pretty woman story again

本と花と映画と音楽、
ドラマに私自身の物語、
華の 80 歳にあと1年🌹
(´∀`*)ウフフ

@クレマティス@Fちゃん逝く @アルメリア @ あちらにいる鬼 @夜中の薔薇 @水道メーター (s) Dean Martin @ マリーゴールド @松葉牡丹

2023-05-10 | #日記

05/14

アルメリア・マリチマ ”この花は一年草といわれてるが夏越え、冬越えが出来たら多年草扱いも”というプレートが多い、

咲かせ方次第では長く楽しめるということだから、気遣いをして咲かせてみよう、この花を!という気分、

色も姿も宜しいのよ、一回は咲き終えて切り戻ししたら咲き始めたので楽しみなのよ、かわいいわ、

 

今どきは映画がテレビに移行するのが早くて「そのうちテレビで観るわ」と思うことが多くなった、もちろん大スクリーン

+大音響の魅力には惹かれるけれども、コロナ禍の後遺症というか、出かけるのが億劫になった、

マスク・フリーもますます広がり、けれど接種は行われる現状に、ぉ国に対して私などは猜疑心が強くなってしまってる、

「経済は回さなきゃならないし」に重きを置いてる気がする、保証をするのが大変だという事と、申請詐欺にあってぉ国も

現実を知って矛先を変えた、それならぉ国の決定も大したもんじゃなかったということになる、

経済の復活はそれはそれで必須だ(そういえば接種も経済活動の一環じゃないの?)ということは分かるけれども、際限が

なくなるという予想がつかなかったようね、

 

「り患したらした時の対応をすればいいじゃないか」という方向にベクトルを向けたとしか思えない、それに従って私は

出来ることは自分で決めて、お他人様に迷惑をかけないようにマスクはすることとしてる、ぉ国だって国民の判断に委ねる

そうだから、安易ね~当てにならないぉ国の責任を云々してみた処で、どうしようもないから、ノーマスクOK!の場所に

は行かないように心がけてる、

 

この本を読んで、寂聴さんの思考は作家さんだなとの印象を強くした、凡人にはなかなか踏み出せないもの、それで我慢

して、己が人生を”妥協”という二文字で決めてしまわなきゃならないオナゴの人生をみてきたので、殊更そう思ったのよ

 

生きてる限り、日々の渇望感は誰にもあって、それを何かにすり替えようと試みるという観点において、ちょっと走ったり

してみたくなっちゃうのよ、若い頃は夫婦のことは夫婦でという考えよりは”自分!”だもの、

 

捨てなきゃならないことが多すぎて捨てられず、まして子が介在するとなると、オナゴは産んだ責任と、産んでよかった、

育ててよかったという”母性” に支えられて、そんな簡単にエイッと決められるもんじゃないと思うけど、

それぞれにおける事情があるから一概には言えないけど、得てしてオトコはすっ飛べるんだね(笑)

 

あ!オナゴも飛んじゃう場合もみてきたけど(2件)稀で、そうそう大きな決断はしない、この世に子を参加させてれば、

尚の事よ、でもすっ飛んじゃうオナゴもいたので次にはそれも教材にして、今は私には気晴らしはこれ位しかないから、

ぉ他人様を傷つけないように気を付けてとは思ってるから、作家じゃないんだからの範囲で、

 

作者の井上荒野さんは、作家の父親の不倫を間近で肌で感じてきた娘さんで、

その母御がオトコの妻ということになる、その詳細を小説にして昇華させたと思う、そしてその父の愛人だった寂聴センセ

が帯を書く、和して同じ写真に納まる👇ことも可能なわけだ、後列中央が荒野さん、

寂聴センセは文学界の有能なプロデュ―サーでもあるのよ、これ文学界にしか有り得ないことで、通常の思考ではちょっと

といおうか、聊かと言おうか特殊事情によるものだと、

 

