主婦の苦悩の叫び!
この声をなんとする!
沢山の被害者がいるのに、加害者がいないのはおかしなことです。これでも罪を問えないのですか?
3.11。
こちらでも、追悼式や集会、シンポジウムなどが行われる予定です。
マンハッタンのアッパー・ウエストサイドの教会では、追悼式典が。
コロンビア大学では、『3年後の福島:残る者、去る者』と題したシンポジウムが開催されます。
3年という節目、と言う人もいますが、あの日から毎日、一日も欠かさず、被災地に思いを馳せてきた者にとっては、
そして誰よりも、当事者のみなさんにとっては、
なにが3年だ、3年がどうしたというのが、という思いが、どうしても拭いきれないのではないでしょうか。
3年経って、なにか良くなったことはあったでしょうか。
なぜこうまで、人々の尊厳がおざなりにされ続けたままなのでしょうか。
これが、国の経済を支える、ということなのでしょうか。
国は、このように非情で傲慢で残酷でなければ、続いていけないものなのでしょうか。
『福島原発告訴団』の、被害者証言集会における3人の女性の方々の言葉を、きーこさんが文字起こししてくださいました。
続けてここに、転載させていただきます。
「沢山の被害者がいるのに、加害者がいないのはおかしなことです」武藤類子さん3/1(文字起こし)
福島原発事故から3年
これでも罪を問えないのですか 『被害者証言集会』
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武藤類子さん:
皆さんこんにちは。
雨模様の中を沢山お集まりいただきまして、本当にありがとうございます。
いよいよ2月が終わって、今日から3月ですね。
もうすぐ春がやってきます。
福島では、2月に2度、大雪が降りました。
厚く積もった雪に、地面からの放射線が遮られて、線量が下がっていました。
しかし、春と共に雪解けがあり、また線量が戻りつつあります。
そして、何よりも楽しみな山菜を、今年は口にできるでしょうか?
あの日から、3年の時が流れました。
原発事故は今も終わらず、被害は形を変えて拡大しています。
日に日に深刻さを増す汚染水の放射能濃度が、間違えて少なく計算されていた事が、報道されました。
いまだに大量の放射性物質を放出する原子炉の周りでは、
1日3000人の作業員が、過酷な被ばく労働をしています。
4号機の燃料棒取り出し作業の現場では、毎時90マイクロシーベルトが計測されています。
帰還政策が盛んに進められていますが、果たして、この家に帰れるのでしょうか?
被害が無視され、必要な救済がされていません。
川内村のこの場所は、もとは、青々と稲が育つ田んぼでした。
今は、除染で出た放射性廃棄物が、累々と積まれています。
田村市都路(みやこじ)地区は、最初に避難区域が解除されます。
4月には、学校も元に戻ります。
避難先から、バスで40分かけて、通う子どもたちがいます。
今年の2月段階で、18歳以下の甲状腺癌、またはがんの疑いが、75人になりました。
三春町に出来る福島県環境創造センターでは、子どもたちが集められ、放射能に関する教育が行われます。
IAEA、JAEA、国立環境営業所が、常駐します。
そして、私たちの告訴告発は、全員不起訴となりました。
現在ここ、東京の審査会に、申し立てをしています。
11人の東京都議が、検察の判断の是非を審査しています。
甚大な被害を前に、だれも責任を問われないことは、理不尽です。
沢山の被害者がいるのに、加害者がいないのはおかしなことです。
事故を終わりにしてしまってはいけません。
真実を明らかにし、このような事故が二度と起きないようにするために、
私たちは被害を語り続けなければいけません。
それが、被害を受けた者の責任だ、と思うからです。
今日は、10人の証言者が、実際にここで、そして映像で、また、手紙の形で、自分に起きた被害を語ります。
事故から3年。
疲れ果てた心で、「自分は被害者だ」と意識し続けることは、大変なことです。
でも私たちは、リスクを受け入れ、黙って生きる道は選びません。
何度でも何度でも、「理不尽な被害に遭ったものだ」と思い起こします。
目をそらさずに、向き合っていきます。
最後までお聞きいただければ幸いです。
今日はどうかよろしくお願いいたします。
【手紙:伊達市】
「今日、ここに言葉を寄せる事でさえ、身構えてしまいました。 それだけ相手は大きいのです」
伊達市にお住まいの、シマアケミさんの手紙
1:16:25~
3年目を迎えて
本日は、発言の場所を頂きながら、この場所に伺えなくて残念です。
皆さんのお声をお聞きしたかったですし、私も直にお伝えしたかったのですが、
家族の入院のため、福島を離れることができませんでした。
私の住む伊達市の現状を、少しお話したいと思います。
伊達市は、福島県の北部に位置し、計画的避難区域になった飯館村の西側で、特定避難緩衝地点に指定、1年半後に解除された地域を含む市でもあります。
