小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

イー・タックス申告完了す!:

2014年02月28日 | 社会戯評
イー・タックス申告完了す!:
今年の申告は、青色申告会の若い人のお勧めもあって、思い切って、パソコンに、データをインプットして、イー・タックスで、申告することにしてみた。ブルーリターンAというディスクから、青色申告が、出来るというソフトをPCにダウンロードして、(もっとも、市販のソフトもあるそうであるが、)入力に困ったときには、いつでも、青色申告会のかかりつけの担当者が、適宜、問題解決の相談と指導に当たってくれるそうで、しかも、全額、経費で、処理できるとかで、これまでの手書きとは異なり、自動的に、総勘定元帳・損益計算書等まで、自動的に、作成可能で、更には、そのインセンティブとして、控除額も増やせるメリットがあるとかで、結局、この方式を採用することにした。ただ、これまでは、カード決済に、大半の決済を充てていたので、私的な分と経費分との仕分けが、若干厄介で、この処理だけは、事前に、手計算が必要になるところがあったが、今年、実績を積めば、来年度は、同様な仕訳処理が簡単にできるわけで、なかなか、興味深いサービスである。しかも、損害保険や一部源泉徴収票などは、提出添付の如しとすれば、数字を入力すれば、税務署の方で、オンラインになっているので、トレーサビリティーも可能なわけで、至極、簡単である。減価償却の次年度への繰り越しとか、家庭と事業経費の按分設定も、期初設定で、%を決めておけば、自動的に、パソコンの方で、最終一括で、計算・計上してくれるので、更には、数字上の不具合や整合性のある場合には、チェック機能がついていて、赤字で、警告を出してくれるソフトになっている。これまでの手書きによる複式簿記などは、今や、夢の又、夢のような簡便さである。USBにデータを落として、控えを印刷して、税務署へ送信するだけのことである。確定申告の締めきり間際に、混雑したり、予約を取ったりすることもなく、何回かの打ち合わせで済むのであれば、こうした方式に、移行していくのは、時代の流れなのかも知れない。むろん、私的なデータの保護とか、セキューリティーが、必要・不可欠ではあろうが、何とも、簡便になりつつあることを実感する。何よりも、取られるだけの税金というイメージから、逆に、何とかして、取り返してやろうとか、使われ方はどうなのであろうかという、そういう税金への意識が、芽生えてくることが、まるで、頭の体操のように、自分の退化する一方の脳細胞に、指先から刺激を与えられて、年寄りには宜しいのではないでしょうか?素人にも、簡単に、対応できるよくできたソフトであることに感心する。若い将来を嘱望されている意欲的なフリーランスの独立自営の個人事業主の人には、合理的で、うってつけであろう。



マイナーな競技に考える:

2014年02月27日 | 社会戯評
マイナーな競技に考える:
随分と、マス・メディアの予想を覆して、聞いたことのない競技、所謂、マイナーな競技で、(もっとも、やっているアスリートは、決して、そうではないのであろうが、)素人にとっては、耳慣れない、又、ルールや採点方法すら知らない競技で、頑張ってメダルを取ったものである。しかも、資金集めのために、アルバイトや、海外練習のために、普段やったこともないような会社へのプレゼンテーションとか、なかなか、苦労した話を聞くと、本当に、競技生活を続けること自体が、日常生活と両立させることは、大変な苦労なのであることが、初めて、知られる次第である。既に歴史のあるメジャーな競技は、競技人口も多く、施設もそれなりに、整っていて、恐らく、協会からの補助金なども潤沢に、貰えるのであろうことは、ある程度、推測できようが、マイナーな競技は、大変であることが、これからも、分かると云えよう。どういう基準で、オリンピックに採用されるのかというプロセスは、分からぬが、ロビー活動を怠ると、レスリング騒動みたいなことになるのであろうか?それとも、マイナーだからこそ、そんなことは、まだ、ないのであろうか?それにしても、一発勝負とでも云おうか、リスクと隣り合わせたとでも云うのか、紙一重のところでの争いは、観ている方は、面白いと感じられるが、やっている方は、たまったものではないだろう。これなら、一気に、メジャー競技へと登ってゆくのであろうか?又、スキー場にも、ミニ施設などが設営されるのであろうか?どのように、これから、こうした競技がメジャーへとのし上がってゆくのか、楽しみである。Xゲームなるものも、地上波で、どこか、スポンサーがついて、観れないものであろうか?今後がおおいに、愉しみである。



「感動の押し売り」という言葉に思う:

