益高13交遊ノート

~団塊世代の高校同窓仲間が綴る、近況報告・悩み相談・独り言・何でも"OK"の落書き帳です。~

○○の秋

2011年09月06日 | 団塊

四国や近畿では台風被害が大変だったようですが、みなさんのところは無事だったでしょうか。台風一過で朝夕は幾分凌ぎやすくなったようで、秋はもうすぐのようです。秋といえば、食欲の秋、行楽の秋、ゴルフの秋、読書の秋・・・、という訳ではありませんが、先般開催された東京益高同窓会で購入した本を紹介します。この本は東京益高会の前会長が益田にUターンされて書かれたそうです。益田の歴史や益田人の気質やこれからの益田のことなどが分りやすく纏められていました。益田には縄文時代頃から人が住んでいた跡があるようで、その頃は吉田平野は入江(古益田湖)で高津川と益田川が流れ込んでいたようです。室町時代ころにこの古益田湖の中に中州(中の島)が出来ていたようです。以前紹介した益田古地図はこの時代のもののようです。室町時代から豊臣時代のころが益田が一番輝いていた時代のようです。この地を発展させた益田氏は毛利氏に臣従しており、関が原の戦いに負けた西軍の毛利氏は萩に左遷され、これに従って益田氏は須佐に移住したため、益田は高津川を境に西が津和野藩、東が浜田藩に分割されたようです。高津と益田の文化の違いは、この頃が起源だったのでしょうか。以前、レチさんが投稿しておられた、「こいとうだお」については、越峠(俗称こいとうだお)と記述してありました。益田駅が開通した大正時代の末期に、越峠から迫山にかけて直線の道路が出来、この道筋に最初に移り住んだのが溝口家と高橋家とありました。駅が出来るまでは、吉田地区は陸地化していたが、沼地で誰も住んでいなかったようです。益田といえば「雪舟」と「人麻呂」でしたが、今は「アムスメロン」と「水仙の里」だそうです。知っているようで知らなかった益田でした。