この、特定避難緩衝地点については、住民はかなり翻弄させられました。
いまだに解決はされていません。
住民同士の分断もそのままです。
学校教育現場においても、子どもたちは、精神的にズタズタにされたままです。
そのような環境であるにもかかわらず、行政からは、安全安心を刷り込む様な広報が配られ、
教育現場でも、「放射線教育」と称して、放射能の安全刷り込み教育がなされている状況です。
復興や風評被害防止の流れの中では、真実さえも見えなくなり、
起きてしまったことも、まるでなかった事のようになってきています。
放射能の危険性はいつしか、個人個人の、「気にするか、気にしないか」という、精神論にすり替えられてしまいました。
確かに、事故から3年経ち、セシウム134の半減期が過ぎたおかげで、なにもしなくても、モニタリングポストが表示する、空間線量は下がりました。
下がったとしても、事故前に比べると、それでも10倍ぐらいです。
土壌汚染は、かなりひどいままです。
通学路の路肩の土壌で、約10万ベクレル/kg。
地上近くで、3~10マイクロシーベルト/h以上の汚染も、点在しています。
「その部分を取り除いてほしい」とお願いしても、行政では放置したままでした。
「仮置き場がない」という理由からです。
だったら、線量が高い場所を、除染が終わるまで立ち入り禁止にするとか、何かわかるように目印をつけて下さいとお願いしても、放置されたままでした。
「高い場所があっても、その場所にずっといる訳ではないでしょう」
「道路ならば数秒で移動するでしょう、だから影響はありません」と、行政や国から言われました。
その場所の線量が、高いと知らない人達、特に子どもたちが、その場所だけを避けて、遊んだり歩いたりする筈がありません。
子どもたちの行動を見て下さい。
そんな場所で座り込んで、砂をいじって遊んでいます。
そんな遊びも事故前なら、微笑ましい事でした。
今はもう、そうではありません。
この環境での砂遊びや草むしりが、健康に影響を与えないなんて、誰も言えないと思います。
もちろん、子どもたちへの影響だけではありません。
私は、通学路をどうしてもそのままにはしておけず、汚染された土壌を自分で取り除いて、自分の庭に保管するしかありませんでした。
自宅の庭も、自分で除染しました。
土嚢袋、100袋以上になりました。
「自分で除染するなんて」と、否定的な意見もあるでしょう。
でも、避難できない私にとって、毎日の生活をそこで続けていくためには、自分でやるしかなかったのです。
そんな住民は、沢山います。
子どもたちのために、今すぐ線量を低くしたいと思えば、それしかありませんでした。
そんなお母さんたちに対して、
「子どもたちの被ばくを選んだ、バカな母親」という事を言う人もいます。
とても、胸が張り裂けそうになります。
自分のしている事はこれで良いのか?、このままでいいのだろうか?という葛藤も、もちろん出ています。
そのような3年間を、福島で過ごした私の中では、ある言葉を受け付けなくなりました。
それは「絆」「復興」「風評被害」
とてもじゃないですが受け入れられません。
全てごまかしの言葉に聞こえます。
「復興」ってなんでしょうか?
現実を見て下さい。
「風評被害」って、誰のための言葉でしょうか?
生産者のための言葉ではないはずです。
2011年、激しい余震が続く中、多くのお母さんたちが、なぜか毎日毎日涙が出ていた、という話を聞きます。
もちろん私も、家族がいない時には、涙がこぼれ落ちていました。
子どもの前では明るく元気にと、毎日必死でした。
そうしないともたなかったのかもしれません。
2012年、現実がだんだんと見えてきました。
しかし何故か、「原発事故での影響はなし」という、結論ありきの県民健康管理調査が行われ、
福島県の医療機関に対して、疑問が出てきました。
県民健康管理課に直接電話をしたり、国に電話をしたりしても、ますます不信感が募りました。
2013年、現状はなにも変わらないのに、帰還事業が盛んになりました。
なにも変わっていないのに。
伊達市は、「地上1cmで3マイクロシーベルト/h以下ならば、安全だから除染はしない」という方針でした。
除染にはお金がかかるし、置く場所もないから、どこかで線引きをしないといけないから、という判断です。
私たちは、そんな線引きで、どうやって暮らしていけばいいのでしょうか?
放射能汚染を忘れて生活しなさい、という事ですか?
だいたい、福島県伊達市というひとつの市が、放射能汚染の線引きをしていいのでしょうか?
伊達市だけの基準は、私にはどうしても納得ができませんでした。
「除染なんかしたって仕方ないでしょ」とも言われます。
私だってよく知っています、除染の限界も。
でも、どうすればいいのかわかりませんでした。
やはり、自主避難しか道は無いのでしょうか?