一言で言うと、作家という職業は身を削って、自分の不埒も(失敬)含めて小説にする、そういうことで言えば各センセ方

はそうだったよね~私小説ということもあるから、

 

愛人である当のご本人が、ご自分の不倫を、あらゆる言葉を駆使して文章にして文学という名で昇華させてしまうなんて、

それは納得がいっての事でしょうからとやかくは言わないけれど、傍迷惑なところもあるんじゃないのと(´∀`*)ウフフ

 

さんざん読んでおきながらこんなことを言うのもなんだけど、ご自分のぉ子とも元夫とも離れて、すっ飛んで得手勝手を

しても、文学は許してくれるからいい、それを承知で読者は本を読むということなんだよ、

自分にできない、しなくてよかった!と思わせてくれる another world、なにも横文字にしなくたっていいものをと思わぬ

わけじゃないけれど(笑)

変換の妙というだけなのよ、照れ隠しも含めてではあるわね、

 

原作よりはちょっとキャストが大人だなぁと思いながら、危ういシーンはすっ飛ばし観はじめた、映画館じゃなくて家で、

独りのことだけど、婆としては予告での数々のシーンが赤裸々で映画館にも行かなかったんだから正解だった、まあね、

これじゃあ「寂聴センセは苦手!」と言われてもしかたがないかなぁ(^^ゞ

 

空に星があるように(荒木一郎)昭和41年

この曲も好きでしたので、

 

妻役の広末涼子さんが、夫役の豊川悦司さんの仕出かした不始末のため、相手のオナゴの入院先に花をもって向かうシーン

で口ずさんでたのが印象的、この表情はやはり女優だわ、観てると切ないもの~

 

日本映画  あちらにいる鬼 2022    脚本 新井晴彦 日本映画専門チャンネル

しかしその夫も自分が家にいながら、妻に手紙を持たせて見舞いに行かせるなんて!と思ったけれど、行く妻は”私が妻よ”

の意地があって、もしや優越感含みの花なのかしら?

そして思い足を引きずって帰ってみれば「団地の女性を主人公に書きたいと思っていらした先生だよ」なんて、着物を着込

んでの洒落たいで立ちのオナゴを紹介されるなんて、一応、オナゴ同士は笑顔で初対面の挨拶はするものの複雑、そりゃ

そうでしょう、オトコの行動にはホンとに腹が立つ!と思わないオナゴはいないと思うけど、

「今度酒でも飲みましょう」なんて作家に向かって言うオトコ、そして自転車に乗せられて部屋に帰る妻の心情を思うと

ぉ他人様の夫を何だと思ってるんでしょうと思うわよね、でも妻はそこでも敢えて不機嫌な顔をしないで自転車に乗って後

ため息ひとつ~おい打ちかけるように「それでどうだった?」と何事もなかった様に聞く夫、無神経にもほどがある(^^ゞ

「本気じゃなかったみたいよ、そう言ってたもの」もう妻も往なすしかないですよ、命を懸けた相手の若いオナゴが不憫、

 

団地の敷地内をオトコがその妻を乗せて立ち去る時の愛人(寺島しのぶさん)が見せる嫉妬の目、これってオナゴ特有の

視線の投げ方で、立ち位置を認識してるけれど口惜しいような複雑な感じの、

 

オトコがオナゴの家を訪ねて酒を飲みながら”文学” について話をするシーン、オナゴはオナゴで若いオトコを相手にする

時もあるようで、なかなか複雑怪奇、そうしてオトコとオナゴは講演会に行くようになり、やがては不倫の道へ、

こうもテキストのように教授されると、あるかもね~と軽い気持ちで観てしまうから怖いよ、

 

途中下車の憂き目にあいながらも、すっ飛ばしと早送りでなんとか仕舞いまで観た、原作を読んだ時の哀しさや憤怒や和は

感じられず、監督さんの意向か脚本家の意向かは分からないけど「違うのよ」という感じだけが残った、

残念ですよ、折角の寂聴センセの思いや、荒野さんの娘としての心情や”敢えて許す” という喚起された思いの丈が皆無、

重きを置くところが読者の意向とかけ離れた映画となったと感じたのは私だけかしら?