2014年02月25日 | 社会戯評
「感動の押し売り」という言葉に思う:
タケシ流に云えば、おいらは、もう、感動の押し売りには、辟易とするんだよね!と言う言葉が、聞こえてきそうであるが、流石に、世界の北野監督という二重人格者である以上、そこまで断言してしまうと、バッシングやブログが炎上でもしてしまいそうか?歳をとってくると、何処かしら、冷めた目で、或いは、ファナティックに、熱狂する傾向、とりわけ、マス・メディアが、こぞって、感動を強要(?)してくるような、そんな雰囲気のしないでもない報道姿勢には、こちら側にも、騙されないぞという気持が、生じて来て、一人、家族の中でも、孤立しがちである。(場外からは、その通りという声が、聞こえなくはないが、)それにしても、スポーツというものは、どうして、あそこまで、アスリート個人の偉業に対して、或いは、偉業を逃した選手に対しても、家族のことや、地域のことを、あれ程までに、あげつらう必要があるのであろうか?おまけに、「感動を有り難う」とか、「元気を貰いました」等と、云われると、私などは、どういう訳か、「ある種の違和感」を感じざるを得ません。そんなに、日常生活の中で、自然の中で、感動がないのか、元気ではないのか、、、、、と。ましてや、「感動を与えたい」等という発言を耳にすると、ひねくれ者は、そんなものは、願い下げだと、思わざるを得ません。感動などと云うものは、内的なものであって、それが、言葉になり、一人歩きし始めた瞬間に、全く、別のものになってしまうのではないかと思われます。そう言えば、どこかの国の総理で、大相撲の千秋楽に、「感動した!」と叫んだことを想い出すが、、、、。とりわけ、それが、ある種のメディア操作や、ある国々での国威発揚に絡んでくるとなると、もう、年寄りは、ついてゆけなくなるのです。素直に、喜べる人は、それで宜しいではないか?それを、与えるとか、貰うとか、云う必要が何処にあるのであろうか?逆説的に言えば、日常生活の中で、感動を覚える瞬間が見いだせず、元気にも成れずに、逆に、4年に1回の非日常生活の中でしか、そういう機会が訪れないということなのでしょうか?むろん、オリンピックの感動自体を否定するものではないが、あの膨大なカネが投じられた建設施設も、実際、国有財産の不当な払い下げにより巨万の富を得た富裕層の寄附に、賄われているとかとも言われているが、この後、どれ程の人達が、リゾート地で、そんな施設を使用するのであろうか?所詮、感動とは、その裏で、ショーに費やされた巨額のカネと総動員された人々の演出された舞台をベースに、演じられた壮大な演技だったのか?それでも、感動とは、変わらぬモノなのであろうが、、、、、。何度も、何度も、これでもか、これでもかと、報道されてしまうと、考えさせられてしまう。


忘れられる権利、その2:

2014年02月24日 | 社会戯評
忘れられる権利、その2:
食べログによる投稿で、隠れ家的な店が、その独自のコンセプトが、侵害されたとかで、損害賠償請求と投稿の削除を求めて、訴訟に及んだということを報道で知ったが、確かに、忘れられ権利というものは、もっとも、この店の場合には、その権利自体が、商業マーケティング目的なものであるから、純粋な、忘れられる権利であるとは、若干、言いがたいところがないわけではないが、、、、、、それにしても、触れられたくないものを、不当に、公開されるのは、確かに、問題であろう。当然、そこには、「知りたい」という権利と、「知られたくない」権利というものとのせめぎ合いが当然あろうかと思われる。「肖像権」なども、本来、これらの範疇に入るべきものであろうし、それが、記憶という遺産にまで、進化するとなると、記憶していることと、忘れられることに関連して、若年性アルツハイマーを題材にした、映画、「明日の記憶」を想い出す。肉体的に、記憶できないようになること、忘れてしまうこと、これらは、意図的に、忘れることとは、当然、違うことになろうが、人間は、進化の過程で、「経験の継承」を、「記憶」という武器で有することになったと謂われている。良い経験でも、辛い経験でも、それは、ある種、時間の経過と共に、楽しい想い出になったり、教訓へとも、転化してゆくのであろうか?或いは、悪夢のトラウマみたいな経験や記憶は、忘れられるべきものになるのに、、、、、、。人間は、記憶し続けることと、忘れることとの絶妙なバランスの中で、生きられれば良いのにと思う。齢を重ねてくると、何もしないでも、忘れっぽくなるのであるから、忘れられる権利よりも、忘れられない権利を主張しなければならないかも知れない。社会的な弱者は、忘れられてはならないし、又、むしろ、忘れられる権利よりは忘れられてはならない権利以外の何ものでもなかろう。「声なき声」という言葉があるが、それこそ、声を発することが未だ出来る人間は、宜しかろうが、それすら出来ない人間の権利は、どうなるのであろうか?時間の経過と共に、忘れ去られる脳細胞の仕組みと忘れられてはいけないという人間の思いや想い出は、まるで、コインの裏表のような気がする。忘れられる権利、忘れてはならない事柄、忘れてはならない権利、忘れたいこと、忘れなければならないこと、そして、その対極に位置する、ひょっとして、仮にそういう権利があるとすれば、それらの義務とは、一体、何なのであろうかと、、、、、。その意味で、この課題は、難しい問題ではなかろうか。一寸、気になるところであろう。



「世界記憶遺産」と「忘れられる権利」を考える:

