喫茶店主との会話に学ぶ:
客商売というものは、実に、見かけだけは、自由奔放のようであっても、それが、20数年にも、亘って、生業として、人生を生き抜いてくるとなると、女性週刊誌で、面白、可笑しく、謳われるような気軽な結婚しない独身女性が、簡単に、お手軽に、小資本で、開業独立できるような代物でないことが、判る。その意味からすれば、所詮、仕事などと云うものは、いつの時代でも、隣の庭の芝生は、碧いと同じで、結局、自分でやってみて初めて、そんなものでなかったということが、実感されるのかもしれない。成る程、人生というものは、ひょっとして、或いは、仕事というものは、そんなものなのかも知れない。『私は、選択制難聴何ですよ!』という物言いにも、大変、興味深いものである。確かに、客商売などと云うものは、喫茶代金というカネを支払うのであるから、客の側にすれば、何時間でも、自分の愚痴や憂さを晴らしてくれる聴き手上手であるのかもしれないが、考えてみれば、そんなことを、毎日、毎日、365日、毎年毎年、やっていたら、まるで、こちらの『魂までも抜かれかねない』し、又、『生気がなくなってしまう』ことにもなろうか、昔の人々は、実に、今日で云う所謂、科学的な分析的な表現ではなくても、ある種の症状や現象に対して、実に、当を得た、的確な表現をしたことに、感心してしまう。そして、そうした言葉が、今日にまで、伝承されていると云う事は、如何に、多くの人が、それに、納得していたことかを考えると、実に、面白いではないか?私などは、女房殿の話を、右の耳から、左の耳へと、しょっちゅう、聞き流しているから、ストレスが、溜まらないのであろうか?今日、情報の氾濫ということが、叫ばれて久しいが、これでもか、これでもかと、毎日、毎日、情報の洪水の中で、埋没してしまいそうである。まるで、βアミロイドが、脳の中に、ドロドロになって、蓄積していくように、PCのように、古いデータの定期的な処理や、リセット・消去が、一瞬にして出来れば宜しいが、自分の脳というものは、そういうわけにはゆかないものである以上、どうしたものであろうか?店主には、一言だけ、お願いしておいた。『何度も、私が、同じことを言うようになったときには、必ず、その旨、仰って下さいね!宜しく!』と伝えておいて、店を後にした。