このようなシーンで「私出家します」とオナゴが言ったら、普通のオトコはどう返すのでしょうね、きっと現実が苦し過ぎ

てのオナゴの言葉だったのでしょうか?

私はリアルで観たテレビの画面を思い出した、再現フィルムのように、その部分だけは寸分違わなかった、寂聴センセの姿

そうなると観客としては胸が痛みました、「娘は4歳の時、私は婚家を出ましたので20年以上会ってはいません」とオナゴ

の独白、「僕は4歳の時、母親が家を出て、婆ちゃんと暮らしてました、因縁ですね」オトコの独白、こういう処に二人の

結びつきの強さの基礎があったのでしょう、

 

👈

出家してからのオトコの家族と剃髪したオナゴの家族が食事を共にする、そのテーブルに同席してた赤いセーターの少女が

後のこの小説の原作者の井上荒野さんとなる、それぞれどのような心境になるのか私には推量さえできないけれど人間同士

としか言いようがない、出家してスッキリしたオナゴはいいかもしれないけど、今だ先も家庭を営み続けなきゃならない妻

はそのモヤモヤをどう解消するのかを、僧籍にあって説くことが出来たのだろうか、死してなお墓処まで並んでいて心地好

かろうと決めたのは自身の良心の呵責から解かれたかったのじゃない?

 




05/12

朝夕をワンちゃん連れで散歩しておられたご夫婦が、今はご主人だけが散歩なさるようになった、奥様はワンちゃんを

連れてらしたご主人の後を一生懸命歩いてて「おはようございます!」と私がご挨拶すると、

「あら、おはようございます、お花が綺麗ねぇ」と優しい声音でぉ返事を、しかも笑顔を添えられて、清々しい朝だったし

夕方もとてもいい時間だった、

 

今日の夕方も、ご主人ぉ独りで散歩なさってた「こんにちは!」とぉ声を掛けたら「こんにちは!花がきれいですねぇ」と

私にはなんだか寂し気に聞こえた、

向田邦子さんのエッセイ集に「夜中の薔薇」というのがあった気がした、「野中の薔薇」を勘違いしてたというような内容

だったのかしら?検索してみたい、それにしても家の中の「夜中の薔薇」は妖しく美しい🌹

 




カレンダーの一部を載せましたけど、このように格調高いメーターがあっただなんて知りませんでした、現代のように

コンパクトな方が使い勝手がいいのかもしれないけど、実に立派です、

 

Dean Martin - Everybody Loves Somebody Sometime 1965

宜しいわ~♪ やはり魅力満載です、お茶目だわね、

 




05/10

バラが自在に咲いてるこの時季が一番いい、なんたって伸びてゆく勢いを感じるから、花を咲かせた緑の濃淡のうねりは

家の壁面をいとも容易く洋風にして、薄暗かった冬の閉塞感から解放してくれるから嬉しいったらないわ、

 

 




 

05/10

卵色だったバラが姿も変わり色も変わりその時々を楽しませてくれるなんて、あーあ、春はいいわね、

色んな事を思いあぐねても空の青い分だけ差っ引かれ、風の心地よい分だけ差っ引かれ、ちょっと重かったこころも

軽くなるというもんよ、

 

この歳になると、まずは歳の事だけに終始しがちで広がりがない気がする、若い頃(これも歳のせいの必須アイテム)は何

が良かったのだろうかと改めて振り返った時に感じることはただ一つ "輝いてたなあ" 不可能はない!というような、

 

思い通りに事を運べて、躊躇しないで突き進む、誰に何と言われようと気にもしないで突っ走ってもいいわけだった、これ

がキーポイントだったかも、映画に行こう!と思いついたら誰かを誘いすぐに名画座へ(当時は仙台市内で歩いて何分よ)