2014年02月23日 | 社会戯評
「世界記憶遺産」と「忘れられる権利」を考える:
アンネの日記の本が、図書館で、連続的に、破られていることが発覚したらしい。そして、この本が、一種の「世界記憶遺産」であることを初めて知ることになる。それは、人類が、普遍的に、記憶されるべき事柄に関して、記憶しておかなければならない事象を指すらしい。一方、食べログの投稿で、本来、表に出されるべきでない隠れ家が外部に、公表されてしまったことによる損害賠償を裁判で、争うことになり、あるべき「忘れられる権利」Right to be forgotten という概念と表現の自由とが、争われることになったと、、、、、。考えてみれば、前者の問題は、謂わば、人類の普遍的な文化や博愛主義、ある種の共有すべき概念を、忘れないようにすると言うことであり、片や、後者の場合には、公表されたくないことや、周知されたくないことをネット上でも、認めて貰いたいと言う、なかなか、複雑、やっかいな問題である。歴史認識というものも、ある種、こうした中でのせめぎ合いで、我々は、忘れてならない人類共通の戦争の惨禍や、災害等を、確かに、決して、忘れてはならないことであるかも知れない。逆説的に、考えてみれば、忘れ去られてしまうような事柄というものは、所詮、忘れ去られるべき運命で、その程度の価値しか無いものなのか、それとも、愛国教育や、歴史教育で、植え付けられなければならないものなのであろうか?自発性の夜側面を重視するのか、それとも、ある一定の教育等による恣意的な措置がその維持には、不可欠なのであろうか?忘れ去られてしまうことは、忘れてはならない、記憶され続けなければならないということと、実は、どこかで、コインの裏表のような表裏一体なのかも知れない、と言ってしまっては、元も子もないか?それにしても、ある種の反知性主義というか、反文化主義とでもいうのか、ヒステリックな感情的な実に卑劣な行為であるとしか、云いようがない、そういう小さな兆候が垣間見られないこともない。タリバンによるアフガンの世界遺産の大仏の爆破やナチスによる焚書にも劣らぬ行為であり、一種の反知性主義に基づく狂気のテロ行為に、類するものであろう。これは、ヒトを殺傷しない一種のテロではないだろうか?我々は、断固として、こういう小さな芽を摘み取らなければならないであろうし、許してはならない。それにしても、3.11も、原発事故の教訓も、未曾有の災害も、戦争の惨禍も、大雪ですら、我々は、得てして、忘れやすいものである。世界記憶遺産という言葉と、忘れられる権利という言葉を聞いて、そんなことを感じたが、、、、。



ベトナム向け水産物の輸出契約なる!:

2014年02月22日 | 社会戯評
ベトナム向け水産物の輸出契約なる!:
何とも、皮肉にも、瓢箪から駒ではないが、ベトナム訪問を切っ掛けに、断り続けていた、日本からの水産物の輸出、鮭・真鱈・秋刀魚・ホタテ貝を合わせて、コンテナ単位で、3月初め船積み予定で、契約することになりました。ボランティアの仕事です。根室や標津の地域振興に少しでも役立てられれば、嬉しい限りです。昔のように、何千万円単位とか、何億円とか、コンテナ何十本とかを、商売する必要がないので、気持は、楽ちんそのものですが、、、、、、、、。間違いなく、今後も、引き続き、このリピートは、なされるでしょうし、日本食の現地での家庭への浸透と共に、消費が拡大してくるものと確信します。それにしても、ボランティアですから、頭の体操のようなもので、日本での人脈と海外での人脈を、只、結びつけただけですが、信用とは有難いもので、これまでの商売の規模に較べれば、全く、お遊びのような量にも拘わらず、突破口が出来たと、喜ばれると、こちらも嬉しくなるものです。無料航空チケットを送って貰って行って来たことに対する少しでも、恩返しが、ベトナム側にも、又、日本側にもできたことは、喜ばしい限りです。この分だと、今年は、北海道へも、バイヤーのベトナム側は、漁獲時期に、訪問してくる可能性が大でしょうか?8月末頃には、来日したいと云ってくることは、必至でしょう。そうなると、又、今度は、北海道の観光旅行も、付随的に、拡大することは間違いないでしょう。又、ロイドの生チョコを大量に、お土産で買って持ち帰ることになるでしょうね。又、そこから、お金が落ちて、廻り、雇用が創出されてくれば、それも結構な話ではないでしょうか?TPPもいつも、後ろ向きな話ばかりが、喧伝されていますが、それを逆手にとって、我々は、もっと知恵を使い、チャンスに転換してゆかなければならないと思います。大手の商社が、取り扱うのには、金額が小さすぎて、メリットがないかも知れませんが、逆説的に、考えれば、だからこそ、そういうニッチなところに、商機が転がっているのかも知れません。結局原料から、今後は、並行して、加工品の供給、レトルト食品の輸出とか、次から次へ、ない知恵(?)を使えば、一歩一歩、着実に、障害となる壁に風穴を開けられるのではないかと、そんな風に、感じられます。時間は、多少掛かるかも知れませんが、そういう作業をしつこく、続けられるようにしたいと思って止みません。何せ、こちらは、毎日が日曜日ですから、急ぐ必要はありませんので、、、、、、。次は、インドネシアの鮪をベトナムへ持って行くことも、考えなければならなくなるでしょうね。或いは、ミャンマーの水産物を、、、、、、と言う具合に、少しづつ、拡がりが出てくるかも知れません。それにしても、承認指定水産工場というのは、東日本震災で、こっぴどくやられたことに、改めて、驚かざるを得ませんね。



某大手商社マン出身のシルバー庭師の友人と会食する:

