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gooにて、
『アフォダンス』という言葉を見つけた。
「踊ります踊らせます踊りませんか」のモノスヤのこと。
『アフォダンス』と見れば、「アホなダンス」か。
「アホが踊るダンス」としか思えないのは至極当然のこと。
J・ギブソン氏に叱られますって、J・ギブソンて誰やねん。
(正解は知覚心理学者)
「アフォダンス」じゃなくて、
『アフォーダンス』だっちゅうの。紛らわしい。
環境の意味や価値は、認識主体によって加工されるのではなく、
環境からの刺激情報のうちにすでに提供され、
固有の形をとっているという思想。
だなんていわれても、なにがなんだかさっぱりわからんちん。
ちんぷんかんぷん。
おまけに、
「生態心理学用語」にもアフォーダンス。
「デザイン用語」にもアフォーダンス。
それぞれ指し示すものが違うというから、それもまたわけわかめ。
ところでギブソンとやらいう人は、
知覚心理学者とも生態心理学者ともいわれていますが。
いったいどっち?どっちでも、いいか!?
ギブソン、ごめん。(呼びつけだし)
ギブソンの「アフォーダンス論」というのは、
『ナントカがナントカにナントカできるという関係』
をカタカナでいったものなんだそうです。
わかる?わからんよね??
フォーイグサンポー。
ここに椅子の形をしたものがあると仮定して、
それを見てどう思うか。
「椅子だなと思う」が妥当な線、それは何故か。
それはその「椅子の形をしたもの」が、
『座る』というアフォーダンスを与えているからなんだって。
嗚呼、余計わけがわからない。頭痛注意報発令中。
ええっと、
椅子と私(たち)の間に存在する関係性は「座れる」だけじゃなくて。
「持てる」とか「破壊できる」とか、
モノと行為者(=動物)の間のアフォーダンスは無限に考えられるとか。
何か、ネタとして面白そうだと取り上げたものの。
どうでもよくなってきたし。
「アフォーダンス」は個人的なものなので、
私の前に大麻の紐(いわゆるヘンプ)があれば。
そのヘンプの意図は私に結ばせるアフォーダンスを与えている、
ってのが糸の意図だし。
でも。
ヘンプを見ても、それが結ぶものだと思わない人は思わないし。
行為者が変わっても、環境が変わってアフォーダンスは変化する。
結論としては「変わるもの」を、
理論としていちいち難しいことを覚えておく必要性はないわけだ。
とりあえず、
今日はヘンプとマクラメビーズとウッドパーツと仕入れてきたので。
明日から大麻のアフォーダンスの声を素直に聞いて、
てーげー磨くことにしようっと。
(出来上がった首輪)
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