北朝鮮が米朝枠組み合意(94年)でプルトニウムの核開発を凍結し、見返りの軽水炉原発の建設が始まった翌年の98年、新たにウラン濃縮による核開発に着手していたことが分かった。米当局は北朝鮮が2000年にウラン濃縮による核開発を始めたと判断していたが、実際にはその2年前の段階で秘密裏にウラン濃縮プロセスに着手していた。北朝鮮は核開発凍結の枠組み合意に反する形で、原料となる六フッ化ウラン(UF6)の製造をパキスタンの協力で進めており、核保有に強く固執していた北朝鮮側の実態が浮かび上がった。
北朝鮮は80年代から寧辺(ニョンビョン)の核施設に原子炉などを建設、使用済み核燃料を再処理し、抽出したプルトニウムを使った核兵器製造を目指した。しかし、米国と交渉の結果、94年10月に軽水炉2基の供与と引き換えに核開発を凍結する枠組み合意を締結。プルトニウムを含むすべての核開発活動を停止させ、97年8月には咸鏡南道(ハムギョンナムド)琴湖(クムホ)で軽水炉の建設が始まった。その後、北朝鮮は秘密裏にウラン濃縮による核開発を模索した。
国際原子力機関(IAEA)の核査察活動に詳しい複数の外交筋や核専門家によると、北朝鮮当局は、ミサイル輸出で関係を築いたパキスタンの「原爆の父」と呼ばれるカーン博士と接触して90年代半ばにウラン濃縮用の遠心分離機などを入手。98年4月には、試作したUF6をカーン博士に送り、成分分析を依頼した。だが、この時点では精度が悪く、品質向上のためパキスタン側が自国製のUF6、劣化ウランガスなどを送り返した。
北朝鮮産と見られるUF6が初めて確認されたのはイラク戦争開戦後の2003年12月。場所は、核兵器開発断念を受け入れたリビアだった。IAEAの核査察団が、約1.7トンのUF6が詰まった大小のシリンダー計3本を見つけた。大シリンダー(直径76センチ、長さ2.1メートル)には1.6トン、小シリンダー(直径13センチ、長さ91センチ)の1本には、25キロのUF6が詰まっており、もう1本の小シリンダーには、濃縮には使えない劣化ウランガス25キロが入っていた。カーン博士が率いる「核の闇市場」は、97年にリビアと20トンのUF6売却で合意していたことも判明。いずれのシリンダーにも、パキスタン製を示す製造番号があった。
大シリンダーに詰められたUF6が核物質に関する世界中のデータと照合しても合致せず、IAEAが生産地を突き止める調査を開始。その結果、(1)カーン博士が北朝鮮からUF6の成分分析の依頼を受けた(2)3本のシリンダーともパキスタンから北朝鮮に輸出されたが、大シリンダーの中身は空のまま輸出された(3)いずれのシリンダーも北朝鮮からパキスタン、ドバイ経由でリビアに渡った(4)リビアがUF6を受け取った翌年にマカオなどの北朝鮮保有の銀行口座にリビアから多額の金銭が振り込まれたことなどが判明した。
これを受け、IAEAは昨年9月の北朝鮮報告書で、大シリンダー内のUF6は「北朝鮮産である可能性が極めて高い」と指摘、北朝鮮が「核の闇市場」に代わり、UF6をリビアに供給した可能性を明らかにした。
パキスタンの「核開発の父」と呼ばれるカーン博士が、80年代後半から展開したネットワーク。ウラン濃縮用の遠心分離機や設計図、部品、核物質などを▽80年代半ばから90年代にかけてイラン▽90年代から2003年までの間にリビア▽90年代半ば以降は北朝鮮にそれぞれ売り渡した。アラブ首長国連邦(UAE)のドバイを拠点に取引を展開、マレーシアに遠心分離機製造工場を設置し、欧州やアフリカなどの企業に部品を発注して調達した。03年に米英情報当局の通報に基づき貨物船が臨検されて発覚、消滅した。
カーン博士は、オランダのデルフト工科大学でウラン濃縮に最も重要な要素とされる冶金(やきん)工学を学んだ。英独オランダ合弁のウラン濃縮会社「ウレンコ」の関連会社に75年まで勤務、遠心分離機用の特殊冶金開発に従事していた。その技術を持ち出し、76年、パキスタンに研究所を設立し、核開発を主導した。
天然のウランには、核兵器や核燃料に使えるウラン235が0.7%しか含まれておらず、核燃料に使う場合は約5%、核兵器の場合は90%以上に濃縮する必要がある。粉末状のウランを、気体の六フッ化ウラン(UF6)に転換し、数千台の遠心分離機を使って濃縮するのが最も効率的なため、日本を含め、多くの国がこの手法を採用している。
韓国有力紙、朝鮮日報(電子版)は7日、在日韓国大使館に派遣された韓国の情報機関、国家情報院の職員が、日本の記者や海上保安庁職員らに機密を漏らしたとして摘発され、昨年6月に解雇されたと報じた。国家情報院は機密の一部が北朝鮮側にも流出していたとみているという。
報道によると、元職員が漏らした機密は8件で、97年に北朝鮮から韓国に亡命した黄長※(ファン・ジャンヨプ)元朝鮮労働党書記の訪日日程など。日本人拉致被害者の田口八重子さんに関する情報を日刊紙記者に伝え、10年11月の北朝鮮による延坪島砲撃事件に関する分析を民放テレビ局の記者に伝えていたという。
解任を不服とした元職員が5日にソウルの裁判所に解任無効の訴えを起こし、明らかになった。元職員は「内容は機密とは言えない」などと抗議しているという。元職員は在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)などの担当として09年6月に日本へ派遣されていた。