2014年02月21日 | 社会戯評
某大手商社マン出身のシルバー庭師の友人と会食する:
もう長い旧い付き合いである。何年に一度かは、時々、正月過ぎには、会食を共にする間柄である。それにしても、3年前に、三女の末娘さん(享年20歳)を突然の病で、亡くされたと聞いてからは、なかなか、その切っ掛けが見いだせずに時間だけが過ぎ去ってしまったが、年賀状に、久しぶりに、「会食でもどうですか」というコメントで、久しぶりに、会食をともにすることにした。お互い、頭の髪の毛については、暗黙の了解とでも云うものか、触れずにソッとしておいたが、子会社・孫会社を終えてから、とりわけ、娘さんを亡くしてからは、シルバー人材センターの斡旋による半年間の庭師養成講座の講習を経て、庭師に、転身することにしたらしい。何とも、健康的且つ、面白い人生の過ごし方ではあるまいか!自分で、軽トラックを購入して、若干の設備投資をしながら、地元で、自分の都合の良いときに、サラリーマンの生活の時とは違い、上司や部下や、或いは、他人に、拘束されることもなく、自由気儘に、時間も仕事も、お客様も(?)選べるそうである。しかも、適当に、身体の老化も防げて、運動にもなるそうである。更に、その上、適当なお小遣い程度のお金も稼げるとかで、営業活動は、専ら、シルバー人材センターに登録されているので、自分から。改めて行う必要もないらしい。それにしても、逆年齢制限のある中高年就業支援政策であろうか?何とも、ユニークな職業斡旋ではないか?それにしても、海外駐在も経験したことのある大手商社マンが、退職後に、このように転身するとは面白いことではないか?おまけに、里山自然環境保護活動のNGO活動にも、参加しながら、生き生きと毎日をストレス・フリーで、過ごしているそうである。仕事があるときには、お弁当持参で、日向ぼっこしながら、縁側だったり、ブルー・シートの上で、食事やおやつを戴くと、、、、、、。団塊の世代も、このように、様々な社会の分野で、その隠れた、今までは自分でも気が付かなかったような能力を発揮できる場所を自ら見つけて、社会に役立てられることを見いだすことは、実に、嬉しい限りである。パチンコや非生産的な娯楽に興じるよりは、ずっと、社会貢献的ではなかろうか?欧米では、果樹や野菜の収穫ボランティア手伝いとか、田舎の町で、お年寄りが、小規模なチョコレート工場で、愉しそうに働いていたことを想い出さずにはいられない。都会の若年層貧困対策などと云うものは、どこか、ミス・マッチのような気がしなくはない。もっとも、年金暮らしの恵まれた人達だから、出来るのではないかと、云われれば、それまでであるが、個人の積極的な社会貢献への意思や熱意がなければ、こういうことも可能ではなかろう。娘さんを亡くされた年には、3.11の後に、被災地救援のために、自費で、ボランティア支援活動にも、陸前高田も含めて、各地を転々として、肉体労働もしたらしい。私には、到底、こうした肉体的な労働で、貢献できる術を持たない以上、何らかの別の形で、地域活動や地域支援活動に、関わってゆきたいものであると互いに、話し合いました。今年は、小布施の街おこしに関わっている友人を尋ねて、長野にも、是非ゆきたいとのことで、温泉に入りがてら、是非、来て下さいと、約束を交わした次第です。どんどん、こうした団塊の世代で、しっかりと、まだ、社会貢献可能な人達は、もっともっと、積極的に、様々な分野で、活動の場を見つけ、自己実現も含めて、頑張ってもらいたいものであると思いました。お互い、健康な内に、動ける間に、社会に役立てる場を見つけたいものです。もう散々、大きな組織の中で、自己犠牲と自己抑制を長い間、耐えてきたのであるから、少々、気儘に、我が儘に、やっても許されるでしょう。又、近いうちに、暖かくなってからの再会が、楽しみである。



緊急時での情報の受信・発信を考える:

2014年02月19日 | 社会戯評
緊急時での情報の受信・発信を考える:
緊急かどうか、クリティカルであるか、どうかと云うことは、所詮、客観的に、傍観者として、見ていたのでは理解出来ず、雪が見事に、溶けて歩道の両脇にしか、見当たらない以上、それは、決して、クリティカルであるとは、判断されず、情報の発信も、所詮は、そんな取り扱いしかされないものであることが、今回の深刻な雪害から、実感される。情報というものは、やはり、マス・メディア主導のある種どこかから、上から降ってやってくるものか、何処かに、テレビやラジオに、アクセスしない限り、得られないものなのであろうが、それは、緊急事態の場合には、全く、役に立たないことが、3.11や原発事故の情報でも、容易に理解出来よう。ことほど左様に、結局は、情報とは、FBやツイッターや、謂わば、個々人の有するある種のツールこそが、まるで、水玉みたいなもので、それらの点が、無数に、集まり集結して、クラウドのような雲になり、やがて、それが、雨になるように、情報も、個々の発信された情報が、ある種クラウドのようなネットワークの中に、集約されて、そこで、各地域の必要情報や道路・鉄道・空路情報などに、フィルターが懸けられて、そこにアクセスした人々に、今度は、必要情報が、逆流してゆくような仕組みが今こそ必要では無いだろうか?そして、常に、その情報は、リアル・タイムで、アップ・デートされて、生きた情報として、提供されなければ全く意味がない。面白いことに、国道18号線が寸断された情報がある一方で、サン・ラインは、除雪されて開通している情報があったものの、その先の18号との合流部分や、ICの普通道路との合流地点などは、どうだったのかという細かい情報は、結局、個々人によるFBのシェアーやら、ツイッターでの拡散の方が、ねずみ算式に、情報が、拡散されるという皮肉な結果になった。地方のFM放送やケーブル・テレビとか、ラジオ放送は、どのように、対応したのであろうか?少なくとも、馬鹿げた他人事のようなバラエティー番組の垂れ流しをみれば、一体、マス・メディアというものは、情報とは、如何なるものなのであろうか?真剣に考え直さなければならないであろう。標高900m程度の我が家のご近所へ、電話で確認して見たら、やっと、3日目で、除雪がなされたと、流石に、吹きだまりでは、1.5mも雪が積もっては、坂道や曲がりくねった小径や玄関から車の所にまで行くのには、匍って行かなければならないであろうことは、容易に想像出来よう。個々人の情報の発信というものは、とりわけ、能動的且つ、主体的な情報の発信、共有は、緊急時には、幾つかのメディア・ミックスがない限り、機能しないことが、イヤと云うほどわかった。又、それが、どこか、クラウドのようなネット・ワークの中で、自動的に、処理されて、欲しい情報に、すぐさま、アクセスできるそういう情報網こそが、緊急時は、改めて望まれるところである。未だに5日も経過しても、孤立している世帯が、2700世帯以上あるということに改めて驚く。車にも、こうなると、スマホの電源やネット接続が可能なように、常日頃から、武装しておかなければならないようである。それにしても、出来るヒトは未だ良いが、これが、80歳過ぎの一人暮らしのお年寄りやら、持病を抱えた人々だったら、数日でも、大変な難儀なことであろう。公務員の人達が、個人で、必死になって、情報を拡散している姿には、敬服するが、一体、地方の首長は、そうした情報の拡散を個人でも、市などの公式HPでも、やれていたのであろうか?詳しい再検証が望まれるところである。道路規制のありかたと共に、情報の受発信の在り方が、改めて、私には、考えさせられた今回の出来事であった。雪が溶けてしまった新宿の都庁の幹部と多摩の檜原村では、相当の認識の違いがあったのではないだろうか?どうやら、能動的な自主的な情報の発信こそが、緊急時は試されるし、その処理もおおいに、今後教訓として生かされなければならないであろう。やはり、緊急時には、1週間程度の食料・燃料等の確保と、共助・協働が、不可欠であろう。色々、考えさせられてしまった。



