心を占有してたことがはっきりわかった。そしてほっとして
「よっしゃでかけるぞー!」となった。その後、おそば屋さんで
不穏な出来事があったが、平気過ぎた。どこへ行っても無限に元気だった。

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8月6日

2022-08-06 06:09:29 | 奇跡講座テキスト or ワークブック
奇跡講座ワークブック編

「救いだけが癒すと言うことができます」(レッスン140) 

”父よ、私達が癒されるように、私達に語りかけてください。
そして、私は救いが柔らかなお守りと安らぎで私達を覆ってくれることを
感じるでしょう。そして、安らぎは非常に深くあるために、いかなる幻想も
私達の心を乱すことなく、それが実在するという証拠を差し出すことも
ありません。”

1時間にこれを思い出して、唱える。

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8月5日

2022-08-05 17:14:02 | 奇跡講座テキスト or ワークブック
奇跡講座ワークブック編

「私は私自身のためにあがないを受け容れます」(レッスン139)

なぜ生きるのか?なぜなぜの連続に、少しだけ納得できたような、
そんな気がしてます。これも「幻想」なのでしょうが。 

130に入って、ガッテンの連続です。どんなにレッスンを唱えても、
どんなに瞑想しても、結局、この世界での私の面白くなさ、つらさ、
を和らげたり、忘れたり、捉え方を変えようとしてみたり、受け容れたり
拒否してみたり。。どれもこれも笑っちゃうくらいに同じでして。

これもまた日にちが過ぎればまた忘れ、同じようにまた不満、不安、
怒り、解らなさの渦に飲まれるのでしょうが、とりあえず今日は記念日に
したいくらいです。

喜ばしい気持ちとか晴々とした気分とか、そんな感じじゃないのですが。
実際、デパートでオドオドしてたし。でもオドオドが今までのオドオド
じゃないような気がしました(オドオド多

今までのオドオドは、人にどう思われるかのオドオド。オドオドを
どれだけ隠せるか?ということに重点を置いていました。
今日のオドオドは、上記に加え、ただの恐怖もあった。
それが何気にまともな感じがした。単なる経験不足から来る・・・。

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8月5日

2022-08-05 12:35:19 | 奇跡講座テキスト or ワークブック
奇跡講座ワークブック編

「天国とは私がくださなければならない決断です」(レッスン138) 

今日は絶対に外出しようと思い、デパート行った。いつもよりも心に
余計なものがないような気がしたが、やっぱり通りすがりの人の視界に
私が入ったとき、どう思われるかが恐くて、そして、欲しいものが
なかったので、早々と帰ってきた。
娘の行動も気になったが、怒りなどはなく。ただ娘が誰かとぶつかったり
するんじゃないか、それが恐かった。娘のケガが心配なのではない、
相手にケガをさせてしまう心配ではない。そんなの大したことないに
決まってる。ハプニングに対して誰に、何を、どう言えばいいのかさっぱり
わからないのだ。いや、本当はわかってる。その場から(いや人生から)
立ち去りたい・・・。

私はどう振舞えば、人は許してくれるのか、何を言えば(言わなければ)
人は許してくれるのか?人とは誰のことなのか


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8月4日

2022-08-04 15:35:52 | 奇跡講座テキスト or ワークブック
今朝、”急に何もかもいやになる病”が来て、いつも通り娘と会話すると
何かがプツンと切れそうだったので、娘のあそぼうをスルーして、目を合わさず
家事をやること数十秒、さすがに娘「いやだ、いやだ」と不快感をしめして
きました。これは、最近なかった生理の日に似ていると思い立って、そういえば
と、口内が荒れていることにも気付け、ああ、これは私ではない、と軌道修正
できた。いつもギリギリです。こんな母、社会からそりゃ非難されます。

それから、なんとなく仲直り。。というか私のひとりよがりなのだが。
まぁ、娘に許してもらったのかな。いつもありがとう。

今奇跡講座ワークブックのレッスン137をやって癒されています。
前記事の悔しさやみじめな思いは今はありません。娘の将来の不安もありません。
目ん玉で見るのではなく、気流で見る、みたいな感覚です。実際何も見えてないですが。
これが続けばかなりラクになりそうなんだが、今日占いが2位だったな。単に調子が良い日
なのかな。。

