盗人宿

いまは、わかる方だけ、おいでいただければ。

母の日

2019-05-13 10:47:27 | にゃんころ
きのう花を持って実家に行ってきました。

母は昭和一桁生まれで、入浴などには介護が必要ですがまだまだ元気です。
私は実家から歩いて30分ほどのところに住んでいるので帰ろうと思えばいつでも帰れるのですが、私が無精をして数ヶ月にいちどしか帰らないため、久しぶりに私に会えたことをたいそう喜んでくれていました。

実家には父と母、そして兄の3人が暮らしています。
兄は生涯結婚しない道を選んだので、子供はいません。
要するに、すでに「老老介護」が始まっているのです。

父は大正生まれなので、令和は人生で4つめの元号となります。
もう10年近く前から認知症を発症し、いまでは私の顔もわかりません。
母や兄に車椅子を押してもらわないと外出もできません。

しかしそれ以前の父は、息子の自分から見てもすごい人でした。

子供の頃、友人の家に行くとたいてい「父親の部屋」や「書斎」がありましたが、父は狭い家の部屋を息子ふたりの個室として譲り、自分はいつも居間でテレビを見たり本を読んだり、新聞のチラシの裏に書の練習をして、夜はそこに布団を敷いて母といっしょに寝ていました。
居間には本棚もレコード棚もなく、子ども心に「自分の父はよその家より勉強や努力をしない人ではないか」と思いましたが、それは大きな間違いでした。

父はいちど読んだ本の内容をほとんど覚えていて、本はすぐ古本屋に売ったり人にあげたりしていたのです。
レコードもいちど聴いたアルバムは覚えていて、「コルトレーンのあの〇〇の入ったアルパム、何だったっけ」と訪ねるとすぐに答えが返ってきました。

公務員になって当時の文部省に入る前は進駐軍関係の仕事をしていたので英語も堪能で、学会などに外国人がくると、仕事の時は通訳がつくのですが、プライベートで東京観光をする時などはいつも父が指名されていました。
書道は「書道の先生を指導する」ほどの腕でした。
インターネットなどない時代、疑問は父に質問すればほとんど解決しました。
ノンキャリアで入った文部省ですが、最終的にはノンキャリアが到達できる最高の地位に就いて勤め上げて退職しました。


あの日々は、もう戻ってきません。
母の日なのに父の話になってしまいましたが、私はあの両親から生まれたことを心から誇りに思っています。