国道寸断の事態に思う:

2014年02月18日 | 社会戯評
国道寸断の事態に思う:
普段は、冬季でも、せいぜいが、5-10cm程度の降雪量で、冬の景色を愉しむのも良いモノであるなどと余裕のあるところであるが、これが、1m程度の積雪で、自宅の玄関から、車までの間も、自分でラッセルしないと行けなくなったり、国道で、車に乗っていて、立ち往生してしまい、3日も、閉じ込められてしまったら、そんな冬の情緒どころではなくて、命の問題に、直結することにもなろう。それにしても、一寸降り積もっただけでも、東京で、FBやツイッターを観ていたら、何とも、行政の情報伝達というものは、全く、当てにならないと云うことがこれで、イヤと云うほど、分かるであろう。せいぜいが、公務員である地方のFBのお友達が、必死になって、様々な大雪情報や交通渋滞のアップデート名情報を写真付で、或いは、動画などで、リアルタイムで、拡散したり、シェアーしたりしていたのは、印象的であった。結局、公式HPなどは、後付けだったのが、非常に皮肉である。防災無線などによる連絡などは、どうだったのであろうか?早く、詳しい検証が求められよう。まずは、自分で自らの命を守らなければならないが、自分で自分の身を守れるヒトは、良いけれども、それが、物理的に出来ない弱者は、一体どうしたらよいのであろうか?山間部の別荘内の管理事務所に電話で様子を聞いてみたら、何と、降雪量が多すぎて、除雪車が、動かせず、雪が除雪できない事態で、大きな重機の出動を要請しているところであると、、、、、、、。3日と言わず、最低でも、電気が来ない、道の除雪が出来ないという状態で、1週間程度の緊急食料も、用意しておかなければいけないのかも知れない。それにしても、地震・洪水・大雪と、次から次に、災害が襲ってくるものである。何でも除雪した雪を溜めておく場所も、豪雪地帯では、当たり前のことだそうであることを改めて知りましたが、建設業者も疲弊して、公共の除雪作業員の確保も不自由では、この先、どうなるのでしょうか?立ち往生した車も、今の法律では、勝手に、処理できないとか、、、、兎に角、様々な問題点が、浮かび上がってきましたが、情報伝達も、ソチ・オリンピックの中継よりも、(もっとも、高い放送権料を支払っているのであるから、仕方ないかも知れぬが、)もっと、テロップで、地域の交通情報を知らせる手段を考えなければ、どうしようもないですね。普段積雪量が少ないところに、一挙に、大量に長い間降ったのであるから仕方の無い部分があろうが、それにしても、災害とは、いつも、備えのないところに、集中するものであろう。もう、これは、雪害という災害・人災であろうか?何でも、他人任せではなくて、自らの生命・財産は、普段から、自分の手で守り、食料も確保して、近所とも、協力し合うことが改めて、再認識されよう。それにしても、FBやツイッターの情報は、皮肉にも、マス・メディアや行政のHPよりも、早いことが、これで、了解された。



雪が凄まじいことになっている:

2014年02月17日 | 社会戯評
雪が凄まじいことになっている:
何でも、黒潮の蛇行に伴って、それに沿って、冬場には、前線が海上を通過するにつれて、陸地側に、寒い空気によって、雨が雪に変わるらしい。成る程、陸上にかかるのと海上とにかかる微妙な違いであるのか?それにしても、今年は、2週連続して、週末に、東京でも雪に見舞われるとは、恐れ入ったものである。例年、年寄りしか、道の雪かきをしてこなかったものが、今年は、商店街の通りも、どうやら、ボランティアの協力もあってだろうか、綺麗に、歩道は雪かきが行われていて、東京都知事選挙の時も、歩きやすくなっていた。自宅の前の道も、お隣さんの若い夫婦達の応援もあったりして、今年は、和やかに、和気藹々で、坂道の下の合流部分までも、綺麗に、雪かきができた。もっとも、引きこもりがちのお向かいのお宅の若いものは、相変わらず、雪がそのままで、自分の家の玄関前を、足の不自由な年寄りが、やっとの思いで、雪かきを終えていたのには、どんなものであろうか?空き家になっているところとか、マンションの駐車場の前は、誰も、雪かきをすることもなく、毎年、大雪の後も、最後まで、雪が残ってしまっているのには、困ったものである。それにしても、高速道路で、一般道路にも、迂回できずに、そのまま、何十時間も、閉じ込められてしまったのでは、たまったモノではない。物流網は、ジャスト・イン・タイム以来、在庫を持たず、脆いものである。数日間くらいは、自宅でも、地震の際の非常食を食べて凌くらいの訓練と準備が必要では無いだろうか?地方のFBのお友達からは、次から次に、大雪の写真と雪かきの大変さが伝わってくるメッセージが、多数寄せられてきたが、見るからに、悲痛で、大変であることが伺える。腰くらいの深さまで、雪が積もると流石に、すさまじいものがあるものである。もっとも、そんなことで、困っているようでは、豪雪地帯の人々には、笑われてしまうが、、、、、。何とも、毎年毎年、雪害に弱い都市構造である。新しい技術革新で、道路の融雪とか、屋根の雪下ろしとか、何とかならないものなのであろうか?倒木とかで、電線が切れて、停電したことを経験すると、旧い石油ストーブも、簡単には、処分することはできないものである。今年は、まだ、これから、何回かは、大雪になりそうな気配を感じる。さて、陽も出てきたことであるから、スコップで、これから、道路の残雪を処理することにしましょうか?ヨッコラショと、気合いを入れて、、、、、。
PS)雪かきを終えて、戻ってきて、FBやツイッターをみると、小諸の周辺は大変なことになっていることに気付いた。国道18号線の平原交差点から先の軽井沢にかけては、交通止めらしく、各所で、渋滞やら立ち往生の車で、除雪もママならぬらしい。次々に入ってくるスマホからの写真や動画とメッセージでは、もう冬場は、カイロ・スコップ・毛布と水とチョコレートは、車に常備しておかないと外で、雪に立ち往生して、閉じ込められたりしたら、命に関わってしまう。冗談ではなさそうである。一体、国道がこんな具合だから、山間部や限界集落は、どうなってしまうのであろうか?それにしても、情報こそが命綱である。タンクローリーが来なくなって、ガソリンや灯油が不足することも予想されようか?



松井氏の指導者第一歩に期待する:

2014年02月16日 | 社会戯評
松井氏の指導者第一歩に期待する:
何でも、巨人軍の臨時コーチの役目を無事、終えたそうで、しかも、なかなか、好評のようであったそうで何よりである。とりわけ、若い選手への精神面でのアドバイスや、一寸した技術的な切っ掛けで、ひょっとすると、大ブレイクするチャンスを、この春のキャンプの中で、掴むことが出来る選手が出てくるかも知れないとおもうだけでも、嬉しくなってしまう。今や、金満と化した巨人軍は、もはや、子供の頃の巨人軍とは違って、あまり、正直云って、好きではないが、松井氏の指導者としての第一歩の仕事である臨時コーチは、多いに期待したいところである。野茂選手によるコーチングとか、これまでの輝かしい実績を残してきた選手達が、いよいよ、コーチングの勉強を引き受け始めたことは、大変興味深いところであろう。何も、いきなりでなくても、恐る恐るでも、ならし運転でも良いから、徐々に、指導者としての第一歩を着実に、歩み始めていって貰いたいところである。それが、広い意味でのプロ野球への恩返しとでも云うものなのであろうか?とりわけ、才能を持ちながらも、紙一重で、正ポジションをつかめない若い選手が、何かのアドバイスをチャンスに、紅白戦やオープン戦で、活躍することを期待してやまないところである。国内の仕事が終了したら、今度は、フロリダのヤンキースのキャンプで、臨時コーチをするらしいが、こちらの動静も、詳しく、知りたいものである。黒田やイチローや田中選手に、どんなアドバイスを行うのであろうか?日米両国を、太平洋を股に掛けて、おおいに、指導者としても活躍をしてもらいたいものであるし、新聞でのコラム欄を読む限り、本人も、相当意欲があるのではないかと推察するが、どうなのであろうか?じっくりと、勉強してもらって、再び、近い将来、指導者として、ユニフォームに袖を通す日が来ることを期待したいものである。野村の打撃理論、落合の打撃理論、そして、松井氏の打撃理論とか、それを思うだけでも、ワクワクしてくるものがある。そんなプロ野球のキャンプの愉しみ方があっても宜しいのではないだろうか?



農産物輸出が、過去最高に:

2014年02月15日 | 社会戯評
農産物輸出が、過去最高に:
円安に、為替レートがなったのであるから、当然と云えば当然であるが、それにしても、2020年までに、1兆円に増やそうとする目標に、多少なりとも、近づくことになったことは喜ばしい限りであろう。何せ、経常収支が、赤字寸前で、このままゆけば、どう見ても、経済構造の変化に伴い、海外への工場の移転が加速されて、いずれは、欧米のような経常収支赤字型の国家に変貌し、危険な国債の金利上昇を招く恐れもなくは無い。その意味からも、貿易収支の黒字基調とジャパン・ブランドによる農水産物の輸出振興は、地域振興策や国内雇用創出のみならず、縮小する一方の国内市場に対して、一種のカンフル剤にもなろうか、不当な韓国・中国の云われなき放射能汚染の輸入規制とは裏腹に、タイやベトナム・マレーシア・インドネシアでの国内市場の需要の高まりと富裕層の出現とにより、大幅な農水産物の輸出の伸びを記録したのには、それなりの理由があろう。勿論、官民挙げての、或いは、首長などによる個別の輸出販売促進策など、現地マスコミや観光客誘致とのコラボなど、私の個人的な経験から云っても、草の根での活動を通しても、十分、商機はあるかと感じられる。ホタテ貝やりんごなどが、東南アジアに、輸出されるのも頷けよう。今後は、もっと、もっと、幅広い商品の拡大が、一つ一つ、着実になされてゆくことが期待されます。ボランティアで関わるこうした輸出の活動も、きめ細かくフォローしてゆけば、着実に、風穴が空き、一歩一歩づつではあるが、拡がりをみせることが可能になろう。それを信じて、協力してゆくことにしよう。今年は、又、ひとつ、忙しくなりそうである。やはり、ゆっくり、温泉に浸かっていることが出来ぬ性格なのであろうか?困ったものである。