飲みに行きたい!と思ったら誰かを誘い駅前へ(仙台市内で年長のママさんが若いマスターを誘導してた店)とね、

 

20 代前半ですからタカが知れてるけど自由だった、学生アパート(米ケ袋)だった、隣の部屋はMちゃん(秋田の角館)

で、同じクラスで仲良くなって、部活も同じで邦楽同好会、何から何まで一緒に経験して、実家訪問も経て、農家の娘さん

と知りなおさら親しくなって、やはり友達の存在は大きいね~今は孤独を託つ日々で、何だか物足りないからだよね、歳の

せいにしちゃったりして~

 

そうそう未来への展望ね、今のように規制があるわけじゃなし、あの時の大きな自由は私には大事だった、あの時、深慮し

過ぎず振舞えたのは、若さという自信もあったかもしれないけど、不安が皆無だった、何より楽しかったのだよ(笑)

そんな先の事などケセラセラ~~♬とばかりに、しなきゃならないことはサッサと片づけて、その上でのことだからOK!!!

若さってつくづく失くして惜しいよ~

 

そんな超がつくほど明るい日々だったから、今の"暗澹たる日々" コロナ禍の曖昧な時間や、老いるという現実を受け止め

かねてる迷いが大きいわけよ、

農村で育って暮らした時が長いから、色んな老いを身近で学習したはずなのに、祖父母や伯父伯母、叔父叔母、歳の離れた

従兄や従姉や親戚筋の年長者や、親をさえおくったというのに、それは今の私が思う切実な老いとは違う感覚だったと今更

ながら気づくということに戸惑うのよ、

 

そう気づけば気づくほど昔が懐かしい、何とか今を充実したものにするには何に気を遣えばいいのかぁと、雨空を見上げて

ため息つく日がこようとはホンとに想定外なのよ、

 




05/10

バラの姿がその時々によって変わるように、オナゴの日々もその時々によって変わるとは気づいてたけど、色々な日々を

経験できて、考えようによっては贅沢だよね、

 

オトコは連れでオナゴは私、この記事の範疇ではね(^^ゞ 念のためです、

大まかに分ければ、自由奔放な学生&青春時代、仕事して初めて社会と関わって世の中を知る大人時代、結婚し子育てや

家庭構築のオナゴ時代、それは籠の鳥のように制限付きで我が意は不自由時代、そして家庭が整って、子らも自立して、

再び自由で忘れていた我が意を得たり時代、それは誰も同じで、籠から放たれたように集い我が意のままに時を過ごせる

大人の遊びの時間だったのよ、そして再び籠の鳥になったのは親の介護、これは選択の結果で、よそ様に預けるもあり、

自分が率先しての日々を選ぶかは意志のまま、そして老いてみてハタと気づけば自分の老後(笑)

 

自分の老後にどっぷりつかり、これも悪くはないわねと思いながら、再び意のままに過ごして、若者からはそんな我儘な

日々が過ごせるなんていいじゃん!それ以上、何を望むやと問われるほどに、これも長く続くと敢えて言葉にすればね~

「いや、他にしたいことがあるんだよ」と思ったりしてるのよ「お願いだから、これ以上面倒な希望なんて出さないで」

子らには言われそうだけど、言われそうだから言わないけど"仕事がしたい"(´∀`*)ウフフ

年上の人たちを相手に滔々と述べてる(あら まあ、職業を明記しない方がいい)様子を、会話の中身まで当時のまま

繰り返してたシーンは余程こころに残ってたのね、

実は夢をみた、元の職場で生き生きと仕事をしてて、同僚も当時のままで大きな○○室を行き来して、関係書類を手渡し

序にその後の予定を打ち合わせて、二言三言交わして忙しなく残りの仕事を終えて、4:30 pm にはバスに乗り家の前を

素通りしてぉ楽しみ会へ、20 代半ばでしたから楽しいのなんのってなかったわよ、

その時には、そんな日々は二度とこないとは努々思わずに、いつまでも続くような気分だったからおめでたかったわよ、

 