北朝鮮のウラン濃縮活動は、プルトニウムによる核開発凍結の見返りである軽水炉原発の建設開始(97年)直後から「核の闇市場」と連携を取りながら極秘に進められてきた。外貨獲得目的に武器輸出を続けてきた金正日(キムジョンイル)体制の北朝鮮。金正恩(キムジョンウン)新体制となった今、経済危機脱却の糸口をつかむため、「核の闇市場」の主導者となってミサイル輸出ルートを使った核拡散に打って出るか、国際社会の懸念が広がるって居るが、経済封鎖解除や、食糧支援をしなければ核拡散は当然やるはずである。
カーン博士が76年に設立したカーン研究所(KRL)はパキスタンの首都イスラマバード東南東のカフータに所在。ウラン濃縮用の遠心分離機が数千台稼働するパキスタン核開発の中心地であるとともに、北朝鮮産の中距離弾道ミサイル「ノドン(パキスタン名・ガウリ)」の製造工場もある。この場所は、北朝鮮とパキスタンが「核とミサイルを交換」したとされる現場でもある。
イラン、リビアの秘密核開発が明らかになった2003年、両国に遠心分離機などを供給した「核の闇市場」が摘発され、グループのリーダーだったカーン博士は、自宅軟禁下に置かれた。
カーン博士が政府に提出した「告白書」などによると、北朝鮮関係者が、KRLに出入りするようになったのは93年ごろ。カーン博士が団長として訪朝、「ノドン」購入に合意し、研究所の南西部の敷地にミサイル組み立て工場の建設が始まった時期に当たる。初期の「P1型」、第2世代の「P2型」など、遠心分離機の製造工場もあり、北朝鮮技術者は、施設内を自由に歩き回れた。
「96年ごろ、北朝鮮へのミサイル代金支払いが滞った」。カーン博士は「告白書」で、核とミサイルの交換の経緯にも触れる。新旧両型の遠心分離機や関連部品が、その「代償」に贈られ、北朝鮮のミサイルを輸送してきた軍用機に積み込まれ、北朝鮮に戻った。
「ミサイル代金は現金で支払った」。核の闇市場が摘発された際のムシャラフ・パキスタン大統領は、「核とミサイルの交換」疑惑を重ねて否定する。だが、当時、経済的に苦境に陥っていたパキスタンの外貨準備高は、わずか3週間分の輸出入代金に当たる7億7000万ドルと、底をついていた。米国務省で長年、核不拡散問題を担当した英国際戦略問題研究所(IISS)のフィッツパトリック氏は「ミサイル代金は2億1000万ドル」と指摘するなど、多くの核専門家は、ムシャラフ氏の説明に疑問を投げかける。
パキスタンと北朝鮮の交流は1970年代にさかのぼる。カシミールの帰属をめぐるインドとの紛争を機に、米国は対パキスタン武器禁輸を決定した。インドへの対抗上、軍備増強が不可欠なパキスタンはソ連と接触したものの、ソ連はインドと蜜月関係にあるため交渉は難航し、安価なソ連型武器を供給する北朝鮮に狙いを定め76年には国交を結んだ。
71年の東パキスタン(現バングラデシュ)分離独立、74年のインド初核実験と、パキスタンの生存を脅かす国難が続き、78年に就任したハク大統領は「借用だろうと、盗み出しても構わない」と核兵器取得に躍起になったほどだ。ハク大統領の政敵だった元大統領のアリ・ブット首相が欧州から呼び戻したカーン博士の力で80年代半ばには核兵器開発(初の核実験は98年)は達成したが、それもつかの間、今度は、インドが88年に新型ミサイルを開発する。インドのミサイルの射程が大幅にパキスタンを上回る「ミサイルギャップ」という事態に直面した。
2度目の危機を救ったのは、カーン博士だった。外交筋によると、博士は92年ごろ北朝鮮に飛び、射程1300~1500キロとされる「ノドン」の買い付けに成功した。米議会調査局は「カーン博士は十数回、北朝鮮を訪問した」と指摘、ミサイル調達だけでなく、核開発の指導に当たったと分析している。
ただ、カーン博士自身は、92年と99年の2度しか訪朝していないとパキスタン政府に申告している。「博士の告白には、自己保身を図ろうとしている部分が多い」(外交筋)とされる。博士が北朝鮮で直接、ウラン濃縮に不可欠な六フッ化ウラン(UF6)製造や、遠心分離機の使用法などのほか、核兵器製造の技術指導に当たったかどうか、真相は現在も不明のままだ。
北朝鮮は、博士が「大変、役だった」と評価する核兵器の起爆技術を供与。99年10月に政権を握ったムシャラフ氏が、北朝鮮技術者を国外退去させるようカーン博士に命じるまで、蜜月関係は続いた。米国の圧力を受け、博士自身も2001年3月にKRL所長を辞任、以後、北朝鮮からパキスタンへのミサイル協力も途絶えたとされる。
北朝鮮のウラン濃縮活動について、米国の核科学者が10年11月に寧辺(ニョンビョン)を訪問した際、「P2」が約2000台設置されているのを目撃した。ウラン型核兵器の原料となる高濃縮ウランを製造できるため、国連安全保障理事会のほか、米国や日本など6カ国協議参加国が、即時停止を求めている。
これが北朝鮮の核開発の現状であると思っているようですが、北朝鮮の核開発は西側諸国が考える以上のハイペースで進められており、既に山岳地の地底や、海底に原発を設置して稼動させており、核開発も先進諸国並みにすすんで小型核弾頭も完成し、50発近い核を所有しているはずです!
故に、この国を経済制裁だの核査察だのではなく第三の道を考えるべきである!