引き続き、身体と(真実の)私は無関係。”身体は実在したことがない”、さすがに
このように思うには無理がある。ワークブックでも、「身体はもはや真実より強力」と書いてあるし。
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8月4日

2022-08-04 06:59:18 | 奇跡講座テキスト or ワークブック
奇跡講座ワークブック編

「私が癒されるとき、私一人だけが癒されるのではありません」(レッスン137)

誰とも話が噛み合わず苦しい。悔しい。どうしても私だけが取り残されているような気がして、
私が欲しい情報は入って来ず。情報が入ってきたとしても、私はそれを間違って使うからだろう。
粗末に、使い方も解らず、放置して、古くさせて活用出来ないからだろうな。

そんな自分を見過ごそう。「この身体がしたことについての思いと真実の私とは無関係です」

今日は、1時間に1分、以下の思いを思い出す。
「私が癒されるとき、私ひとりだけが癒されるのではありません。私は私の兄弟を祝福します。
というのは、彼らが私と癒されるとき、私は彼らと癒されるからです」

最後の文章がまた謎解きみたいな文章ですが、このワークがすんなり読めないのは、
神目線で書かれてるから、だと思った。「というのは、~だからです」の文法で理解できる
はずの説明が説明になってなくて余計に意味がわからん!し。

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8月3日

2022-08-03 11:44:49 | 日記
何もしないでじっとしておく。これは、自我を暴走させないのが目的だけど、
結局、私の身体(自我)自体がもともとそういうタイプで、まず誰かの動きを
みてから自分の行動を決める、自分の立ち位置を決める、思考を決める、
というのが私なので、この試みは自我をさらに強化しているに過ぎません。

だとしたらもう、私は一体どうやって心の平安を保ったらいいのか?
解決策は身体から脱出する、と言ったところで、脱出出来る可能性があるのは、
結局今、幸せな人たちであって。どうしても身体を優先させる今の私に
希望を持つことは出来ない。

とりあえず、肉眼の目で何も見たくない。ジャッジするし間違うし。
でもずっと目を閉じておく、というわけにもいかないので、とにかく
自分の気持ちを誤魔化さず、そしてその気持ちと(本来の)私とは
無関係と認識する練習を続けていくしかないのかな。
一体どれだけ失敗するだろう?どんなに苦しめられるだろう?
先のことは考えないでいよう。そのときには全てが終わっているはず。


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8月3日

2022-08-03 08:52:12 | 奇跡講座テキスト or ワークブック
奇跡講座ワークブック編

「病気は真実に対する防御です」(レッスン136) 


今日のキーワードは「見過ごす」です。今まで誰かのやったこと言ったこと
にフォーカスを当てていたように思うのですが、私に対してそれをやろうと
思います。

社会参加できない私を見過ごします。
ピアノが弾けない私を見過ごします。
コミュニケーションがとれない私を見過ごします。


泣きたくなるのは自我の自己憐憫。

私の「監視、軽蔑(優越)」は、全て私自身に向けられているもの。
だから、誰のずるさも許さない。見過ごさない。
自分を本当は出来る人間、少なくとも平均的な人間という、ボロボロな夢を
まだ大切に抱えている。それこそ自己欺瞞(嘘)。私だけが認めていない。
騙せる人だけでも何とか騙そうと思っているけど、もう限界。
それが修正(奇跡)であり、絶対に間違わない神の計画。私を地獄に
落とすのではなく、幸せにするための神の計画。あ、また泣けてきた。
感謝しています。

私はコミュニケーションが取れない私を見過ごします。
人とコミュニケーションが取れない私で幸せになります。

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8月2日

2022-08-02 23:44:46 | メモ
・身体と私は無関係
・この出来事と私は無関係
・この行動と私は無関係

・皆、神の子
・身体=私 と思うのは自己欺瞞(自分に嘘を付いて自分を欺くこと)

・霊(スピリット)こそ生命(永遠)、幸せだけを望んでいる
・身体は死(いずれなくなる)、目的はない(意味なし)


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