嫁にいかなきゃならない年になって、妹らから突き上げを、そしたら祖父が「順番に嫁にいけ」と言って、誰でもいい

から一度はいってダメだったら帰って来いと、こんな安易な言葉に乗っちゃって嫁にきた、

 

まあね、子らを3人授かって「私も案外やれるじゃん!」子育て街道をまっしぐら、夢は果てしなく広がって、子らを思い

通りに育て(不在がちな連れだった)母親(私ですよ、私)がしっかりしてたからグレもせず、程よく育ってくれました、

それには、子ら自身の意識の強さがあったからだとは思うけど、充実してる時って余計なことなど考える暇はなく、仕事

に邁進してるような気分で、時は素早く過ぎてゆき、いい日々でしたよ~遣り甲斐がたくさんあってね、子育てして初めて

自分育てをさせて貰ったような気がした、

 

子らが巣立って"からの巣症候群"になっちゃった!さてこれからどうする P よ!でしたよ、そこで家以外の場所で、元職

に関係のあるバイトを始めたのよ、最初は赤ペンで、そして公文の教室で、酸素が体中を駆け巡るような快感を得たわけ

同じように"からの巣"から飛び出した主婦連と、"籠の鳥"だった反動からか、皆、生き生きとしてすぐにツーカーの間柄

楽しくて堪らなかった!

 

相手になる若者たち(あら、まあ)達も一生懸命で、将来の希望や、親子の関係などを話しながらも課題を捗らせてるのを

見るだけで"私も私を生きている" なんて実感してた、その合間に若者の興味の的は芸能界ね、それも暇に飽かせテレビを

観てたのが役に立って、合いの手を入れられるので若者は喜んで、親近感を得たのでしょうか、私のエリアは煩かったよう

だけど、明るくて羨ましがられてたみたい(´∀`*)ウフフ 好きだったんだよ~この仕事、

 

その頃連れは私が不在なのを知って帰宅することが多くなったけれど、その時にはもう時すでに遅し(笑)

具体的な行動は起こさないにしても、いまさら何を?との私の気分は変わらず、子らはそれぞれの道を歩いてるんだし、

オトコが独り帰って来たって、ご飯は出来てるし、好きな野球を観てればいいじゃん!というくらいの冷たい空間よ、

オトコが初めて知った孤独感?冗談じゃない、オナゴは長い間、その孤独な空間に身を置いて、自分を捨て強く生きてたの

 

そして私は正しく"解き放たれた鳥" になって外の空気を思い切り吸い込んで楽しんだ、そりゃ家の事に手を抜く事なくね

時間が限られてると却って仕事は早く熟せるもの、おさおさ怠りないのでオトコは文句のつけようがなかったんじゃない?

そりゃ達成感の有る仕事をすれば自ずとオナゴはきれいになってゆく~~♬ってね、3年ほど続けたのよ、

05/13

WBC優勝の時に載せたマリーゴールドが、未だ華やかに咲いてるようにオナゴにも母親としての絶頂期がやってきた!

娘は 22 で卒業して半年勤務して、仕事が気に入らなかったのか辞めて「結婚する!」と言った、私は、仕事を続け乍ら

の方が後で悔いることはない(私自身の経験から)と思ってたので、そう言おうと思ってたけど、何の手助けもしない、

家にも寄り付かないようなオトコが父親面(あら、品がないわね)して言った「それはいい、早い方がいいよ」

 

無責任なオトコの謂いがちなことだなあと思ったけど、娘の祝い事にケチつけるようになるのも大人げないと思って私は

許諾し話はドンドンすすめていった、結婚式とはこうするものよ!とは言わなかったけど(笑)

 