出来たなら、もうすでにしているでしょう。
それが出来なかった。
いろいろな人から、
「自己破産して、家も土地も、全て捨てて行きなさい」と言われました。
「年老いた親も親戚も、全て捨てて行きなさい。行ける人だけでも行きなさい」と。
自主避難は、そうも簡単ではありません。
タイミングもあるでしょう。
今現在、それができる状況ではないのです。
国や行政からは、帰還事業の声ばかり聞こえてきます。
その中で、声を上げることもできない状況です。
原発事故の責任はうやむやにされ、今度はすべて自己責任、こんなことってありますか?
あれから3年になります。
遠い昔の様な気もしますが、でもまだ3年です。
何一つ始まってさえいない、と思っています。
今年1月26日に行われた、伊達市長選挙で、現職の市長は公約を追加、除染に急きょ転換して当選してしまいました。
しかし、残念ながら市長の考えは、年間5ミリシーベルト被曝容認のまま、変わりありません。
行政だって、板挟みで苦しいのかもしれません。
でも、もっと住民の声を吸い上げて、国にあげていってくれないと、行政の意味がありません。
声を上げられない人達もいます。
だからこそ、気が付いた人から、声を出せる人から、どんどんあげていかないといけません。
3年経ちましたが、何も変わっていないし、逆に諦めも出てきて、悪化しているように見えます。
「風評被害」とか「復興」という言葉で、ごまかさないでください。
私たちはこれ以上、切り捨てられたくありません。
果たして日本政府は、本当に、放射性物質の汚染について、全体日本の事で分からなかったのでしょうか?
広島・長崎での原爆経験、チェルノブイリ原発事故、原水爆実験でのマーシャル諸島などでの被爆、
第5福竜丸事件も、世界にはもっともっと、放射能汚染のデータがあったはずです。
飛行機の搭乗とか、医療被曝と比較しなくても、過去の放射性物質の被ばくと比較すればいいじゃないですか。
データもある筈です。
知っているでしょ?
知っているからこそ、この3年間、国や東電や県のやってきた事は、被害を小さく見せる事だけだったのではないでしょうか?
県の健康管理調査を見ても、ハッキリわかると思います。
被害をできるだけ小さく見せよう、とすること。
そのために、私たちはあらゆる方向で翻弄させられ、住民自ら分断するように仕組まれてしまったのではないか、と思っています。
被害者本人から、被害を語れなくされています。
被害を語っても、自分たちにはなんにもよいことがないからです。
「実害」なのに、「風評被害」という言葉でごまかされてしまっています。
差別される恐怖。
この原発事故被害は、矛盾ばかりを生み出しました。
被害にあったのに、無かったかのようにしていくのです。
全て切り捨ての考えでしょう。
私たちは、今までの被ばく者の方々が味わった事を、無駄にしてはいけないのです。
どんなに苦しく悲しかったか。
声を上げることも、どんなに勇気が必要だった事か。
私は、当事者になってまだ3年ですが、被ばく者の方々の悲しみや苦しみが、ちょっとだけ理解できました。
今日、ここに言葉を寄せる事でさえ、身構えてしまいました。
それだけ相手は大きいのです。
でも、泣き寝入りはしたくありません。
切り捨てられたくありません。
事故から3年です。
まだ3年です。
おかしいことはおかしいと、声を出させて下さい。
【自主避難:鏡石町→北海道】
「『考えたら避難なんかできない。何も考えず、娘の将来だけを考えよう』と自分に言い聞かせました」
鏡石町から北海道へ、家族で自主避難されている、ホンダジュンコさんからお話を伺います。
1:56:35
私は、福島県の中通り鏡石町から北海道札幌市に、家族で自主避難しました。
私が避難を決断したのは、娘の身体に異変が起きたからでした。
福島で原発事故が起き、その直後の4月から学校へ行き出した、当時、中学3年生の娘の顔じゅうに、
今まで見たこともない様な赤い発疹が出て、さらにとびひの様になり、母親の私は驚いて、病院へ連れていきました。
医師から、これは「とびひではない」と診断され、
後になって、チェルノブイリの症例で、皮膚が弱い人に、虫刺されのような症状が出ていたと知り、愕然としました。
学校に電話をかけて、
「放射能の被害が心配だから、地産地消の給食と、屋外での活動を止めて欲しい」とお願いしましたが、
校長先生から、
「国が安全だと言っているので、全く問題がありません」と、説明されました。
「アトピーという理由ならば」と、何とか了解をもらうのが精いっぱいでした。
そのような環境に、子どもを置いておくわけにはいかないと判断し、
娘の健康被害を恐れ、事故から3か月後の6月に、夫と娘が先に、
私は経営していた美容室の自宅兼店舗を閉め、支店へ御客様を1ヶ月で引き継ぎ、7月に札幌へと移りました。
