問答無用!
東京地裁で内柴被告に判決
酒に酔って寝ていた部員の少女を暴行したとして、準強姦(ごうかん)罪に問われたアテネ、北京両五輪の柔道金メダリストで元九州看護福祉大(熊本県)女子柔道部コーチの内柴正人被告(34)の判決が1日、東京地裁(鬼沢友直裁判長)である。検察側は懲役5年を求刑していた。
検察側は公判で、「目を覚まして叫ぶと、手で口をふさがれた。部屋を出る際に口止めをされた」とした少女の証言は、直後に別の部員に被害を打ち明けている点などから、信用できると主張した。
その上で、「(少女は)信頼していた指導者から裏切られ、深く傷ついた。被告は欲望の赴くまま行為を開始し、倫理観は破綻している」と批判した。
内柴被告側は、「直前のカラオケ店で性的行為をされ、ホテルでも合意の上だった。少女には、交際相手への言い訳という虚偽の被害申告の動機がある」として無罪を主張していた。
起訴状によると、内柴被告は合宿中の2011年9月20日未明、東京都八王子市のホテル室内で、酔って寝ていた少女に乱暴したとされる。
求刑は懲役5年!
無罪を主張する被告の供述と、女子部員の証言内容が食い違っており、どちらが信用できるかが主な争点となった。
検察側は「酔って寝ている間に乱暴された」との部員の証言を「他の部員の証言や客観的証拠と一致している」と指摘。
弁護側はこの証言を「不自然、不合理だ」とした上で「部員は起きており、合意の上だった」とする被告の供述の方が信用できると主張していた。
私も、柔道と空手をしていましたが内柴正人の犯した罪はスポーツ精神にもっとも反する行為であり、如何なる面から考察しようとも正当性はみじんもありません!
婦女子に手をかけるなどは、言語道断の一言である!
スポーツ化した現在の武道は、武道を通じて心身を鍛え常に礼節を重んじ社会に貢献する人間をつくるという一言に尽きます!
ところが内柴正人のなしたる所業は破廉恥そのものであり、指導という名目の影に隠れた所業は決して許されざる行為であり断罪されてしかるべき者であります!
金メダリストともあろうものが、柔道という歴史と伝統に大きな汚点を残してしまいましたことは、まことに遺憾であります!
ここに面白い記述がありますので記載します。
武道精神と武士道精神。
似ているようで、全く違う。ここを誤解していると少なくとも現代日本(と先進国の世界)では全く通用しないことになる。
だが、ここも誤解して欲しくはないのだが…。
武士道精神は武道精神から生まれたものだ。
端的に言ってしまおう。
武士道精神は武道精神から生まれ日本の封建制下での騎士道精神となったものである。
従って、武士道精神は日本独特のものだが、武道精神はいかなる時代・体制下でも通用する普遍の思想である。
何が異なるのか。
目的が、全く異なる。
武道精神の根源は生き残ることである。
そのためには何でもありで、全てのものを利用するのである。
つまり人格陶冶によって社会に必要とされる人間になることにより社会に自分を守ってもらうことさえも是とした。
一方、武士道精神は、飽く迄も統治者たる主君に忠誠を誓うことによって社会を維持する”ことを目的とした支配者側の統治理論であり、その体制下での望ましい官僚・軍人を兼備する部下”(=侍)としての倫理である。
だからこそ、いざとなれば自死という手段を用いても社会の維持=主君への忠誠が優先されるのだ。
だから、武士道精神は、まず封建体制下及び絶対王政下でないと成り立ち難い側面がある。
日本の戦後のように、忠誠を誓う対象が会社になっても、ある程度の効力は発揮するが…。
最後の精神的な砦(=絶対的な砦ではない。なぜなら、主君を諫めるための切腹が存在し、また、それは肯定されたのだがら)である自死までされると、少なくとも資本主義体制下(=発達すれば必ず民主主義体制となる)での会社にとっては迷惑この上ないことになるからだ。
高々、命を繋ぐ程度の意義しかない仕事で死なれてしまうと、会社はそこまで責任を持てないのだから。
そんなに現在の会社に嫌だ合わない不満があるという感情を持っているのだったら、転職すればいいのである。
仕事というのは、せいぜいその程度のことなのである。だからこそ、自己責任”ルールが貫徹されるのである。生きるために止む無くしなければならないことという共通認識があるからこそ、各々の責任ですべきことという軽い責任の取り方で許されるのだ。
そうでなければ、国家が保障すべき類の国民の命を保障するという、国家の存亡を賭けた第一義的な責任の取り方をしなければならないのだ。
だから武士道精神を標榜するのは、この発達した資本主義で(少なくとも,建前は)民主主義を目指す体制下では、かなりの困難を伴う。
まず、在野では単なるお題目になり下がる危険性が多分にある。
所詮、実行できる立場にはない、単なるお題目を唱えるだけになりがちだからだ。
先程も言ったように、飽く迄も軍・政兼備の官僚としての心得が、武士道精神の根本である。
従って、高度に専門化・分業化された近代行政には、全く合わない。更に、在野であることは、想定されていない。統治機構の部下としての心得なのだから,当然である。
つまり、現代の単に職業的プロフェッショナルである行政官僚からすれば、はた迷惑でしかないのである。
もちろん、行政官僚は国を背負ってはいる存在の一つでは,ある。
しかし、いざとなれば他の職業に転ずることもできる、一般の職業人と何ら変わることはない存在なのである。
そういったときに、最終的に自死をもってしても上位者を諫めるあるいは職を全うする存在は、鬱陶しくて仕方がない存在でしかない。
蛇足ながら、ごちゃごちゃ言うな!