冬のスポーツのイメージに思う:

2014年02月14日 | 社会戯評
冬のスポーツのイメージに思う:
昔は、家族で、スキーに出掛けても、自分の場合には、1-2本を滑り終えたら、とりわけ、頂上での証拠写真を撮り終えると、もう、それで、後は、お昼のカップ・ラーメン準備係の役目を仰せつかる訳であったし、車の中で、日向ぼっこをしながら、読書・うたた寝で、スキーを楽しんだものである。もっとも、今日では、もはや、スキーも叶わず、自宅で、1人、留守を守る恰好になっているが、、、、、、。それにしても、冬のスポーツ競技とは、随分と色々な種類があるものである。もっとも、その個々の競技に対するイメージとは、全く、そのアスリートのイメージとも重なり合うところが大であって、謂わば、アスリートは、歩く広告塔の如きものなのであるのかも知れない。いつの頃だったか忘れてしまったが、たしか、ハーフ・パイプの選手で、国母選手とか云ったか(?)何とも、ヒップホップな感じで、服装で、物議を醸した選手がいたことを記憶しているが、それ自体が、考えてみれば、当時は、競技自体のイメージとダブって重なり合わされていたのかと思うと、誠に、残念である。所詮、スポーツとは、申し訳ないが、そんなものなのかも知れない。そんなイメージも、今回の若いアスリート、とりわけ、若い頃から、プロ契約したり、海外を転戦して渡り歩く生活に馴染んでいた未だ10代のアスリートは、何処か、そのインタビューの態度やコメントの質が、これまでと違っている様な感じがしてならない。何か、新しい国際的にも通用するような素養を兼ね備えた人物感・思想観が、醸し出されてくるから、不思議である。どうしたら、こんなに若い10代にもかかわらず、そうした雰囲気が醸し出されるのであろうか?まんざら、若い10代も引きこもりや若年層貧困層等の内向き報道だけではなさそうであることに、年寄りも、つい、嬉しくなってしまう。しかも、その若干、これまで、変なイメージを抱かせた選手の技量を子供の頃から、プロ契約した海外スポンサーが、学べる機会を作ったりと、成る程、随分と色々な後ろ盾が、海外遠征活動でも協力しているのであると云う事に気付かされる。2人のメダリストも共に、皮肉にも、ボードの裏には、有名な日本企業のロゴがみられなかったのは、面白いことではないか。Xゲームなども、スポーツ専門チャネルだけではなくて、どこか、スポンサーでもつけば、テレビで放映してもらいものである。それにしても、早熟系のスポーツとは、長い間、競技人生が送れるスポーツとは異なり、なかなか、それはそれで、面白いモノがあるものである。スキー場なども、考えてみれば、安全性や管理上の問題はあるのであろうが、ミニ・ジャンプ台とか、わざと、こぶを作ったミニ・モーグル練習場とか、ハーフ・パイプ場とか、工夫を凝らして、地域振興策の一環として、差別化するのも、面白いかも知れない。又、小学生や幼稚園児からでも、両親と一緒に、遊びながら愉しめれば、もっと、もっと、裾野が広がるような気がするが、、、、、観ているだけでも、4年に一度ではなくて、もっと、身近で、楽しめる工夫が必要かも知れない。ハーフ・パイプ(HP、ホーム・ページではない)という競技も、アスリートの態度一つで、大きく、マイナーから、メジャーへと変わりうる可能性があろうか?今度は、ヘルメットに、小型カメラを装着して、アスリート目線が、空中で、どのように映っているのかを観てみたいものである。それにしても、チャラチャラ・イメージから、大きく、変わったのは、私一人だけでありましょうか?高梨選手や平野・平岡選手らの10代のアスリートのコメントには、大人は、赤面せずにはいられないですね。まだ、日本の10代は、大丈夫ではないでしょうか?もっと、これを契機に、競技人口が増え、裾野が広がれば、宜しいでしょう。街でスケボーを持ち歩く若者も、少しは、これで、肩身が広く感じられることでしょう。



マネー・ミュールやビット・コインという罠:

2014年02月13日 | 社会戯評
マネー・ミュールやビット・コインという罠:
マネーロンダリングという言葉は、これまでも、分かってはいたものの、又、新手のマネーロンダリング手法として、マネー・ミュールという手法が、出て来たらしい。しかも、他人のネット口座から、不正に、詐取したお金を、これ又、お金に困った人間を使って、振り込み海外送金させ、しかも、銀行口座ではなくて、指定された資金移動業者という組織を使用して、謂わば、出し子として、手数料を支払った上で、犯罪に荷担させるという手口だそうである。それにしても、ターゲットを決めたウィルス攻撃やサイバー攻撃ではなくて、カネに困った人間を標的に、或いは、ある程度、PC操作に慣れた人間を標的にして、美味しい話で誘い出した上で、自分は、一切の痕跡を消去して、お金だけを海外で、受け取るというものだそうである。考えてみれば、そんなに、自分の個人情報を提供した上で、濡れ手に粟式の美味しい話があるはずがないわけであるが、そこは、お金に困っ手いる人間は、そういうわけにはゆかぬ訳なのであろうか?何とも、ネット・バンキングも、穏やかではない。こまめに、自分の口座の残高をチェックしておかなければ駄目なようである。フィッシング詐欺などは、まだ、子供だましのようなものなのであるのかも知れない。それにしても、横浜銀行のネット・バンキングの口座残金の抜き取りにみられるように、その富士通子会社のシステム担当部長による詐取など、全く、枕を高くして、ゆっくりと寝られない雲行きである。メールに、訳の分からぬ登録していないメール・アドレスから、写真やら、リクルートの案内などが来る度に、思い切って、すべて削除することにしているものの、最近では、iPhoneから、写真を直接、送られてくるので、発信者を登録していないと、危なくて仕方ない。いやはや、犯罪の進化は、すさまじい勢いがあることに改めて、驚かざるを得ない。それにしても、マネーロンダリングなどに、関係無い人間にも容赦なく、犯罪の魔手は、襲ってくるものなのでることは事実であろうことを再認識しておかなければならないのであろう。ビット・コインだとか、仮想の世界の通貨と現実の世界での通貨との交換性を利用した国際犯罪組織による巧妙なマネー・ロンダーリングといい、自分の世界とは、一軒無縁な世界に思えるところで、実際には、既に事態は、別の方向へ動き出していることに驚かざるを得ないのが、現実なのであろうか?ややこしいメールが、スクリーニングで、削除ボックスに入る度に、口座の残金を確認して置かなければならないのか?全く、困ったものである。利便性とは裏腹に、全く、手間がかかること夥しい。



スポーツに透けて見える愛国主義とは:

2014年02月11日 | スポーツ
スポーツに透けて見える愛国主義とは:
ベルリン・オリンピックが、ナチスによる民族の祭典であったとすれば、ソチ・オリンピックとは、ロシアのプーチンの威信を懸けた一大ロシア国家の国内外へ向けての威信発揚の愛国主義的な冬の祭典なのであろうか?それにしても、スポーツというものは、或いは、オリンピックというものは、麻薬のように、知らぬ間に、ヒトをして、民族的な愛国主義者を育てるものであろう。それは、メダルの色と数とを、その個人のメダリストの名誉に帰することなく、国家や民族へと、知らぬ間に、誘うものであろう。それは、又、戦前の植民地主義時代のメダリスト達の先例をみるまでもなく、個人の名誉による属人主義ではなくて、属国主義ではなかろうか?暇だからと云っても、流石に、深夜のライブ放送を観るわけもなく、別に、身内や知り合いが競技に参加しているわけでもないから、熱烈に応援する訳でもなくて、飽くまでも、客観的に、観戦していると、どういう訳か、解説者の心なしか、気よいというか、力みという、えこ贔屓というか、アスリートへの実力以上の過大評価というものを、感じざるを得ないのは、どうしたものであろうか?それは、まるで、サッカーやプロ・ボクシングのホームでの試合に対する異常なまでの贔屓の引き倒しとでも云うようなものに似ていようか?ワールド・カップで、せいぜいが、一度ほど、フロックで、入賞したりした実績(?)を、如何にも、本当の実力とでも言いたげなようなものの云いようである。それは、まるで、客観的に、物事を見ると云うことではなくて、まるで、ある一定の結果を期待して、それも、素人目にみても、分かりそうなくらい分かりやすい法外な結果を期待して、願望がいつの間にか、一人歩きして、動き始めるかの如くであろう。そして、更に、悪いことに、厄介な民族主義と愛国主義とが、加わると、もう、まるで、太平洋戦争の時のような実力を知らぬ「大たわけ」が、マスコミにも、街頭にも、インタビューにも、堂々と踊ることになろう。まぁ、文部省のスポーツ予算配分獲得のためには、こうした世論操作も必要不可欠なのではあるのかも知れないが、、、、、、、。別にマイナーなスポーツが、悪いと言っているのではないが、それにしても、様々なマイナーな冬のスポーツがあるものである。或いは、新しいスポーツがあるものであると言った方が当たっていようか。よくまぁ、あんな急な傾斜のある坂道を下りおりて、今度は、急角度の坂道のスロープを登って、しかも、加速をつけて、障害物を乗り越えた上に、まるで、猫が空中で身体を捻るようにして、何回転もしながら、しかも、平地に、着地するのではなくて、鋭く傾斜する斜面へ、着地するとは、、、、、もう、驚き以外の何ものでもない。さすがに、スケート・ボードは、知っているが、ここに至ると、究極の曲芸というか、スポーツも極まれりという感がなくはない。アスリートの国籍とか、民族ではなくて、その個人のプロフィールなどが、もっと、詳しく、紹介されて然るべきではないか?一体、このアスリートは、どんな職業のヒトで、何を契機にして、このスポーツを選んだのか、どのようにして、この技を習得したのか?練習は、何処でしているのか?どのような練習を積んだら、こんな技が出来るのか、、、、、、、等、順位ばかりでなく、そんな競技の愉しみ方が開設されても宜しいのではないだろうか?又、採点の基準なども、今ひとつ、素人には、解りにくいところもあろうか。若い競技者が、もっと裾野が広がるような報道が望まれるところである。アスリート個人の名誉を助長するのではなく、ひたすら民族主義と国威発揚の為の過大なえこ贔屓な、過剰な期待をそそのかすような解説は、願い下げであろうかと思われるが、如何なものであろうか?オリンピックの競技解説というものは、どうも、親しんでいる野球やサッカーとは、どうも、違うような気がしてならない。