お相手のご家族様を招いて(4名様を九州より)結納から式の相談までの予定を仕上げて、招待客も娘とその相手と私で

とっとと決めて招待状を発送して、オトコは忙しいの一点張りで口も出さずに弗も出さずに出席だけはすると(´∀`*)ウフフ

娘たちも「そんな大げさにしなくても」と思ったかもしれないけど、これは一世一代の大仕事、やらなきゃよかった!は

ほぼほぼないこと、気分良く為し終えて私は満足した、この日のた~め~に♬手ぐすね引いてた私でしたので、

 

そしてぉ式の当日に(前夜は妹の家族が泊まり込みでしたので賑やかに過ごすことが出来てホッとはしましたけど、そうい

う時にも仕事と称してオトコは不在で、全く家族という意識がすっ飛んじゃったのはこの頃からでしょうかねー笑ー)現地

集合の体で呆れました、尤も、それまでも家庭の事には無関心のようで、夫、父親の看板を下ろしたような始末でしたので

それほど驚きもしませんでしたけど、言葉にならなかった!

 

思えばお産から関与しないオトコでしたので、きっと親は諦めて何も言わなかったのでしょう、母にしたら自分の娘と孫の

ことで、しかも初孫でしたので準備万端、父も喜んで助けてくれましたよ、でもオナゴ親として娘が不憫だと思ったのか

母は真冬(2月)の出産にもかかわらず、何から何まで手助けしてくれましたよ~

実家の近くの病院での出産でしたので、もちろんオトコは関われるわけもなく、出産して2週間は梨の礫でした(怒)

父の考えは最初から"孫が欲しい" でしたので私の出産によって己が手で娘の子を抱き、しかも3人、男女とそろい踏み

だったので申し分なし、これで父自身が意欲をもって老後を過ごせると喜んで、母はもしや家の子になってもいいなぁと

思ってたと話しました、私は親がかりで子らを安心して育ててましたのよ(´∀`*)ウフフ

そして関東で学校に入れるのを楽しみに、育児に没頭してました、その時は喜びこそ多かったから、苦労だなんて思わず、

可愛い幼子をオシャレさせて赤いツインズ用のベビーカーに3人乗せて、散歩を楽しんだり、家でランチしたりしながら、

「ゆっくり子育てが出来ていいなぁ」と思い、面倒だからオトコは家に帰らなくてもいいやと思っていましたのよ、

家事育児には全く協力する気はなさそうで、気まぐれに帰ってきては茶を濁すような言動は私には理解はできず、親だけが

頼りでしたので電話で全てを解決して、強い母を続けてました~やればできる!とね、

私は F ちゃんの連れを見ながら過ごしてたので、世の中の夫なんてこんなもんなのねと、もしや学習しちゃったのよよね

しかし父性というものは余り育たないものなのかしら?母性は日に日に強くなるというのにね、

 




 

F ちゃんの方はと言えば、家族会議が開かれて私が参加したのは F ちゃんの姉が「あまりに理屈に合わなくてうちの家族は

きっと腹立ち紛れに言葉を選べなくなるかもしれないから、P ちゃん、代理になって出席して頂戴よ、お子さん達はうちで

うちの子供たちと過ごさせて貰うからいいでしょ?」私は重責を担って出陣となった、まあね、戦に行くわけじゃないから

 

その家は通りから私道を進むと両側に仕事の現場があり、対面して自宅があるような作りになっていた、仕事が大きくなっ

てゆくに従って増築を重ねたような造りになったいて、

私は緊張はしなかったのよ、そのわけは、そのお宅の仕事が私が身を置いてた職種だったからで、おそらく口では負けない

控え目な F ちゃんを守らないその夫、その両親、その当のオナゴと対面した時には礼を尽くそうと、丁寧な振る舞いをと

初対面のような気がしなかったのは F ちゃんに詳細を聞いてたし、人となりをも説明を受けてたからだと思った、

 

