こんにちは!
日本の峠は約3773件存在するそうです
かつて、山登りでいったいどのくらいの峠を越えていったのでしょうか?
よっぽど印象に残った峠道以外は>ほとんど素通りして記録に残っていないのが現状です
年のせいでしょうか 人生の峠道 苦労しながら越えて行った峠道、
車に乗り難なく越えて行った峠道、人生の岐路にさしかかり思い出しております
峠(とうげ)とは、山道を登りつめてそこから下りになる場所
山脈越えの道が通る最も標高が高い地点である
今回の記事は山梨県上野原市(旧秋山村)と同県の都留市の境界にある
雛鶴姫伝説の残る雛鶴峠(ひなづるとうげ)を掲載してみたいと思います
雛鶴峠 雛鶴旧隧道
都留市側から見た雛鶴旧隧道標識
雛鶴峠(ひなづるとうげ)は、山梨県上野原市(旧秋山村)と同県の都留市の境界にある峠
雛鶴旧隧道 山梨県都留市側出口
雛鶴旧隧道 山梨県都留市側出口付近
車の通行は不可
雛鶴旧隧道 山梨県都留市側出口付近
雛鶴旧隧道 山梨県上野原市側出口
トンネルの坑道内中央は暗闇で照明がないと通行不可能
いたるところにトンネル天井より落盤した岩が有り、危険です!
雛鶴旧隧道 山梨県上野原市側入口
雛鶴旧隧道 山梨県上野原市側入口
旧トンネルへは新道(新トンネル)上野原市側から通行可能(雛鶴旧隧道入口まで)
山梨県道35号四日市場上野原線に存在する海抜650mの隧道峠
昭和62年に新道(新トンネル)が開通している 旧トンネルは海抜720mである
旧トンネルが存在するが現在は車両通行不可
並行する国道20号の裏道となっており、
日曜などは県外からの車・バイクなどで交通量が増えるため、
通行には注意が必要
上野原市側にある雛鶴姫ゆかりの雛鶴神社看板
上野原市側にある雛鶴神社
南北朝時代から伝わる悲劇の最後を遂げた護良親王の妃
雛鶴姫伝承の記
雛鶴姫の立像
雛鶴姫は護良親王の側室であった 1334年(建武元年)護良親王が京都で捕えられ、
鎌倉に護送され幽閉された 1335年(建武2年)護良親王は鎌倉で殺害される
京都から鎌倉に随行し、最後まで仕えた雛鶴姫は、
護良親王を手厚く葬ろうと首級を抱えて、
鎌倉から故郷十津川を目指して鎌倉を脱出した
鎌倉街道を秋山村に入ったが、秋山村無生野にたどり着き宿を求めたが、
足利氏の咎めが及ぶことを怖れた村人に断られた
そのため一行は現在の雛鶴峠付近に至った
懐妊していた雛鶴姫は産気づき、
従者の手で作られた枯れ草を集めた褥(しとね)で、
王子を産むとともに22歳で死亡 王子は葛城宮綴連王と名付けられた
従臣が姫の亡骸を埋葬して、
墓石を建てて回向した 後日、
村人は神社を建立し雛鶴神社と名付けて手厚く祀ったとある
最後まで御覧頂きありがとうございます
次の投稿までご機嫌よう
日本の峠は約3773件存在するそうです
かつて、山登りでいったいどのくらいの峠を越えていったのでしょうか?
よっぽど印象に残った峠道以外は>ほとんど素通りして記録に残っていないのが現状です
年のせいでしょうか 人生の峠道 苦労しながら越えて行った峠道、
車に乗り難なく越えて行った峠道、人生の岐路にさしかかり思い出しております
峠(とうげ)とは、山道を登りつめてそこから下りになる場所
山脈越えの道が通る最も標高が高い地点である
今回の記事は山梨県上野原市(旧秋山村)と同県の都留市の境界にある
雛鶴姫伝説の残る雛鶴峠(ひなづるとうげ)を掲載してみたいと思います
雛鶴峠 雛鶴旧隧道
都留市側から見た雛鶴旧隧道標識
雛鶴峠(ひなづるとうげ)は、山梨県上野原市(旧秋山村)と同県の都留市の境界にある峠
雛鶴旧隧道 山梨県都留市側出口
雛鶴旧隧道 山梨県都留市側出口付近
車の通行は不可
雛鶴旧隧道 山梨県都留市側出口付近
雛鶴旧隧道 山梨県上野原市側出口
トンネルの坑道内中央は暗闇で照明がないと通行不可能
いたるところにトンネル天井より落盤した岩が有り、危険です!
雛鶴旧隧道 山梨県上野原市側入口
雛鶴旧隧道 山梨県上野原市側入口
旧トンネルへは新道(新トンネル)上野原市側から通行可能(雛鶴旧隧道入口まで)
山梨県道35号四日市場上野原線に存在する海抜650mの隧道峠
昭和62年に新道(新トンネル)が開通している 旧トンネルは海抜720mである
旧トンネルが存在するが現在は車両通行不可
並行する国道20号の裏道となっており、
日曜などは県外からの車・バイクなどで交通量が増えるため、
通行には注意が必要
上野原市側にある雛鶴姫ゆかりの雛鶴神社看板
上野原市側にある雛鶴神社
南北朝時代から伝わる悲劇の最後を遂げた護良親王の妃
雛鶴姫伝承の記
雛鶴姫の立像
雛鶴姫は護良親王の側室であった 1334年(建武元年)護良親王が京都で捕えられ、
鎌倉に護送され幽閉された 1335年(建武2年)護良親王は鎌倉で殺害される
京都から鎌倉に随行し、最後まで仕えた雛鶴姫は、
護良親王を手厚く葬ろうと首級を抱えて、
鎌倉から故郷十津川を目指して鎌倉を脱出した
鎌倉街道を秋山村に入ったが、秋山村無生野にたどり着き宿を求めたが、
足利氏の咎めが及ぶことを怖れた村人に断られた
そのため一行は現在の雛鶴峠付近に至った
懐妊していた雛鶴姫は産気づき、
従者の手で作られた枯れ草を集めた褥(しとね)で、
王子を産むとともに22歳で死亡 王子は葛城宮綴連王と名付けられた
従臣が姫の亡骸を埋葬して、
墓石を建てて回向した 後日、
村人は神社を建立し雛鶴神社と名付けて手厚く祀ったとある
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