愛する故郷。
15年かけて、人をにぎわせてきた美容室。
お客様、スタッフ、親友。
そして両親と●の別れ。
「考えたら避難なんかできない。何も考えず、娘の将来だけを考えよう」と自分に言い聞かせました。
住み慣れた自宅の整理を、たったひとりで行いながら、子どもたちが小さい頃に撮ったアルバムの写真を眺め、
「どうしてこんなことになってしまったのかな」と、虚しさでいっぱいになりました。
生まれて初めて訪れた、北海道の暮らしは、思っていた以上に辛く、厳しい現実がありました。
夫は、数カ月後に仕事が決まったものの、給料は月10万ほど。
私は、一人で一から美容室を始めましたが、当然、はじめは赤字からのスタートです。
美容室をオープンして1週間目に、疲労が重なり、全身が硬直して動けなくなり、丸1日寝込み、自信を消失しました。
専門学校に通っていた息子の学費が払えなくなり、中途で学校を辞めてもらいました。
受験生だった娘は、高校受験を控えての転校。
どんなにか心細かったでしょう。
私たち家族は、お互いに涙を見せないように、毎日隠れて泣いていました。
右も左も分からない札幌での生活は、家族が協力しなければ、とてもやっていけない。
慣れない環境で、180度変化した生活に、精神的にも肉体的にも、ギリギリの状態でした。
自主避難のため、東電からの補償は無く、激減した収入、貯金を切り崩しての生活。
持ってきた車を手放し、生命保険を解約して、最低限の生活を維持するために、ほとんどの財産を捨てました。
避難してから1年後には、残してきた支店も、ローンの残した●も、手放しました。
福島に残るスタッフや、近所の人との関係も、ぎくしゃくしていき、友人や両親と簡単に会う事も出来ない、
放射能への考え方から、お互いの心に溝を作ってしまいました。
私が避難した事に対し、地元では、
「経営がうまくいっていなかったから避難したんだろう」と噂になっていると聞きショックでした。
あまりの辛さに、東電に電話して、泣きながら怒鳴り散らしたことも何度かありましたが、
電話の後には、相手を傷つけてしまった罪悪感に、落ち込みました。
札幌では、今動かなければ、国や東電に原発事故の被害をもみ消されてしまう、という思いもあり、
やったこともないラジオやテレビ取材を受け、避難体験を話すイベントなど、自分がやれる事は全て受けました。
デモも行きました。
東電への訴訟や、原発告訴へも加わりました。
生活もままならない中、●がこえていました。
何故私たちは、こんな思いをしなければならなかったのかと、
怒りと悲しみで、苦しくて、毎日毎日眠れない夜が続きました。
笑っていないと、今にも崩れていきそうで、人の前では笑って、心の中では泣いていました。
避難してから2年半が過ぎ、なんとか生活も落ち着き、やっと心から少し笑えるようにもなってきましたが、
それでも、福島の時の様に、安定した生活を取り戻すことはもう無理だ、と思います。
私には、国や東電に対する、強い不信感があります。
子どもの甲状腺検査にしても、国の対応があまりにも遅いため、自費で検査をしましたが、
1年前に検査した時よりも、甲状腺ののう胞が増えていたこともあり、
医師は「大丈夫」と言いますが、私はまったく安心できません。
最近では、避難した当初の話を聞いてくれた札幌の人達も、メディアで報道されないためか、
「もう原発は落ち着いた」と思っている人、
「そんな暗い話は、もう3年も経つし聞きたくない」という、言えない雰囲気が漂ってきました。
私は、本当の被害はこれから出てくるのではないか、と危惧しています。
母子避難者である友人の中には、私の知り合いの中だけで、4人も離婚した人がいます。
やはり、放射能に関する考え方の違いで、ずっと家族がぶつかってきた結果、選択せざるを得なかったのでしょうが、
どれだけの苦しみを、みんなが味わってきたのだろう、と想像します。
しかし、私はもう泣かない、と決めました。
悲しみや怒りの感情は、自分自身の細胞を傷つけ、負の感情は、大切な家族や周りの人をも、傷つけてしまいます。
何のために避難したのか?
わが子を守るために避難したのだから、病気になったのでは意味がない。
泣いて暮らす事よりも、動く事が大事。
笑って動くしかないと、苦しみぬいた時間から、答えをもらいました。
私が強くなれたのは、ある意味、この体験があったからだと思います。
だからといって、私たちの平穏な生活を奪い、原発事故の被害を隠蔽し、
子どもたちを被ばくさせ続ける国や東電を、許すことはできません。
人として間違った道を歩む、国と東電に対して、
私たち大人が言わなくて、誰が言うのでしょうか。
切実ですね!
この被災地の方たちの苦悩を少しでも、軽減しなければなりません!