そりゃ相手方も「遠路(そりゃ遠路です)お出で頂いて恐縮です、息子が不出来でお恥ずかしい話です(そりゃそうね)

この度は面倒なことをお願いして申し訳ありません」その家の当主がそう言うんだからそうでしょう、

 

長四角のテーブルを挟んで向こう側にご当主、その奥さん、左手に F ちゃんの夫、左の下座にその相手のオナゴ、私と F

ちゃんはこっち側二人並んで、私は下座に座って座布団を外した、相手方は座布団に座ってたので、案外マナーは緩いよ

そう思った、話し合いというものは話し合うまでの所作を見て自分の出方を考えると思っていたので、ちょっと慇懃無礼な

私だったかも(^^ゞ

 

「こちらの方(オナゴ)はこちら様にお勤めの方ですか?初めまして」私は先手を打った、オナゴは緊張した面持ちで名乗

った、オナゴを外につくる時に何を基準にするかはない物ねだりということね、ぉ歳が上で地味な感じの女性でしたよ、

当主の奥さんが言った「この度のことは息子が不行き届きで&%$#"'*つきましては今後のことを決めて頂きたいと、

当方の希望は、F さんがどうしても家を出ると仰るようなら、うちの後継者(息子)と孫はそのまま置いて下さるように」

ちょっと身勝手な要望だったけど、それの想定内で、F ちゃんは子供たちを欲しいということと、もし相手のオナゴと別れ

ないとその夫が言うなら、それはそれでいいけれど、子たちが成人に達するまでは経済的な保証はする事と、F ちゃんの

仕事を確保してほしい旨を伝えた、

 

いい歳をして子供がいながら親の間に座って、遺志を表明もせず頷いてるだけのその夫は見込みないなぁと私は思った、

そしてその相手のオナゴも、その家業には必要な存在だと自負してるらしく、俯いてはいたけど自信があるように見えた

 

結論が出た、オナゴもそれまでのまま家業に従事する、ただし私宅エリアには入らない、その夫はその相手と別れる、

F ちゃんは今まで通り子たちを養育しながら家業での地位を確保した、F ちゃんにはその夫には未練はないけど、子たちの

ために踏み止まることにした、それで本当にいいのか?と問う私に「いいのよ、欲しかったのは仕事の続行と子らとの同居

だったから」とさっぱりとした表情で答えた、私は相手の両親に「一筆を公正証書にしてくれるように約束」をして、それ

を実行したので納得した、その後、F ちゃんは希望通りに仕事に邁進し、代表者となり拡張にも成功し、子たちも健やかに

過ごした、時には会って現状報告をするし、同学年会にも今まで通りに出席し、何事もなかったかのように暮らしてた、

何かがある毎に弁護士と密なやり取りをして怠りなくその身を確保していった、

その夫は結局はオナゴと別れられずに、かといって代表になった F ちゃんと別れもせずに、のらりくらりとセカンドの地

位に甘んじながらも孤立していった、

 

F ちゃんは家業に邁進していった、子育ても無事終了に、そしてその夫とは口を利かなくても済むような暮らしの編成に、

そのうち高齢になった舅、姑が仕事から手をひき、その代わりに F ちゃんの長男とその嫁が家業に精を出すことになって

やっと人心地がついたような、子らは現状をしっかり把握して育ったので、複雑な思いもあったようだったけど、その父に

表立って云々はせず、その相手のオナゴにも昔からいる従業員のような対応を、

それがいいのか悪いのかは別として、 F ちゃんの苦労に対しては労わりを示すので、その時はチカラを合わせていた、

 

やがてその長男とその父が営業についての方針でちょっとした諍いがあって、長男はその嫁ごの実家へ家族ごと引っ越した

その時点で F ちゃんは家業から退くことを決心して、でも離婚はせずに息子の住んでる土地に部屋を借りて住むことに、

 