黙って俺についてこいという論理が否定されるのは上記の理由により“明白であり、また,少なくとも(発達した)資本主義体制下では、(自分で判断出来ない未熟な職業人は存在しない、という前提[=自己責任ルール]から)成り立ってはならない、もしくは成り立ちようがない倫理(もしくは論理)なのである。
しかし、武道精神はー、これとは全く異なる。
どんな手段を講じても、生き残ることが前提なのであるから、いつの時代でも、いかなる体制下”でも、どんな階層”に属する人間にとっても、等しく有効性を発揮するのである。
もちろん、全ての体制をそのまま全ての要件を肯定するものでもない。
個人の選択によって、(ある意味)過激な行動に走ることさえ,あるかもしれない。
しかし、そのことでさえも、結果的に生き残れば肯定できる幅の広さを、武道精神は持っている。
つまり、(私個人は肯定しないが)赤色革命(=共産主義革命・社会主義革命)でさえ、肯定できる幅の広さが、武道精神にはある。
でないと旧ソ連体制下(旧共産主義体制下)で武道が普及するわけはないではないか。
言わずもがな文化大革命という愚かな政治的運動”を繰り広げた中共でさえ、武道大国(=件の国で言う武術大国)であることは、論を待たないであろう。
こういった自称、共産主義国家、社会主義国家は、形を変えた全体主義国家であるから、まだ武士道精神が普及しやすい環境にあるが…。
それでも,“武士道精神”の“片鱗”は見えても,“武士道精神”自体は“かなりの変形を余儀なくされる”のは,当然であろう。
何と言っても大前提として、それらの国々“日本ではないのだから。
だから一概に武道精神=武士道精神ということを肯定する輩は、バカとして相手にはしない。
当たり前だが、武道精神から武士道精神は生まれてくる(or生まれてきた)が、その逆は確率論的にないからである。
武道精神は、そんなに幅が狭くはないのである。
上記のようなことをわかった上で、敢えて武士道精神を標榜とする態度は、むしろ尊敬に値すると思うが…。
思想的な意味で、今の仕事(or会社)に命を掛けるのと、全く同じだからだ。
つまり、思想的な内容にではなくて、その覚悟に対して、充分以上に尊敬に値するのではなかろうか。
こういったことを一々論じなければならない武道界及び日本の思想的状況(←わずか百年ちょっと前までは当然とされていた統治思想の一端ではあるので)は、何かしら、うすら寒いものを感じずにはいられないことには変わりがない。
なかなかの分析です!
まさしく武士道とは、日本人の心の支えでしたが戦後の教育と繁栄により忘れさられてしまいました!
武士道は、かつて日本精神の精華と称えられましたが、明治以降、徐々にその伝統は衰え、今日ではほとんど消え去ってしまいました!
こうした現代において、日本には武士道の復活が必要だという意見が、根強く存在します。
いまの日本人、とりわけ若者たちになにが欠けているのかと考えると、先達が残してくれた偉大なる精神文化・武士道こそが欠けているのではないかと思います。
『武士道』とは、己を自己管理するための精神的・肉体的修行なのですが、自己を管理するためにはまず、自己を発見する必要があります。
それは、自分の目の前にあるどんな些細な出来事にも、ひとつひとつ真摯に取り組んでいく姿勢なのです。
マニュアルなどは、存在しません!
『武士道』は、己の心身を強化し、我慢を重ね、調和をはかり、そして弱いものを守るための修行なのです!
そのために死生観と美学があり、そのような精神性が、いまの日本人にはいちばん欠けているのです!
本当の意味の精神性の高揚が、いまほど求められている時期はありません!
悲惨たる国情を見よ!
真の武士道とは、大きく分けて二つあります。
一つは、欲望を抑え、辛いこと、苦しいことに耐え、自分を磨くこと…名誉を重んじ…勇気をもって悪と戦うこと…!
二つ目は『公』のために生きることは立派なことだと教えています!
かつての日本人は、高い精神をもっていました!
その精神のよき表れが、武士道でした!
武士道を見直すことを通して、現代の日本人が忘れている、日本の精神文化を取り戻すことが日本再生に繋がります!
弱きを助け、強きをくじく!
武士道とは、己を捨てることにある!
己を捨てずして何事も、成らぬ!
個々飄々と時を待つ!