野球の上原投手が引退しました。
上原といえば2013年のワールドシリーズで、レッドソックスのクローザーとして優勝投手になったことで有名です。
日本では先発で活躍していましたが、彼は「アメリカで投げたい。先発にはこだわらない」と、オリオールズでも最初は先発でしたが途中から中継ぎとクローザー、レンジャースでも主にブルペン要員でした。
日本で先発していた選手はメジャーに渡っても先発で投げたがるものですが、彼は逆にクローザーとして各球団から争奪戦が起こるまでになりました。
レッドソックスに移籍した時も、ブルペンにはハンラハンやベイリー、そして田澤などがいましたが、いずれも不調や怪我で調子を落とし、上原にクローザーの座が回ってきました。
そこからの活躍はいまさらいうまでもないでしょう。
レッドソックスの本拠地、グリーンモンスターで有名なフェンエイパークの内部フロアには、過去の輝かしい歴史の写真とともに、上原が最後の打者を三振に打ち取って捕手に抱きかかえられながら、泣き顔で天を指差している写真が飾られているそうです。
球速は速くても140km/h前後で、160を超える投手がごろごろいる中でなぜ上原はクローザーという重要なポジションで活躍できたのか。
彼はいわゆる「球持ちがいい」、つまり他の投手よりホームベースに近い所で球を離すのです。
だから打者には、球速計の数字より速く感じられます。
球種は「ツーシームとスプリットだけ」といわれますが、彼は指の場所や握りをほんの少し変えるだけで同じツーシームでも曲がり方が違うのです。
しかも同じフォームで、投げてからマウンドとホームベースの中間あたりにくるまで、どう曲がるかわからない。
さらにスプリットも混ぜてくるのですから、打者にとっては厄介です。
多くの打者は「あいつの球は消える」といっていました。
メジャーに確実な実績と強い印象を残した上原ですが、私の記憶に残る彼はまだ日本で投げていた時です。
シーズン終盤、名前は忘れましたが誰か外国人打者が本塁打を55本打って、まだ数試合を残していました。
55本といえば王貞治氏の現役時代の最多本塁打記録で、長い間「外国人にそれを抜かせてはいけない」というのが日本の全球団の「暗黙の了解」、つまり残り打席はすべて敬遠されました。
上原にも、ベンチ(私の嫌いな読売)から敬遠の指示がでました。
しかし上原はそれを拒否し、勝負を要求しました。
マウンドには投手コーチが行って説得するのですが、彼は涙を流しながら拒む。
「記録は抜かれるためにあるのではないか、勝負するのが怖くて敬遠するなんて卑怯だ」と。
最終的には敬遠に同意しましたが、この時点で彼は日本野球のどろどろした側面に嫌気がさしたのではないでしょうか。
あれがあったからこそ、上原のメジャーでの活躍につながったと私は思っています。
日米通算で、彼は100勝、100セーブ、そして100ホールド(中継ぎとしてリードを保ってクローザーにつなぐ)を達成しています。
日本人ではもちろん彼が初めて、メジャーでも彼を含めてふたりしか成し遂げていない記録です。
引退はしても、彼は日米で成功を収めた輝かしい投手のひとりとして、多くの人の心に残り続けるでしょう。
上原といえば2013年のワールドシリーズで、レッドソックスのクローザーとして優勝投手になったことで有名です。
日本では先発で活躍していましたが、彼は「アメリカで投げたい。先発にはこだわらない」と、オリオールズでも最初は先発でしたが途中から中継ぎとクローザー、レンジャースでも主にブルペン要員でした。
日本で先発していた選手はメジャーに渡っても先発で投げたがるものですが、彼は逆にクローザーとして各球団から争奪戦が起こるまでになりました。
レッドソックスに移籍した時も、ブルペンにはハンラハンやベイリー、そして田澤などがいましたが、いずれも不調や怪我で調子を落とし、上原にクローザーの座が回ってきました。
そこからの活躍はいまさらいうまでもないでしょう。
レッドソックスの本拠地、グリーンモンスターで有名なフェンエイパークの内部フロアには、過去の輝かしい歴史の写真とともに、上原が最後の打者を三振に打ち取って捕手に抱きかかえられながら、泣き顔で天を指差している写真が飾られているそうです。
球速は速くても140km/h前後で、160を超える投手がごろごろいる中でなぜ上原はクローザーという重要なポジションで活躍できたのか。
彼はいわゆる「球持ちがいい」、つまり他の投手よりホームベースに近い所で球を離すのです。
だから打者には、球速計の数字より速く感じられます。
球種は「ツーシームとスプリットだけ」といわれますが、彼は指の場所や握りをほんの少し変えるだけで同じツーシームでも曲がり方が違うのです。
しかも同じフォームで、投げてからマウンドとホームベースの中間あたりにくるまで、どう曲がるかわからない。
さらにスプリットも混ぜてくるのですから、打者にとっては厄介です。
多くの打者は「あいつの球は消える」といっていました。
メジャーに確実な実績と強い印象を残した上原ですが、私の記憶に残る彼はまだ日本で投げていた時です。
シーズン終盤、名前は忘れましたが誰か外国人打者が本塁打を55本打って、まだ数試合を残していました。
55本といえば王貞治氏の現役時代の最多本塁打記録で、長い間「外国人にそれを抜かせてはいけない」というのが日本の全球団の「暗黙の了解」、つまり残り打席はすべて敬遠されました。
上原にも、ベンチ(私の嫌いな読売)から敬遠の指示がでました。
しかし上原はそれを拒否し、勝負を要求しました。
マウンドには投手コーチが行って説得するのですが、彼は涙を流しながら拒む。
「記録は抜かれるためにあるのではないか、勝負するのが怖くて敬遠するなんて卑怯だ」と。
最終的には敬遠に同意しましたが、この時点で彼は日本野球のどろどろした側面に嫌気がさしたのではないでしょうか。
あれがあったからこそ、上原のメジャーでの活躍につながったと私は思っています。
日米通算で、彼は100勝、100セーブ、そして100ホールド(中継ぎとしてリードを保ってクローザーにつなぐ)を達成しています。
日本人ではもちろん彼が初めて、メジャーでも彼を含めてふたりしか成し遂げていない記録です。
引退はしても、彼は日米で成功を収めた輝かしい投手のひとりとして、多くの人の心に残り続けるでしょう。