なんでそうなったのかは F ちゃんが病を得たから、パーキンソン病で療養中です!という葉書が来て初めて知った私は、

驚いたけど、その方が安心して療養できると思い直して電話をした、私が北国で母の介護をしてた頃の事で、私たちも

50 代仕舞いの頃だった、

 

「P ちゃんが住んでた八戸市の◎◎◎の近くなんだよ~」と明るい声で話す F ちゃんに、偶然とはいえご縁としか言いよう

のない F ちゃんの転居先に更にビックリして、でも落ち込んでない様子に安心もしてた、

 

最後の同学年会があった△△温泉には F ちゃんも参加した、和服を着て元気そうに、楽しそうに過ごしてた、一泊して、

身支度する時にはオナゴが皆で Fちゃんの着付けを手伝ったりした、そして迎えに来た息子さんの車で帰っていった、

 

「Pちゃんの昔の家の前をバスで通ったよ」とか「Pちゃんの高校の建物が見えたよ」とかを電話で、楽しそうに話すの

で、私は安心してた、私も介護で忙しなかったので、Fちゃんとの連絡も間遠になっていた、

 

それでも懐かしかったのでしょうか、時折りは現状報告し合い合って「いつか会いたいね」と、その後、病がすすんで、

Fちゃんは入院することとなった、◇◇病院で、私の昔の同級生が勤務してたので紹介して事を運んだ、

入退院を繰り返した F ちゃんは、医療を兼ねた処にお世話になることになって「私は元気だよ、P ちゃんはお母さんを

大事にしてね、私なんてとっくに母をおくって、兄もおくって寂しいもんよ」と、私を気遣ってくれるほどだった、

 

05/19

その後 F ちゃんの婚家はどうなったのかは知らないけれど、ぉ子たちは皆その家を出て独立した、長女はアメリカでDr.と

して活躍するようになって、車いすを使うようになった F ちゃんを招待して、兄妹が同行した写真が送られてきて満面の

笑顔の F ちゃんに私は胸を撫で下ろした、

 

どうしてそんなに F ちゃんの事を気にかけるかというと、幼馴染みということは 勿論だけど、私が転校に転校を重ねる

たびに便りをくれて励ましてくれたし、北国の高校へ転校した時にはいち早く「おっかえり~~~!」と言って迎えてくれ

たし、在学中の登下校は常に一緒で、あの頃よくあった打ち明け話も しょっちゅうしてたし、お家の様子もオープンで

互いに行き来もしてたしね、

 

17 18 の頃の友人は最後まで忘れ得ぬ人というこっちゃ!お連れ様は自由奔放で、家族にガードされて好きなように過ご

してたようだけど、その陰で F ちゃんが健気に子らを護り、家業に邁進してたことを思えば、泣いてたことも度々だった

から愛おしくてならなかったのよ、同時にそのお連れの言動には、どうしても納得がいかなかった、舅、姑様にもね、

 

それで子たちが F ちゃんの苦労を労わってくれたなら、これ以上のこともないと思えた、そして電話でお子達のことや、

異国での日々を楽しく過ごしたことを尽きることなく話してくれたので、すーーーっと心の中でモヤついてたことが消えて

言葉はそぐわないかも知れなかったけど「おめでとう!」と言ったら「P ちゃん、ほんとうにありがと」と返してくれた、

 

年賀状がこないなあと、貰った年賀状を見ながら返事を書いたりしてた、しばらくしてその長男さんから葉書が、

「母が亡くなりました・・・・・・・○○○○」苗字が変わってて、そのぉ嫁の苗字に、実家から、その父から離れた事を

知った、F ちゃんは長男のぉ嫁の家の墓に眠ってる、享年73歳、早いよ F ちゃん、

 




05/10

松葉牡丹がこんなにきれいだなんて知らなかった、子供のころに見たのは一重で地味だった気がするのよ、

今日も好天ですから散歩です👟 また後でね~

 

 




 

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